3
自室へ戻り、乱雑に上着を脱ぎ棄て、そのままベッドに倒れ込む。最近は殆ど立て込んでいなかったものの、何故か並々ならぬ疲労感を覚えていた。それは多分アイリスの言う恋とか愛とか、そういう浮ついた言葉のせいだと薄々勘付いていたものの、どうしても認めたくない。これらの言葉は、即ち“彼女”を想起させてしまうからで。南西戦争時の苦い、いや残酷な記憶が蘇るからだ。大きく息を漏らして、天井を見上げる。この家は旧世界の遺物を改築したもので、壁紙や天井は張り替えたものの、なんとなく古さを覚えさせた。対して長く居住していないのに、安価な紙を利用したからか、天井は多少黄ばんでいて、時の経過を意識させる。デイジーとここで暮らし始めて三年が経つ。そしてアイリスが加わってからも、数か月が経過していた。その残虐なまでの時の流れは、しかし悲しみだけではないと信じたい。デイジーはアイリスが使用人として家に入ってから笑顔が増えた。そしてアイリス自身も現状に満足している。なら俺は? 俺は今の生活をどう思っている? 不満か、満足か。その答えを得ようとして、自分がとても野暮な考えを起こしていることに気が付く。若干焼きが回ったか――瞼に重くのしかかる精神的な疲労から逃れるように、静かに瞳を閉じる。柄でもないこと思考するのは、きっと疲弊しているからだ。それはやはり肉体的な要因ではないだろうが、多少休めば改善する。そのような安直な対処法は、戦争時に培ったものだ。そうしてまた彼女のことを思い出しそうになって、軽く頭を振る。寝てしまおう。きっと夜にでもなれば、馬鹿なことなど忘却している。そう踏んだ俺は、これまた南西戦争時に会得した睡眠技術をこれでもかと駆使し、入眠に努めた。すると三年が経過した現在でもその技術は健在だったのか、それともやはり疲れていたのかは不明だが、すぐさま眠気が襲ってくる。そうして俺は脳内の睡眠物質に身体を委ねて、そのまま眠りの淵へ誘われた。
どれくらいが経過しただろうか。具体的な時間の流れは不鮮明だったが、きっと夕食時まで眠っていたのだろう。ぼんやりとした意識の覚醒を自覚して、ゆっくりと瞼を開く。ぼやけた視界が黄ばんだ天井を捉えて、自分が今寝室に横たわっていることを理解する。まだ覚醒しきっていない意識を転がして遊んでいると、不意に出入り口の扉が軽くノックされ、こちらの返事を待つことなく控えめに扉が開かれた。
「ドッペル。起きましたか?」
声色的にアイリスらしい。彼女はリビングからの逆光でその表情を読み取ることはできないが、こちらの様子を確認し、足音を殺して寝室に入ってくる。何となく覚醒を悟られるのが癪に思えたので、目を瞑って狸寝入りを敢行するが、
「起きているのは分かっています。呼吸の変化から、人間の状態を知覚できるようプログラムされていますから」
どうやら、普段はポンコツな癖にどうでも良いところで無駄な機能を発揮したらしい。大きく息を漏らしてアイリスの方を見やると、カーテン越しの月明りで、彼女の顔立ちが良く読み取れる。相変わらず常識離れした美貌だが、機械人形だから再現できる美しさであることを思い出し、顔を背ける。
「夕食の準備が整いました。本日は私が料理しましたので、是非ご賞味されるとよろしいかと。デイジーも待っています」
少し自信ありげに聞こえる口調に、何となくおかしさを覚える。そもそも機械人形が料理に失敗したという事実があり得ないのだ。上達したとかしない以前に、食材を灰塵に変える才能を見直した方が良いだろう。
「ああ。すぐ行く」
ぼんやりとアイリスに連れられて食卓へ赴くのが嫌だったので、寝返りを打ってぶっきらぼうにそう呟く。そういえば、そもそも昼間に雑な対応をしたままアイリスとは別れていた。俺自身は今の今まで完全に忘れていたが、アイリスはもちろん覚えているだろう。しかし普段通りの対応を行ってくれるところは、機械人形の利点とも言えた。
「……ドッペル。少しよろしいですか」
するとまだ何か要件があるのか、アイリスは小さく紡いだ。
「……何だ?」
若干面倒に思いつつも聞き返すが、アイリスはすぐに返事を返さない。何事かと多少不安に思ったところで、彼女は細々とした声色で言葉を発した。
「――その。ドッペルの予定が空いている日に、街の方へ出かけませんか?」
アイリスの提案を聞いて、少しだけ拍子抜けする。何かもっと重大な事柄を告げられると考えていたから、逆に面食らってしまったのだ。
「買い物なら別にいつでも行けるだろう?」
適当にそう返すが、彼女の髪が揺れる音が響く。どうやら首を横に振っているらしい。
「いいえ、違うのです。その、買い物ではなく。……デイジー曰く“デート”というものを、やってみたいのです」
アイリスの言葉に、俺は無言で彼女の方へ寝返りを打ち、表情を確かめようとする。だけどアイリスは少しだけ俯いてしまって、月明りからその面持ちを確かめることはできない。
「どういう風に吹き回しだ?」
突くように鋭く尋ねてみると、アイリスは無言のまま、ちょっとだけ視線を逸らして、
「……デイジーに尋ねたのです。恋、いいえ愛を知るにはどうすれば良いのか。すると彼女はドッペルとデート、という行為をしてみると良い、と仰いました。私のメモリに記録されたライブラリを検索しましたが、恋や愛という言葉は記載されていなかったので尋ねる他なかったのですが……何か間違いがありましたでしょうか?」
デイジーの差し金だと知って、あからさまに溜息を吐いてしまう。あいつなら言いそうなことだが、あまりにも感化され過ぎている。アイリスにしてみれば、人間らしさそれ即ち愛、というイコール関係に帰結したのだろうが、その証明に付き合わされる身にもなって欲しいものだ。
「……年頃の女の子に聞くべき文言じゃなかったな」
「どういう意味でしょうか?」
本当にこちらの言っている意味が分からないらしく、アイリスは疑問符を浮かべている。そんな様子に加えて再度溜息が漏れ出そうになるが、それも阿呆らしいので止めた。とにかくアイリスは俺と遊んで愛についての造詣を深めたいらしいが、こちらとしては機械人形と遊んだところで面白いことは何一つない。
「そうか。だがまぁ、俺も忙しいんでな。悪いけど――」
そこまで言って、アイリスが顔を上げる。その表情は月明りに照らし出されて鮮明に投射された。
この面持ちは、なんだろう。とても胸に詰まされるものがある。ここまで微妙な、かつ心を揺さぶる表情は人間でも中々できたものじゃない。そのように、胸に訴えかける沁みるような表情を目の当たりにして、否定の言葉は肚の奥へ引っ込んでしまった。
「――わかったよ。俺は別に空いているから、お前の暇な時で良い」
「ありがとうございます。デート、楽しみにしていますね」
アイリスはそう言って深々と頭を下げると、用事は全て済んだのかそのまま寝室から出ていく。その後姿を俯瞰的な心持ちで眺めながら、なんだか面倒なことに巻き込まれたと悟るのだった。