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「――ペル。――ッペル」
曖昧に弛緩した自意識の中に、音律を奏でるような声色が混在していた。美しい調べは最奥まで沈殿した意識を次第に覚醒させるようで、全身を水深の底から浮上するような感覚が抱擁する。まだ輪郭を維持できていない脳が段々と現実感を取り戻し始めて、堅く閉じられた双眸の感覚を回帰させた。
重苦しい瞼を緩慢な動作で開く。すると視界が徐々に蘇生して、眼前の光景を、視覚情報として脳味噌に伝達した。
金糸を編み込んだかのような淡麗な金色の髪。そして青ささえも覚えさせる、透き通った白い肌色。その表面に、黄金比がごとく陳列された顔の部品は、現実の創造物とは到底考えられない耽美さを演出していた。
「ようやく目醒めましたか、ドッペル」
甘く、そして洗練された声色はもちろん合成音声であり、その声色の持ち主はこちらの視界の殆どを埋めていて、くっきりとした碧い瞳が、こちらを控えめに覗き込んでいた。
アイリスはこちらの覚醒を確認したのか、接近させていた顔を少しだけ離す。そして彼女は寝室の出入り口に視線を移した。
「デイジーの朝ご飯が冷めてしまいます。迅速に起床されるのがよろしいかと」
短く呟くと、流麗ささえも感じさせる挙動で、静かに寝室から退室した。そんな彼女の後姿をぼんやりと見つめて、溜息を漏らしつつ上体を起こす。
淡い朝の陽光が、焦げ茶色のカーテン越しに差し込んでいる。その温かな光は寝室の内部を優しく照らし出して、起床時特有の気怠さを導き出す。殺風景な部屋は寝床以外の機能を完全に廃絶しているようで、デイジーから多少は趣味を持つことを勧められていた過去を想起させた。元少年兵、つまり生き残りは心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDを発症するケースも少なくない。だけれど、人間らしい趣味趣向の持ち合わせがなくとも、平然とした心持ちで日々を過ごせているという事実は、何事にも代えがたい平穏のように思えた。
ベッドからゆっくりと立ち上がり、まだ平衡感覚に欠陥がある状態で、アイリスが丁寧に閉じた扉へ向かっていく。そしてその扉を静かに開くと、当時に香ばしいスープの香りが漂ってきた。
「あ! お兄ちゃんおはよう! 珍しいね、いつもはもっと早いのに」
視界に映るダイニングで、こちらの登場に際してデイジーが律儀にも挨拶を行ってくれる。その隣でダイニングテーブルへ朝飯の配膳を続けているのはアイリスだ。俺は無言を返事にしつつ、そのままテーブルの座席に腰掛けた。
「昨日はお疲れ様! アイリスから話を聞いたけど、色々と大変だったみたいだね。――ささ、美味しい朝ご飯でもたくさん食べて、気分転換しよう!」
飯の配膳が終わったのか、笑顔のデイジーは向かい側の座席に座った。そしていつも通り、アイリスは俺の背後に待機する。相変わらず煩わしいこと限りないが、やはり指摘するのも面倒なので黙っておく。
「いただきまーす!」
「……いただきます」
食前の挨拶を交わし、デイジーが嬉々として自分で焼いたであろうベーコンエッグを頬張り始めた。そんな微笑ましい風景をぼんやりと眺めつつ、右手側に配膳されたコンソメスープに唇を付ける。
「――お兄ちゃん!」
不意に、デイジーが声を掛けてくる。
「……なんだ?」
「美味しい?」
その言葉に、手に持ったスープの器を一瞥してしまうが、
「……ああ」
「そっか! 良かったぁ! 今日は玉ねぎも入れてあるからね!」
彼女の笑顔を視界に収めて、自分がようやく日常に戻ったことを強く意識する。それほどまでに昨日の作戦には精根使い果たしたようで、自然と溜息が漏れ出てしまう。
「ドッペル。疲れが顕著なようです。肩でもお揉みしましょうか」
背後から、頭痛の種である張本人が提案する。舌打ちしたい気分を抑えて、
「結構だ」
「……了解しました」
間を置いて返事をしたアイリスを思考から排そうと努めるが、
「ねね、お兄ちゃん! やっぱりあたしの言った通りだったでしょ?」
「……何がだ?」
「アイリスのことだよ! 連れて行って正解だったでしょ? お兄ちゃんだいぶピンチだったみたいだし! アイリスもありがとうね! あたしとの約束、しっかりと守ってくれたもんね!」
「――いえ、感謝される程のことではありません。私は自分の使命を全うしたまでのことですから」
相も変わらず頭の痛い会話を交わす彼女らだが、指摘するのは止めておく。アイリスはこちらの命令――一人で脱出しろという命は反故したものの、デイジーとの約束は果たしたのだ。文句の一つでも垂れたいところではあるが、実際に俺はアイリスに間一髪のところを救出してもらったため、流石に不平は言えなかった。確かにあの場でアイリスという存在が無ければ、今頃どうなっていたかわからない。そういう事情もあって、今回は大人しく口を噤むことにした。
「それに任務にも成功したんでしょ? 流石お兄ちゃんとアイリス! 二人揃えば完璧だね!」
まるで一人では不完全と言わんばかりの言い草だが、否定できない部分もあるので黙っておく。だけれどそれ以上に耳に痛かったのが、任務に成功したという一言だった。
「……いえ。当初の目的は未達成ですが、計画的には成功したという側面もあります」
「――え? どういうこと? 良くわからないや……」
えへへ、と可愛らしく笑うデイジーを見やって、悔しさから唇を噛み締めてしまう。
昨日の作戦。ビニグナス大佐を保護するという任務は、結果的に失敗に終わった。しかし屍肉喰いから直々に下された本来の目的であるビニグナス大佐の暗殺という使命については、間接的に(不本意ながら)達成する。厳密にいえば、大佐を殺害したのはメリディオンの部隊だが、細かいことはこの際思考から除外するべきだ。まず間違いなく部隊をホテルへ派遣させたのはカリダスという屍肉喰いの高官だろうが、彼の思惑としては、第一にビニグナス大佐を確実に暗殺することと、第二にその責任をリベルタスに擦り付けることだろう。リベルタスの刺客がビニグナス大佐を暗殺したという構図をでっち上げるのが彼の理想だろうが、その謀略は恐らく失敗に帰した。それはビニグナス大佐の一件に関して、メリディオンの部隊が直接目撃したのがアイリスだけだからだ。彼女は金髪の機械人形であって、傍から見ればメリディオン人に映る。リベルタスがメリディオン人の暗殺者を雇うという与太話は現実的ではないので、事実のみから語るのであれば、リベルタスに責任を押し付けるのは不可能に近い。まぁカリダスという男ならいくらでも事実を捏造して報告しそうだが、最低限こちらにも反駁材料はある。そもそも俺はビニグナス大佐以外の人物に目撃されていないわけで、ヴェントゥス人が関与しているという事実は生起しないし、リベルタス側も体裁的には外部業者を媒介していることになっているから、即座にリベルタスを槍玉に挙げることは難しいはずだ。最終的にビニグナス大佐という人物を永久に喪失するという痛手を負ってしまったが、リベルタスは首の皮一枚繋がったという間一髪の結末であった。
こちらの異変を知覚したのか、デイジーが居心地悪そうに愛想笑いを浮かべる。その痛々しさに罪悪感を覚えて、話題を転換しようと思った時だった。
「しかしながら、結果としては妥当なものであったでしょう。本来の依頼は成功したと表して問題ありませんし、ドッペルも無事でデイジーとの約束も守れました」
アイリスの言葉に、聞き捨てならない文言を感じ取る。疲労が蓄積していたから、そのちょっとした認識の齟齬は神経を逆撫でするには十分であって。
「――お前、今妥当と言ったか?」
背後に視線を送り、機嫌悪く睨みつける。だけどアイリスはこちらの心情を察せていないのか、全く態度を変えずに続けた。
「はい。メリディオンから直接依頼されていた内容は達成しました。リベルタスの本命に失敗したことは不本意ですが、妥協できる結果でしょう」
気が付いた頃には、アイリスの胸倉を乱暴に掴んでいる自分がいた。座席から勢いよく立ち上がった関係で、木製の椅子はこちらの足に跳ね飛ばされ、床板に音を立てながら倒れる。怒りのボルテージは最高潮まで上昇していて、既に自分では制御不能に陥っていた。
「大佐の死を妥当なんて安易な言葉で片づけるな! 彼は俺が戦闘状態に陥ったから、それを留めるために勇敢にも声を上げたんだ! 子どもを撃つんじゃない、子どもを殺すなって叫んでだ! そうやって亡くなった人間を侮辱するような発言は撤回しろ! 今すぐにだ!」
「お兄ちゃん! やめて! やめてよ!」
「お前は作り物のガラクタだから、人の心や志なんて不可視の存在は理解できないかもしれないがな! 俺達には信じるべき意志がある! その思いを貫いた人間の死が妥当だと! ふざけるのも大概にしろ!」
「お兄ちゃん! お願いだからやめて! やめてよぉ……」
ふと、洋服の裾に縋りつきながら鳴き声を上げるデイジーの存在を認識し、卒然我に返る。しかし内なる怒りは未だに沸々と脈打っていて、俺は悔しさに唇を噛み締めながら、アイリスを突き飛ばした。
アイリスはふらふらと後退し、ダイニングの壁に背中を付く。そして平穏だったダイニングには、デイジーのすすり泣く声だけが響いていた。しばらく誰も声を上げずに、ただすすり泣くデイジーの声が反響していたが、
「――りません」
アイリスが俯きながら、か細く声を上げた。
「――私は機械人形ですから、人の心はわかりません。ビニグナス大佐という暗殺対象に感傷を抱く意味も、志や意思という目に見えない存在も。所詮私はプログラム通りにしか動けない、ただの人形ですから」
アイリスは未だに俯いていて、彼女の表情を視覚的に読み取ることはできない。しかしなぜだろう。彼女の言葉からはどうしてか悲哀に近しいものが感じられて。それはきっと、沸騰した頭が誤認しているまやかしなんだろう。機械に心なんて高尚なものは存在しない。だから人の思いや、願いなんてものもきっと理解できないのだ。しかし、そこでふと思った。アイリスは人の心がわからない。だけれど彼女は俺の心情を理解しようとして、いや、勝手に読心して行動を起こした。それは機械という一つのイデオロギーが、人を理解しようと試みているのではないかと。そんな突飛な発想を起こす自分に嫌気がさして、そのままダイニングを慌ただしく後にするのだった。