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いつしか花も芽吹くから  作者: 柚月ぱど
第一章
10/46

8

 黒々とした天球に、無数の星々が輝いている。星は数えきれないほど夜空に浮かんでいて、その一つ一つに細かな色彩があれど、その色調の差異を認識することはできない。オリオン座のベテルギウスは超新星爆発を既に実行していた、という噂がまことしやかに流布されているが、地球から件の恒星は六百光年以上もの距離が存在し、その実を確認することはできない。空に輝く星々の中にも、ベテルギウスのように息絶えているものの、未だに燦然と地上を照らしている残滓はあるのだろうか。柄にもなくそんなメルヘンチックな思考を巡らせてしまうが、現在は状況下であって、そんなたわいもない夢想に心を簒奪されている場合ではない。


 鈍く輝く天球から視線を外し、現実の景観を見据える。ヴェントゥスの首都、セントラムにはまばらな灯りが宿っていて、その暖色の光は内なる眠気を誘発した。真夜中であるからセントラムの往来には人影が殆どなく、とても閑静なものだ。しかしメリディオンの警邏が逐一周囲の監視を実行しているので、下手に発見されれば職務質問は免れない。こちらの行動に瑕疵が少しでも存在すれば、国家維持法の下、拘束されてしまう可能性もあった。


 セントラムの大通りから、注目対象を別の箇所へ移動させる。双眸が捕らえたのは大柄な宿泊施設であって、要人御用達のホテルであった。件の施設も橙の光を発していて、こちらの緊張感を少しだけ弛緩させるのだ。


 今回の目標は、メリディオンの陸軍司令部参謀長官、そして同政府の国務長官を兼任する、ヴェントゥス親国派のビニグナス大佐の暗殺だ。同国の屍肉喰い(ジャッカル)――もとい特殊作戦群から半ば脅迫じみた委託を受け、表向き外部業者であるこの俺が、作戦に従事している。ガーベラとの協議で、ビニグナス大佐暗殺に際して、敢えて殺害する必要性は皆無との結論に達していた。ガーベラにとって、いや俺を含む城塞都市アースの住民にとって、ビニグナス大佐は敵国の将校とあれど恩人である。暗殺を依頼されているとは言え、屍肉喰いの連中の目的はビニグナス大佐を政治的に失脚させることだ。つまり表舞台から抹消すれば満足なわけで、恩義ある相手を殺すのではなく、リベルタス自警団が責任を持って保護するという結論に至った。まぁ実を言えば殺害してしまった方が彼の生存を隠遁するコストを考えると現実的なのだが、そこは義理堅いガーベラのことだ。俺としてもむやみやたらに殺人は犯したくないわけで、多少のリスクを背負わねばならないものの、ビニグナス大佐の保護は妥当である。外交的交渉に比較的有効なビニグナス大佐という人物を政治の舞台から引き下ろすのは痛手だが、アースの独立維持と天秤にかければ、致し方ないことだろう。そして今回の作戦は、普段以上に重要度が高く、失敗に終わるわけにはいかない。もしこちらの行動がメリディオン側に露見した場合、アースの存在に危険が及ぶ。リベルタスが直接的に関与している状況は免れてはいるが、屍肉喰いの連中のことだ。いかにでも事実を捏造して、政府にでっち上げることが可能である。そう言った意味でも、作戦に従事している人間はその存在を悟られるわけにはいかず、決して素性に繋がる痕跡を残すわけにはいかなかった。


 軽く息を吐いて、早いことヴェントゥスの評議会でセントラムを訪問していたビニグナス大佐に接触したいところだったが、そこで隣に待機している不確定要素イレギュラーの実在を思い出す。今からでもアースに更迭してやりたいほど頭が痛いが、既に状況に巻き込んでいる以上仕方ない。俺は再度溜息を漏らすと、隣に佇む彼女に忠告する。


「何度でも言うが、俺の命令は絶対だ。いついかなる時でも、俺が直接口にした命令だけを忠実に実行しろ。読めもしないのに読心して、独断専行するのは一切禁止だ」


「了解しました。今回の任務に際しましては、直接の命令のみを実行します」


 重苦しく頷き、アイリスから視線を外す。ガーベラから本作戦を委託された日の夕食時に聞いた事実。アイリスが軍用目的の戦術機械人形だという真実。こちらを指揮官コマンダーと呼称することから想像が不可能だったわけではないが、それでもその事実は衝撃的な印象を与えて、そしてデイジーの心を曇らせるには十分だった。デイジーとしては、アイリスを可愛らしい使用人ロボットだと勘違いしていた節があるが、ところがどっこい、血生臭い殺戮人形だと気が付いて、やり切れない思いを抱えたらしい。まぁデイジーの甘い部分としては、気まずく思ったのは数瞬だけで、その後は普段通りアイリスを接してあげたことか。アイリスが実際に戦闘へ参加していたかは不明だが、彼女は既に多くの殺人を犯した可能性だってあった。だけれどデイジーは詳しい事情を聞かずに、アイリスを自分の家族として迎え入れたのだ。それにはきっと、デイジーの過去が関わっていて。唇を噛み締める思いを抱き、その感情を思考から排する。今は考える必要のないことだ。結局デイジーはアイリスが作戦に同行することを二つ返事で承諾した。それは兄貴である俺を守ってくれるのなら、是非頼みたいという意図があったかららしい。アイリスの方もデイジーに俺の無事を確約し、握手を交わしていた。まぁ、ポンコツアンドロイドに守護されなくても、一人で任務を完遂する自信は当然持ち合わせているのだが。


 ビニグナス大佐は十中八九この宿泊施設に滞在しているはずだ。そのインテリジェンスはリベルタス自警団、いやガーベラからの情報であって、確実性の観点から鑑みるに非常に正確性が保証されたものだと判断した。ガーベラは俺と同じく従軍経験があって、情報作戦部所属であったから、情報戦の基本的なノウハウは熟知している。今までの任務でもガーベラから提供されたインテリジェンスに瑕疵が残っていたことは少ないし、今回の作戦に関して言えば、通常以上に慎重を期すはずだ。だからこそ彼女の情報には確かな信頼を置いているし、そもそも情報が間違っていたら作戦は頓挫する。信じる他ないというのが実情だが、それ以上にインテリジェンスの提供がガーベラであったからこそ、下心なく信用できる側面があった。


「無線は繋がるな? 作戦は先に話した通りだ。メリディオン人と誤認されるアイリスがロビーに進入。フロントからビニグナス大佐の滞在場所を聞き出せ。その後俺が当該の部屋に侵入。ビニグナス大佐を説得して、脱出する。お前は目について構わないが、ヴェントゥス人である俺は姿を晒すわけにはいかない。そのことを念頭に置いて行動しろ」


 こちらの指示に対して、アイリスはしっかりと首肯した。少し不安要素はあるものの、戦術的プログラムを施されているという発言を信用して、登用することにしたのだ。一応、彼女の役割は代わりが利くものだ。もし滞在部屋を聞き出すことに失敗しても、こちらが業務員から直接聞き出せば問題はない。多少のリスクは免れないものの、アイリスが必要不可欠という計画立案は危険であった。アイリスがもしミスを犯しても、こちらでカバーできれば作戦は成功する。しかしアイリスという駒が存在する以上は、楽に事を進めるべく、上手く利用すべきだ。


「行ってこい」


 指示を出すと、アイリスは軽く頷いて、そのままホテルのエントランスへ向かって歩き出した。粗末な恰好をしていては衆目を集めるので、ある程度の生活水準を満たしているように映る服装を着せている。今のところ周囲から悪目立ちしている様子はない。彼女が視界から消えるのを待って、俺はホテルの裏手に隠れることにした。


 これから先は、アイリスからの連絡を待つほかない。ホテルの付近に身を隠しているだけでリスクはあるが、後に内部へ侵入することを鑑みれば致し方ないだろう。願わくば早急にビニグナス大佐の現在地を連絡して欲しいものだが、彼は恐らくVIP待遇であろうので、従業員がそう簡単に居場所を漏らすとも思えない。ホテルスタッフの質が試される作戦ではあったが、果たして上手くいくだろうか。


 しばらくホテルの裏手で身を隠していると、腰に提げた通信機――トランシーバがノイズを発した。素早く通信機を取り上げ、アイリスの報告を待つ。


「――申し訳ございません。指示通りスイートルームの空き状況を尋ねましたが、一か所空いているという情報しか得られませんでした」


「空室のスイートルームは東西どっちだ?」


「東側だと仰っていました」


「十分だ。そのままフロントで待機しろ」


 下調べの段階で、このホテルにスイートルームが東西で二か所存在していることは確認済みだ。その内一か所が空いているとなると、埋まっている方はほぼ間違いなくビニグナス大佐だろう。彼がスイートルームに宿泊する確率は、以前セントラムを訪れた時の記録から保証されている。元々は二か所を順番に調べるつもりだったが、アイリスの情報で、ビニグナス大佐の滞在場所を正確に割り出すことが出来た。二か所を調べるリスクより、一か所に絞り込めた場合の危険度は段違いだ。後は誰にも存在を感知されないようにビニグナス大佐に接触し、身を引くように説得するだけである。


 通信が終了したのを確認し、そのままホテルの裏手にあった搬入口に接近していく。搬入口はごみ出しも兼ねているのか、小振りな出入口も設置されている。自分の姿を晒せない以上、ここから侵入した方が安全だろう。


 心を決めると、静謐に、かつ迅速な歩行で出入口へ迫っていく。今のところ人影はない。ホテルに侵入してからは臨機応変に立ち回らなければ危険だったが、その手のノウハウは会得しているので、変に身構える必要はない。普段通り、とても日常的なアクションを行うという心持ちで、出入口の施錠を確認する。案の定ロックは施されておらず、速やかに内部へ潜入することに成功した。この手のホテルは警備が厳重な可能性も考えられたが、普段使いの出入り口は、効率性の観点から施錠がなされていない場合も少なくない。もし鍵が掛けられていた時は別の手段を講じなければ侵入は困難であったが、今回は幸運と言えよう。


 昇降口の内部は無骨なコンクリートが剥き出しの状態で、宿泊客の目に映らない部分は予算を削減していることが窺えた。このご時世鉄筋コンクリート製の建造物を作るにはある程度の財力が必須だが、ここの支配人、いやオーナーは比較的経済力に富んでいるらしい。


 施設に不法侵入している以上、現状で発見されれば即通報されてしまう。もしくはその場で拘束されてしまうかどちらかで、絶対に発見されるわけにはいかなかった。ここから先を進んで、ビニグナス大佐が宿泊しているスイートルームに到達するためには、当該の部屋が用意されている最上階まで歩を進める必要がある。だけれど内部の人間に一切見つからずに目的地まで辿り着くのは困難を極めるだろう。そうなれば逆に“発見されても問題ない”状況へシフトするべきだ。


 搬入口から内部へ侵入して、まずはスタッフルーム、もしくは従業員更衣室を目指すことにする。先んじてホテルの従業員の制服を奪取し変装することで、カムフラージュを施すことが出来る。洋服を入手できれば多大なアドバンテージだが、目標地点に到達するまでが問題だった。


 裏口から廊下を慎重に進み、内部構造を頭に叩き込む。脱出する際にどのようなルートを辿るか現時点では不明だが、ある程度の地理的情報を仕入れておいた方が身を救う可能性もある。そんなこんなで存在感を限りなく薄めながら行軍を続けていた段階で、曲がり角の先に人の気配を感じ取る。


 すぐさま身近な段ボール箱の陰に身を隠し、様子を窺う。粗野な壁紙に黒い人影が映り、こちらへ進行して来ているのがわかった。この場所に立ち入れる人物というのは限られているから、十中八九従業員か何かだろう。そこで俺は素早い判断を下す。腰に提げた細身のナイフを逆手に握って、壁に背を預ける。そして対象が通り過ぎたところで、音もなく背後からホールド・アップを敢行した。


 白銀に鈍く煌めくナイフを首元に軽く触れさせ、対象に現状を把握させる。彼は自分がいかなる状況下に置かれているか理解したようで、細く息を吸い込んだ。


「殺すつもりはない。聞きたいことがあるんだ。答えてくれるな?」


 彼は無言で激しく首肯する。従順な態度に内心安堵し、言葉を続ける。


「今夜、スイートルームに一名宿泊しているな? その人物の名前は?」


「め、メリディオンのビニグナス様です……」


 どうやら、事前情報は正確だったらしい。心の奥底で溜息を漏らし、握っていたナイフに少しだけ体重を加える。


「彼は東西どちらの部屋に滞在している?」


「――に、西側です」


 アイリスがフロントから聞き出した情報も間違いない。これまで得た情報の再確認を終えて、彼が本当の意味で従順であることに安心する。ここで嘘を吐こうものなら、情報の擦り合わせを行う必要性が生起するし、更なる脅迫を続けなければならなかったからだ。


「スイートルームがある最上階に繋がるルートは何がある?」


「東西の階段と、それと業務用の階段があります――」


 東西の階段を使えば人目につく。まず間違いなく業務用の階段を利用するべきだろう。


「業務用階段の位置は?」


「こ、ここから真っ直ぐ進んだ先にあります。お、お願いだから殺さないで」


「十分だ。済まないな。助かったよ」


 身の安全を確信したのか、彼は大きく息を吐いた。だけれど、そのまま解放するわけにはいかない。多少罪悪感を覚えつつも、加減を誤らないよう丁寧に首を圧迫して、彼の意識を簒奪した。


 眠るように気絶した彼を段ボールの手前に優しく横たえて、所持品を検分する。どうやら彼は接客のホテルマンだったようで、ぱりっとした正装に身を包んでいた。そしてそのズボンにあるポケットからマスターキーらしき鍵束を発掘して、静かに懐へしまい込む。これでビニグナス大佐が宿泊している部屋へ表立って侵入することが可能だ。そしてその場で身包みを慎重に剥がして、彼の身体を段ボールの中へ隠し置いた。奪取した制服に着替えて、着ていた黒い行動服を持ち込んだ圧縮袋へ詰め込む。そうして何事も無かったかのようにその場を立ち去った。


 彼の発言が真実なら、この先に業務用の階段が存在するはずだ。しかしその真偽はすぐに判明する。目の前にすぐさま無骨な様相の階段が現れて、内心彼に感謝を告げさせた。ホテルマンに変装しているとはいえ、人事の人間に見つかれば怪しまれる。遭遇するかは運でしかないが、祈ることはできた。先ほど同時に入手した赤い帽子を目深に被って、そのまま階段を何気ない所作で登っていく。


 結局、階段を登り切るまでに、従業員らしき人間とすれ違うことは一度も無かった。ホテルの規模を鑑みると、かなり幸運だったと言えよう。長い階段を踏破して、ようやく最上階の床を踏みしめる。踊り場から顔を出すと、先ほどの風景とは異なり、瀟洒な内装が施されていた。赤と黄金を意識した内装は豪華絢爛で、スイートルームが近いことを暗に告げているようだ。もう一度帽子を被り直し、素早く踊り場から出て西側へ向かっていく。スイートルームの詳細な位置は不明だったが、そもそも最上階には東西の二部屋しか存在していなかったので、迷うことはない。すぐさま西側のスイートルーム、ビニグナス大佐が滞在している部屋の入り口へ到着した。そして懐からマスターキーを取り出そうとして、止める。ここは普通に声掛けを行って、ビニグナス大佐自身に部屋へ導いてもらおう。今の容貌は間違いなくホテルマンであったし、彼自身も疑うことはないはずだ。決意を固めて一度深呼吸を行うと、手の甲で重厚な木製の扉を軽くノックする。


「――誰かね、こんな時間に」


 疲労を感じさせる声色が、扉越しに響いた。ビニグナス大佐自身であることを確信し、丁寧な口調で声を掛ける。


「メリディオン政府から電報が届いております」


「――ああ、鍵を開ける」


 無事内部へ進入できることに安堵を覚えつつ、その場で待機する。すると待つまでもなく扉が中から開いて、彫の深い老輩が顔を出した。


「持ってきた電報を預かろう」


「それに加えまして、ルームサービスとしてお部屋のお掃除を行いたいと」


「今は良い」


「済みませんが、こちらも仕事ですので……」


 ビニグナス大佐は溜息を漏らしたが、無言で部屋の中へ引っ込んでいく。部屋へ入って良いのだと解釈し、怪しまれないよう適当に恭しく礼をすると、そのままスイートルームへ入っていった。


 廊下の装飾よりかは、彩度を抑えた内装。しかし絢爛華麗であることは変わらずに、控えめな贅沢が提供されていた。一ついくらするか予想もつかない工芸品を横目で眺めつつ、開け放たれた窓辺の椅子に腰かけたビニグナス大佐は、こちらに背を向けて肺から息を吐く。


「まずは電報を預かろう」


 そう背中で語るビニグナス大佐を視界に収めて、俺は膝をついた。


「やはりか」


 弾かれたように顔を上げる。だけどビニグナス大佐は窓の外に視線を送っていて、その表情を窺い知ることはできない。


「カリダスから依頼を受けたのだろう、少年。奴は私を目の敵にしているからな。ヴェントゥスを訪問するたびに暗殺に怯えるのは、中々に堪えるものがあるよ」


 小脇に隠したリボルバーに手を伸ばす。カリダスというのは、もしかしなくても屍肉喰いの高官、ガーベラを脅迫したあの男のことだろう。そしてビニグナス大佐に、暗殺計画を勘付かれていた。脳内を最悪の想定が闊歩するがしかし、ビニグナス大佐はか細く笑って、


「心配は無用だ。お前たちの計画を知っているのは私だけ。別に罠も用意しとらん。だからそんな物騒なものは要らんぞ」


 彼の口調から虚偽が混在していないことを悟り、リボルバーから手を離す。


「どうして私を招き入れたのですか?」


 言葉を選んで丁寧に質問すると、彼はおかしそうに短く笑い声をあげる。


「ガーベラという女が、忠義に厚いことは知っている。どうせ私を殺すのではなくて、保護するために訪れたのだろう?」


 まさか、そこまで予測していたのか。ビニグナス大佐という人物の鷹揚さに目頭が熱くなるが、懸命にそれを耐える。しかし彼自身が保護の件を認知しているなら話は早い。


「はい。ガーベラ団長は、ビニグナス大佐を丁重に保護して、身柄を隠遁させるつもりです」


 首を垂れながら冷静に告げるが、ビニグナス大佐はしばらく無言のまま、夜空を眺めていた。


「――南西戦争オーバーラン・ゲームが終結して三年になる。私は戦争当時、陸軍司令部の参謀次官でね。ヴェントゥスを陥れる卑劣な作戦を数多く立案したよ。これまでにも、東進計画や北部安全保障活動に尽力していた。――私はそもそも、正当なる武力の行使以外の戦争行為を禁止する法を策定するために、陸軍司令部の幹部や政府の官僚として身を捧げてきた。しかしいつの間にか、人を殺戮する狩人ハンターの立場にすげ変わっていたのだ……それほど大きな意志の動性には抗えずに、ただ飲まれるしかない。私は自分を特別だと思っていた。私が一人でも努力すれば、メリディオンの狼藉を押しとどめられると。だがそれはまやかしだった。たった一人の力で、世界を平和に導くことは不可能なのだ」


 黙って大佐の言葉に耳を傾ける。彼の疲労の原因はこれか。志高き青年が、官僚主義に飲まれて歪み、悪道へ墜ちる過程。それは惨憺たる人生であって、自分はまだ十七年しか生きていない若造でありながらも、彼に深く共鳴していた。


「君と同じくらいの少年少女が、戦場で生命を落とす光景を幾度となく繰り返した。その罪深さの何たることか」


「だから、リベルタスによるアースの自治を容認して、独立を支援して下さったと?」


「――情けない話だ」


 諦めるように長く息を漏らすビニグナス大佐を見やりながら、どうしてか唇を噛んでいた。


 確かにビニグナス大佐の言う通り、彼はヴェントゥスとの戦時に、こちら側を陥れる作戦を大量に作成したかもしれない。それは明らかなる戦争犯罪であって、償いには多くの犠牲が伴う。だけれど、彼は自分自身の罪を回顧して、自ら贖罪を実行してきた。それはやはりそこらの矮小な人間には到底不可能な行動であって、当然という言葉に帰結するものの、称賛されるべき行為だ。ビニグナス大佐を無条件に許容できる訳ではないが、彼は現在アースにとって頼みの綱である。だからこそ彼を表舞台から抹消せねばならない事態は、悔やむべき結果に思えた。


「――少年。君のような子どもに頼むことではないが、どちらにせよ政界から去らねばならない以上、この私に価値はない。――どうか、その手で私を眠らせてはくれないか。この歳になって、多少は死を畏れることは少なくなったが……いざ死を前にすると、怖気づいてしまうのだ。本来なら自死するべきだろうが、その勇気がない。……どうか、頼む」


 項垂れたビニグナス大佐を見つめて、俺はもどかしさに駆られた。彼としては、報いとしてヴェントゥス人に最期を預けたいのだろう。――だがそれは甘えだ。死の救済という言葉があるが、反対に死は逃避という言葉もある。自らの責任から逃れるために死を選ぶのは、ビニグナス大佐という大いなる人物にしてみれば、とても人間臭く思えるのだ。


「――その願いは、聞き届けられません」


「……保護しろという命を受けているからか」


「いいえ」


 きっぱりと言葉を切る。そして確かな言葉を紡いでいく。


「あなたはメリディオンの侵攻に多大な寄与を行ったかもしれません。しかしながら、ビニグナス大佐。あなたは自分自身でその罪を認め、贖罪を行いました。そしてその償いは、現在も続いています。大佐は多くのヴェントゥス人を間接的に殺めたかもしれませんが、それ以上にアースの民に多大なる支援を行った。その功績は、どうしたって拭い去ることなどできません。この時代、望まれて生きる人間は少ない。しかしあなたはアースの民にとって生命線でした。――これは完全なる私情ですが、贖罪を望むのならばリベルタスに立ち寄り、殺めた人間の分まで生きるべきです。それがきっと、これからの贖罪になるのですから」


 口を閉じると、窓辺から一陣の突風が吹きこんできた。その風は彼の犯した罪を少しだけ洗い流すようで。ビニグナス大佐は大きく息を吐くと、淡く微笑んだ。


「――良い機会だと思ったのだ。カリダスの暗殺計画を知って、ようやく私にも死期が到来したのだと。だが君たちは私を殺めるどころか、保護しようと提案する。――リベルタスは確かに甘い。だが、その優しさが、いずれこの腐敗した世界を変革するのかも知れないな」


 ビニグナス大佐は心情の吐露を終えたのか、安楽椅子に深く沈み込んだ。そんな悲しき老輩に敬意を示し、静かに近づいていく。


「あなたは努力を行いました。その結果に自分で満足が出来なくとも、その行為があなた自身の生命を救ったのです。――それはやはり、誇るべき勲章のように思います」


 ビニグナス大佐の左斜め後ろに立ち、彼と同様に夜空を見上げる。星々が燦然と煌めき、まるで俺たち人間の矮小さを嘲っているようだった。


「脱出の手筈はございます。付いて来てくださいますね?」


 問いかけに回答はなかったが、無言を肯定だと受け取って、すぐさま通信機を手に取る。しかしトランシーバを手にした途端、機器からノイズが溢れ出してきた。


「どうした」


「――大変です。メリディオンの勢力と思われる部隊が、ホテルの周囲を取り囲んでいます。フロントは既に制圧されていて、恐らく分隊は最上階へ向かっています」


 アイリスの報告を受け、たまらず舌打ちする。屍肉喰いの連中、これが狙いだったらしい。こちらが任務に失敗する可能性を見越して、ビニグナス大佐を確実に葬り去るために部隊を派遣したのだ。もし俺が暗殺に成功していた場合は、責任をこちらへ押し付ければ良いだけのことだし、こちらが殺さず亡命の手助けをしたとしても、その罪状で大佐は処刑されるだけだ。


「アイリス。お前は今どうしている?」


「上階へ逃げて、トイレに隠れています」


「無事なんだな?」


「――はい。五体満足、無病息災です」


 なんだか場違いな言葉を選択した気がするが、指摘している時間はない。


「お前は頃合いを見てホテルから離れろ。俺は大佐を連れて脱出する」


「私も手伝います」


「駄目だ。お前はすぐに脱出しろ」


「しかし」


「俺の命令は絶対だと約束しただろ。それにデイジーのこと、忘れたとは言わせないぞ」


 アイリスはそのまま口を噤んだ。反駁が無いことを確認して、通信を終了させる。


「聞いての通りです。すぐに出立します」


 ビニグナス大佐に向き直ってそう宣告すると、彼は悔しそうに唇を噛んだ。


「――また子どもを争いに巻き込まなくてはならないのか……」


 彼の言葉に無言を返すと、入り口の外側で物音が響いた。即座にショルダーホルスターからリボルバーを取り出し、手頃なテーブルに身を隠す。


「大佐はベッドの向こう側へ」


 隠れるよう指示を出すと、彼は緩慢な動作でベッドの奥へ身体を伏せた。


 その瞬間、散弾銃の発砲音が響き渡り、入り口の扉が完全に破壊される。その衝撃波と飛来する粉塵を手で堪えながら、リボルバーを廊下側へ向けた。そして黒い戦闘服に身を包んだ兵士が顔を出した刹那、彼の頭部へ向けて引き金を引く。


 リコイルで銃身が飛ぶように跳ね上がる。大口径弾を装填しているから、その反動は馬鹿に出来ない。放たれたマグナム弾は兵士の防護ヘルメットを貫通し、彼を速やかなる死へ導いた。


 出入口に兵士の屍体が倒れて、連中はたまらず室内へ向けて小銃を掃射する。制圧射撃は瀟洒な雅を演出する内装を一瞬にして破壊し、小銃弾による風穴を花開かせた。


 頭を抱えながら、被弾しないように身を守る。それと同時にビニグナス大佐の様子を確認するが、彼は今のところベッドの奥部に隠れ切れていて、一切被弾していないようだった。


 弾倉内の銃弾を打ち切ったのか、制圧射撃が一旦鳴り止む。その瞬間に反撃を行おうと身を乗り出した瞬間、予想外の事態が発生する。


「やめろ! こちらには子どもがいる! 若き芽を摘み取るんじゃない!」


 ビニグナス大佐がベッドの奥から起き上がって、廊下へ向けて絶叫していた。彼は完全に上体を射線上に晒していて。すぐさま身を引くように言い放とうと口を開くのと、放たれた小銃弾が大佐の上顎を吹き飛ばすのはほぼ同時だった。


 大佐は瞬間的に頭を破裂させ、下顎を中空に晒す。壁紙に薔薇の花弁のような血しぶきが散乱して、倒錯的な芸術を披露した。


 唇を切れるほど噛み締めながら、大佐を銃殺した兵士を射殺する。部隊の二名を喪失した分隊は部屋への侵入を躊躇しているようだったが、人数有利で押し切れると判断したのか、再度制圧射撃を開始した。無数の小銃弾が飛来して、そろそろ障害物に流用している重厚な木製テーブルも破砕の危険に陥る。ビニグナス大佐を喪った以上、もうこの場に留まる意味もない。しかしここはホテルの最上階であって、脱出には部屋の入り口を利用する他なかった。つまり既に詰みに近い状況であって。このような状態に陥り、人生で何度目か忘れたけれど、死神が背後から歩み寄ってきている感覚が背筋を伝った。


 制圧射撃が終了し、連中はこちらの様子を窺っている。カリダスという男にしてみれば、恐らく俺をビニグナス暗殺の実行者にでっち上げて、アースに攻め込む大義名分を得るつもりだろう。そんな馬鹿げた状況は何としてでも回避したいところであったが、部屋から逃げ出すこともできない。このままだとどちらにせよ袋小路なので一か八か反撃するしかないだろう。そうして身を乗り出した途端に頭を吹き飛ばされないことを祈りながら、リボルバーを強く握りしめた時だった。


「――なんだ貴様! ――ああ!」


 廊下側から、乱闘のような打撃音が響いてきた。何事かと思って耳をそばだてていると、その音源は廊下から部屋の出入り口まで迫ってきて、


「指揮官! ご無事ですか?!」


 木製のテーブルに隠れていた俺に、アイリスが尋ねかけた。彼女は美しい金色の髪を振り乱していて、手には連中から奪取したであろう拳銃が握られている。


「お前! 脱出しろと言っただろう!」


 そう怒鳴りつけると、彼女は全く意に介していないのか、返事をせずにこちらの腕を握り、廊下側へ拳銃を向けながら窓辺まで後退した。


「指揮官は私に命令なさいました。デイジーを哀しませる真似はするなと。ですから、あなたにいなくなられては、デイジーが悲しみます」


 俺はポカンと口をあんぐり開いて、彼女の無茶な論理に呆然としていた。そんなこちらの状態を度外視して、アイリスは俺を片手で抱き上げる。


 傍から見たら、どのように映っていただろう。大の男を片手で簡単に抱き上げる少女。俺は彼女との会話を思い出した。アイリスの積載可能最大重量は約四千ポンド。大男数人でも軽く抱えられる法外な数値だ。彼女は窓辺からバルコニーに出ると、追手が無いことを確信したのか手に持った拳銃をその場に捨てて、階下に向き直った。


「そして私は、デイジーにも命令されました――」


 彼女が今から敢行しようとしていることに合点がいって、すぐさま取り止めるよう命令しようとするが、


「――あなたを無事に連れて帰るようにと」


 アイリスはホテルの最上階にあるバルコニーから、天球へ向けてその身を投げ出した。

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