マインドセット売りのおじさん
2021-07-18
安価・お題で短編小説を書こう!10
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bookall/1625404894/
>>22
使用お題→『沼』『アジサイ』『スキップ』『マインドセット』
【マインドセット売りのおじさん】
まったくひどい暑さでした。雲一つない青空で、太陽の光が容赦なく照り付ける日でした。その日はまた、観測史上最高の、記録的な猛暑日でもありました。
この暑さの中、この陽光の中、通りを行く者がおりました。それは大きな——小さなものと比べたら、ですが——しょぼくれたおじさんで、頭には毛がなく、顔にはマスクをしていないのです。もちろん、家を出る時には、確かにマスクをしていたのですよ。けれども、それがなんの助けになるでしょう! マスクは不織布で、布マスクやウレタンマスクみたいな役立たずではありませんでした。ですから、おじさんも使っていたわけです。それを、おじさんはなくしてしまったのです。交差点を急いで渡った時でした。急いだのは、高齢ドライバーの暴走車が、まったくひどい勢いで突っ込んできたためです。丁度その時、マスクが息苦しくて、片方のひもを外して歩いていたおじさんは、歩道へと逃げるのに必死で、マスクを落としてしまったのでした。
それで今や、落ち武者のようなおじさんは、お天道様に誓って何も隠し立てすることのない正直者のおじさんは、暑さのために真っ赤になったその顔で、汗をだらだらと流しながら、歩いているのでした。古ぼけたかばんの中には、沢山の『マインドセット』を入れて、手にも一つ持って歩きました。その日はずっと、おじさんから買ってくれる人はおりませんでした。ほんの少しのお金すら、恵んでくれる人もいなかったのです。お昼ご飯を食べ損ねて、熱中症になりつつある、まったく見るからに打ちひしがれた、かわいそうなおじさん!
突き刺さる紫外線が、おじさんの頭に降り注ぎました。それはとても危険なことで、首筋まで焼いていたのですが、けれども、そんなこと、おじさんは本当に考えもしませんでした。
窓に反射した何かがきらりと光り、おじさんは自分の加齢臭を感じ取りました。そうです、今日は観測史上最悪の猛暑日で、おじさんは、自分が焼き肉になりつつあることに気が付いたのです。
コンビニエンスストアの建物があって、建物の前には小さな日陰がありました。そこに座り込んだおじさんは、汗にまみれた手足を伸ばすと、そのまま動けなくなりました。『マインドセット』は一つも売れておらず、お金だって一銭も稼げていません。これでは会社に帰ることもできません。もっとも、帰ったところで、上司からは怒られるに決まっていますし、会社のエアコンは壊れたままでした。おじさんが入社した時ですら、あちこち隙間だらけだったプレハブの事務所は、きっと最初から中古だったに違いありません。
それはともかく、おじさんは普通に死にそうでした。ああ! この意味の分からない売り物が、何かの役に立つかもしれません。使い方はよく分かりませんが、なんとかなるはずです。
おじさんは、手に持った『マインドセット』を——『偉大なる童話作家のマインドセット』と書かれたそれを——思い切って口に入れました! 体が熱くなって、目が回りました。すっくと立ち上がったおじさんは、手足をばたばた動かすと、コンビニエンスストアの駐車場で、スキップを始めました。すっかり頭がおかしくなったおじさんは、どこからどう見ても歩く事案、ただの不審者でしたが、そんなことを気にしてはいられませんでした。おじさんは叫びました。
——旅することは生きること! 旅することは生きること!
新しい『マインドセット』——『多国籍テクノロジー企業の元CEOのマインドセット』と書かれています——を口に入れました。目が回って、体からは汗が噴き出ました。おじさんが手をかざすと、リアリティー・ディストーション・フィールドが展開されました。おじさんが一歩踏み出せば、道行く人の誰もが立ち止まり、おじさんの前に並びます。コンビニエンスストアの駐車場は、すぐに観客で一杯になりました。観客は、熱さのために、体から湯気を立てていましたが、文句を言う者はおりません。おじさんが口を開けば、誰もがその声に耳を傾けます。そして、もっと素晴らしいことには、おじさんが自分の売り物を発表すると、その場で話を聞いていた全員が、その商品を手に入れようと、真っすぐにおじさんの方へと向かってくるのでした。
もう一つだけを残して『マインドセット』を売り切ったおじさんは、今や誰もいなくなった駐車場の真ん中で、ただ一人、立ち尽くしていました。手持ちの商品がすっかり売れてしまっても、ひどい暑さは変わりません。
おじさんは、手の中に残った最後の一つ、『悟りを開いた人のマインドセット』と書かれたそれを、ためらうことなく口にしました。すると、何千とも何万とも、数え切れないほどの悪魔たちが現れて、おじさんに襲い掛かってきました。けれども、おじさんは少しも動じません。炎天下の駐車場の、焼き肉のホットプレートのようなアスファルトの上に座り込んだおじさんは、しかし、すべての苦しみから解き放たれて、ついに悟りを開きました。
悟りを開いたおじさんは、両手を空へ、雲一つない青空へと、差し伸べました。太陽が、ぎらぎらと輝いています。おじさんは、天へと昇っていきました。
空の上から見下ろすと、おじさんには、地上の人々が、まるで小さく、虫の群れのように見えました。また、それらは、アジサイの花のようにも、沼に落ちて、もがき苦しむ、泥まみれの原始人のようにも見えました。
星が落ちていくのが見えました。それは、幾つも幾つも、落ちていきました。
コンビニエンスストアの駐車場には、救急車が止まっていました。救急隊員たちが囲むのは、赤い顔で、頭には毛のない、しょぼくれたおじさんです。夏の燃えるような太陽が、おじさんを焼いています。おじさんは、古ぼけたかばんを抱えたまま、うずくまっていましたが、かばんの中には、ほとんど何も入っていないようでした。
熱中症だ! 救急隊の人たちが言いました。そして、おじさんを慌ただしく救急車に乗せると、サイレンを鳴らして、出ていきました。救急隊の人たちは、本当に忙しかったのです。ですから、おじさんが何を見たのか、その表情がどんなに安らかであったのか、知る人はおりませんでした。
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