095 帰郷 羽柴駒
三介様の元服の儀は、二日後に執り行われる運びとなりました。
烏帽子親はお館様の言っていたとおり、叔父の三十郎(織田信包)様。
ただ、元服時につけられる諱については、三介様ご自身がとても強い要望を出されました。
ひとつは北畠家累代の当主がつけていた『具』の字をつけること、そしてもうひとつはお館様や三十郎様由来の字を避けることです。
おそらく勘九郎(信重)様と大きく差をつけ、織田家との係わりを表に出さないことで、跡目を争う意思がないことを内外に示したかったのでしょう。相変わらず、気配りが細やかねぇ。
かくして、三介様の元服後の名前は『北畠三介具豊』に決まったのです。
──さて、小一郎たちが本願寺との交渉に行ってしまうので、私は三介様の元服を見届けてから、楓殿とともに九鬼の南蛮船で南伊勢に戻ることになります。
ちょっと時間も空いたので、阿古丸殿たちと熱田見物や、尾張の育児院の視察にでも行こうと思っていたのですが──何だか楓殿の様子が変です。
いつもなら声をかければすぐに現れるくらい近くにいるのに、このところ治部殿となにやら物陰で深刻に話し合っているところをよく見かけます。
そういえば以前、治部殿の後添えの座を狙っているとか言ってたけど、意外に初心っぽいところもあるし、これはいよいよ覚悟を決めたのかな──なんていう雰囲気でもないんですよね。何なのかしらあれ。
次の晩、また秘密を知る人だけの会合が行われました。明日の夜は元服を祝う宴、その翌日には小一郎たちが出立してしまうので、今日しか時間がなかったのです。
始めにまず、先日の評定で決まった織田家の今後の方針について、半兵衛殿や小一郎から説明がありました。
武田領から併合した土地のうち、甲斐国は最後まで武田家が抵抗を続けていたところです。金山はあるものの、農業生産力は低く、統治に手を焼くことが予想されます。そこで、織田家の直轄領としてある程度安定するまで丹羽(長秀)様が入ることとなりました。
丹羽様は、文武に高い能力を持っている割に控えめで温厚な方です。うまく民の心をなだめ、鉱山振興や農政改革や治水工事なども進めて行ってくれるでしょう。
駿河国は、私の予想どおり徳川家の預かりになりました。
信濃国は、北に佐久間(信盛)様が入り、上杉家との同盟交渉を担当。中信濃の諏訪に勘九郎様が入り、武田の旧臣の再編成や全体の監督にあたります。
その他の方面についても、小一郎たちから聞いていた本来の歴史とはだいぶ違う配置になったようです。
何よりまず、羽柴家が北陸方面担当となりました。本来は柴田(勝家)様が担当し、加賀の一向門徒と血みどろの戦いを繰り広げることになるそうなのですが、今の一向一揆には明らかに勢いがありません。
越前や加賀の民が続々と北近江に流れてきているように、織田家の支配下でなら今までよりいい暮らしが出来るという風聞が広まりつつあります。もし本願寺との和睦が成立したなら、北陸方面の一向門徒が織田の支配を受け入れる余地は十分にあるとの算段なのでしょう。
そしてその柴田様は、石山本願寺を包囲して睨み合いを続けている森三左衛門(可成)様とともに、本願寺へ圧力をかける役目になりました。
実はこの、森様が健在だということがとても大きいのです。
本来、何年か前に浅井・朝倉・叡山の圧倒的兵力に敗れて命を落とすはずだった森様は、お館様の信頼も厚く、文武に極めて優れた名将です。
お館様はこの先、何人かの重臣方に大きな権限を与えて北陸・山陰・山陽など各方面への攻略にあたらせることになるのですが、その一手を任せ得る人材がひとり多いことになるのですから。
この先、西国方面は森様が中心になって攻略を進めていくことになりそうです。本来の歴史では山陽を羽柴家、山陰を明智家が担当するらしいんですけどね。
──その明智の養父は、今回の評定には呼ばれていません。一応、朝廷との折衝を任せている最中だというのが表向きの理由ですが。
ただ、その後の大きな戦略構想にもその名が挙がらないところを見ると、今後あまり大きな兵権を与えるつもりはないようです。やはり、無明殿との繋がりがはっきりしてきたので警戒されている、ということなのでしょう。
さて、このことで無明殿がどう動くのやら──。
大きな戦略構想を聞いた後は、私たちの今後の動きについての話です。
小一郎がしばらく留守にするので、奥志摩には次郎殿が詰めることになりました。警護には以前から一之進殿という忍びがついています。
そして、私が楓殿とともに南伊勢に戻って、という話になったところで、珍しく楓殿が口を挟んできました。
「あ、あのう、お駒様。せっかくここまで来たのですから、今浜の大方(小一郎たちの母親、なか)様に会いに行かれてはどうでしょうか。以前お会いした時はばたばたしていて、あまりお話も出来ていないですよね?」
「そうですな。おお、ついでに菩提山城の弟御に久しぶりに会っていかれるというのもよろしいのではないかと」
治部殿まで一緒になって、何なのよこれ。忍びなのにやけに芝居が下手だし。
あ、ほら、お館様や近衛様もちょっとイラっとしてるじゃない。
「──ふたりとも、何を企んでるの?」
「え、あ、いえ、そんなことは決して──」
赤い顔で狼狽える楓殿の横で、治部殿は平然とした顔を崩しません。うーん、ここはお館様が癇癪を起さないうちに何とかしないと。
「ごまかさないで。楓殿、正直に話してちょうだい」
「こ、ここで、ですか⁉」
「いいから早く。──命令よ」
私がそう強く言うと、治部殿の顔に一瞬イタズラっぽい笑みがかすかに見えたのですが──あ、何だか嫌な予感が。
「あ、あの、お駒様っ! このところ、その、しばらく『月のもの』が止まってますよね⁉」
──え。
「ば、ばばば馬鹿っ、ちょっと楓殿こんなところでなな何てことを──」
「──いやあ、殿方ばかりのところでお聞きするのははばかられたのですが、命令されたのでは仕方がありませんなぁ」
おのれ治部殿、あんたこうなることを見越して楓殿に話を切り出させたでしょっ!
「お、お駒、それはもしかして──!?」
「駒殿、ひょっとして──!?」
小一郎と三介様が、目を輝かせて手を握ってきます。うう、皆さんの期待に満ちた目線が重い。
「え、ええとその、元から不規則な方ではあるんだけど──確かにこれだけ遅れたことはなかったし──これはたぶん、そういうこと、なのかしら」
「でかした、お駒!」
小一郎、こんなところで抱きしめないでよ! ──嬉しいけど。
「おお、そうか、お前らもついに親となるか。めでたい話ではないか!」
お館様もとても喜んでくれてますね。
「よし、ならばまた、わしが名前を考えて──」
「あ、それはちょっと遠慮しときます」
ひとしきり皆さんからの祝福の声を聞いたところで、治部殿が真面目な顔で話し出しました。
「いや、実のところ、警護対象が未来の記憶持ちの三人とお雪様、身重のお駒様となると、一之進と楓、お美代の三人だけではいささか手薄です。特にお駒様は小一郎様最大の弱点ですから。
ここは、最も警護のしやすい今浜に移っていただくのが望ましいかと」
なら最初からそう言ってよね。
「それに、本願寺とのいくさは織田家にとって大きな転換点です。
石山を抑えれば、伊賀など一部をのぞいて畿内のほぼ全域を掌握することになり、後顧の憂いなく西国へ兵を進められます。
──無明殿が和睦を阻止しようとする可能性は、充分にあるかと推察いたします」
「ま、それをさせんために麿が同行するのでおじゃるよ」
治部殿の予想に、近衛様がのんびりとした口調で応えられます。
「お上から、和睦の会談の場を設けるようお言葉を頂戴してきましょ。
帝の勅使ともなれば、さすがに手出しなど出来ませんやろからな」
「はい、それでご一行の安全は確保できるとは思うのです。
ですが逆に、ご家族などへの手出しをよりいっそう警戒しませんと」
「ふう──わかったわ。まだ妊娠がはっきりしたわけじゃないけど、いずれにしても今浜に行くわよ」
まあ、育児院の方はお雪様とお美代殿がいるし、問題ないでしょう。あ、でも佐吉のことが中途半端になっちゃうわよね。どうしようかな。
「お駒様。佐吉殿のことは自分にお任せください」
私が悩んでいることを察したのか、次郎殿が申し出てくれました。
「それで、もしよろしければ、佐吉殿を私の補佐役として堀家にもらえないでしょうか? いずれ留守を任せられる歳の近い家臣が欲しいとは、常々思っていたのです」
「え? まあ、本人が望むなら私に異論はないけど」
「わしもかまわんぜよ。本人の意思と、あと兄者にちゃんと筋だけ通してくれればの」
「承知しました」
小一郎も承諾してくれました。うん、これで問題ないわね。
「どうやら決まりのようですね。今浜ならおね様も芳野もいますし、お駒殿も心強いでしょう」
半兵衛殿も笑顔で頷かれています。
「それに、そのお子が産まれたら、無双丸様や双葉姫様、それに『吉助』がいい遊び相手になるでしょうし」
──はい?
「あのう、半兵衛殿。その『吉助』殿というのは──?」
「今年生まれた私の子ですけど」
「聞いてませんっ!」
私が思わず睨みつけると、半兵衛殿が意外そうな顔で答えます。
「え、てっきり小一郎殿から聞いているとばかり──」
小一郎を睨みつけると、小一郎もきょとんとした顔です。
「え、わしも義姉上からの文でとうに知らされてるとばかり思っとったんじゃが」
ああ、これは義姉上様に聞いても『小一郎殿から聞いていると思ってました』とか言われる展開だわ。──小一郎の馬鹿っ!
「うわあ、どうしましょう──! あんなにお世話になった芳野様のご出産にお祝いも送らないなんて、とんだ不義理を──」
「いや、お駒殿は知らなかったのですから、仕方ないと思いますよ」
「ほうじゃの。そんなに気にせんでもええじゃろ」
「そんなわけにはいかないんですっ!」
もう、半兵衛殿も小一郎もまるでわかってない! 女同士のお付き合いでは、こういうちょっとしたことが後々しこりとなって残ったりするんですから。
ほんと、男の人ってこういうあたりが全っ然駄目なんですから。
さて、三介様の元服も無事に終わり、楓殿や次郎殿を乗せた九鬼の船を見送ると、私たちは今浜に戻る羽柴の一行とともに熱田を後にしました。
途中、菩提山の竹中家に寄り、弟の虎松と二年ぶりくらいに再会したのですが──この年頃の男の子ってそっけないわねぇ。
『え、だって姉上とは会おうと思えばいつでも会えるじゃないですか。今浜へは馬で一日のきょりですし。かんがいとかは別に──』
私よりも三介様との再会の方が嬉しそうなのって、何だか複雑だわ。
まあでも、竹中家でちゃんと真面目に頑張っているようなので、心配はいらなさそうです。
翌日、一行は菩提山城を立ち、関ケ原を抜けて近江国に入りました。私と小一郎にとっては、一年半ぶりの近江です。
横山城近くの小高い丘を越えたところで、遠くに今浜の町並みと、見渡す限りの淡海(琵琶湖)の湖面の輝きが一気に目に飛び込んで来ました。
──ああ、帰ってきたんだなぁ。
ふいに、そんな感慨が胸の中に溢れてきました。
私が生まれ育ったのはもう少し北の小谷の近くですが、何というか、今ではもう今浜がふるさとのようにも思えてきます。
まだ町なんてなかった頃の今浜で小一郎と出会い、町がどんどん大きくなっていく最中に越して来て、ここで一緒に暮らし始めて──。
うん、そうですね。まだお腹に赤子がいるという実感はないんですけど、ここで産んで育てて、今浜をふるさとにしてあげるのが、一番この子にふさわしいように感じられてきました。
ようし。頑張ってあなたを丈夫な子に産んであげますからね。
丘を越えると今浜までは一里ほどです。ここまで来ると、街道を行き来する人も新しい店や家屋敷も増え、以前とは比べものにならないほどの賑わいです。
『おお、お殿様や』『殿様ぁ、お帰りなさいませ!』
「今戻ったぞ! みな元気じゃったか!」
民たちから馬上の藤吉郎様に声がかけられることも増えてきました。まあ、これだけこの辺りを豊かにしたお殿様ですから、大した人気ですね。
『──え? あれ、小一郎様やないか?』『追放されたって聞いとったが、帰ってきはったんか?』
やがて何人かの人が小一郎に気づいたようです。追放処分がお芝居だったということはお城では公表されているはずですけど、民にまでは広まってなかったんでしょうか。
「おお、小一郎とは仲直りしたんじゃ! 今はお役目であちこち飛び回っとるが、たまには返って来るので、みな、昔みたいに仲良うしたってくれ!」
『おお、それは何よりや』『小一郎様! お帰りなさいまし!』
『小一郎様、また旨い食いもんを考え出してくだされ!』
そんな声掛けに、周りがどっと笑い声をあげます。
小一郎は何とか笑顔を作って、手を上げてそんな声に応えるのですが──あれ、絶対泣くのを我慢してるわね。
やがて、今浜の町を通り抜けてようやくお城に到着しました。近衛様のご一行は城には入らず、このまま港から船で京へと先に向かうそうです。帝との拝謁とか、色々あるようですし。
大手門の前では義姉上様はじめ、多くの方が出迎えてくれました。私と小一郎、三介様にとっては久しぶりの今浜なので、再会のご挨拶だの、芳野様に不義理を詫びたりだのと、大わらわです。
ただし、この場にお義母様はいません。事前に義姉上様に文を出して、小一郎とお義母様との対面はふたりきりでさせてあげるようにしてもらったのです。
だって、お義母様と再会して優しい言葉なんてかけられたら、小一郎ってば皆の前でも絶対に大泣きしちゃうもの。
その晩。私と三介様、半兵衛殿、治部殿で義姉上様との密会です。
熱田でお館様と交わした話を義姉上様に説明している間に、小一郎もお義母様との対面から戻ってきましたけど──目元が真っ赤に腫れあがってます。どれだけ泣いたことやら。
「──ふう、そうですか。お館様や近衛殿下にまで、小一郎殿の秘密を知られてしまいましたか。
それで、三介様やお館様は、藤吉郎殿にも秘密を打ち明けるべきだというお考えなのですね」
「うむ。無明殿におかしなことを吹きこまれたり、未来の記憶を持つ別のものから真実を知らされる前に、な」
三介様がそう主張しても、小一郎は難しい顔で考え込んだままです。
「うーん、いや、そう言われるのもわかるんじゃがな。それでも、兄者に天下人になる未来を教えてしまったら、野心を煽ってしまうのではないかと──」
「他人から知らされたとしても同じではないか。なら野心をあおらぬよう、説得しながら説明するとか、小一郎殿なら出来るんじゃないのか?」
「うーん、しかしのう──」
そんな煮え切らないやり取りを見ていると、ふいに義姉上様が声をかけられました。
「あのー、小一郎殿。その辺は心配いらないと思いますよ。ねえ、半兵衛殿?」
「はい、私も同意見です」
え、どういうこと?
「藤吉郎殿に野心がないとはいいませんよ? 出世欲も変わらずあるでしょうし。
でも、失敗すれば全てを失うような博打をしてまで偉くなろうなんて、今の藤吉郎殿は思ってないと思いますよ。
『いずれ立派に育った無双丸に羽柴家を無事に受け渡す』──これが今のあの人の、一番の願いなんですから」




