082 流派の名前 原田新吉
子供たちが櫓住まいから解放されて十日。そろそろ体力も戻ってきているので、お駒様たちは南伊勢への移動を考え始めているようだ。
少し無理をすれば馬で一日ほどの距離なのだが、子供たちは馬に不慣れだし、体調もまだ万全ではない。そこで、三日ほどかけて休み休み移動することになった。
三介様の家臣の方が先行して泊りの手配をしてくれているので、今はそれを待っているところだそうだ。
あの日以来、子供たちが寝起きしているのは二の丸御殿。──何と、三七様が生活しておられたところだ。
三七様はせめてもの詫びにと住まいを子供たちに明け渡し、夜は重臣たちを閉じ込めているのとは別の櫓で、板の間に夜具も敷かずに寝ているのだとか。律儀だなぁ。
もっとも、子供たちが御殿の高価な調度品を壊してしまわないかと心配で、お駒様たちは余計に気疲れすると愚痴をこぼしているんだけどな。
──朝になると、子供たちを起こして朝餉を取らせ、御殿前の広場に連れ出す。
充分な睡眠と食事、そして適度な運動とお日様に当たること──これが健康回復のためにはなにより大事なのだ。
体力が回復していない子はまず散歩から、元気を取り戻した子たちは少しずつ鬼ごっこなども始めている。小一郎様の警護をしていないときの俺の仕事は、もっぱら子供たちの遊び相手だ。
「──あれ、三介様だ」
ふいに、思い思いに走り回っていた子供たちの足が止まった。三介様と小一郎様が何本ずつかの木剣を抱えて通りかかったのだ。
「三介さま、けんじゅつのおけいこ!?」
「わぁ、見たい! ちかくで見ててもいい?」
わらわらと集まってくる男の子たちに、三介様たちが苦笑いで目線を交わした。
「しかたないな、小一郎殿、ここでやるか」
「ですな。──おおい、この線から入ってきちゃいかんぞ、危ないからな」
小一郎様が足で地面に線を引き、子供たちが行儀よく座るのを待って、二人並んでまずは風切り音をたてて素振りを始める。
初めて間近で見る剣術の稽古に、男の子たちは興味津々だ。もっとも、女の子たちの興味は別のところにあるようで──。
「こまおねえちゃん。あの大きいほうの人が、おねえちゃんのだんなさまなの?」
「ええ、そうよ。小一郎様っていうの」
お駒様の答えに、やや年嵩の女の子たちがちょっと顔をしかめる。
「三介さまの方が、駒姉さまにはお似合いだと思うんだけどなー。小一郎さまって何だかちょっとさえないし、姉さまとはずいぶん年もはなれてるし──考えなおしたほうがいいんじゃないの?」
ははは、何とも手厳しいことで。まあ確かに、普段の小一郎様は少しぼーっとした顔しているからなぁ。
そんな子供たちのおませな意見に苦笑いしながら、お駒様も稽古の見物をする態勢になる。
「まあ、そんなこと言わずにちょっと見てみましょうよ。ああ見えて、小一郎様はなかなかの使い手らしいわよ?」
「えー、本当にー?」
──そんな女性陣のやり取りなど聞こえていないのか、小一郎様たちはひとしきり体をほぐし終えて、素振りを止めた。
「──さて、三介様、そろそろやりますか」
「よし、わしから行くぞ」
適当な間合いを取って対峙し、三介様が上段、小一郎様が正眼に構える。
「行くぞ、小一郎殿っ!」
「おおう、参られよ!」
その裂帛の気勢に、子供たちが一斉に息を呑む。
まずは『掛かり稽古』。片方が攻め手となり、受け手が構えた木剣に対して、連続して打ち込んでいく。そしてある程度たったら攻守が入れ替わる。
ただ、他の流派の稽古と少し違うのは、受け手側も隙あらば反撃していいということだ。ただし、木剣なのであくまで寸止めだが。
「──ほれっ、三介様、右小手が隙だらけじゃ」
「何のっ! わざと隙を作って誘ってみたのじゃ!」
丁々発止の激しいやり取りに、男の子だけでなく、女の子たちももうすっかり目を奪われている。
こうして見ていると、三介様も若いなりにかなり修練を積んでおられるようだが、小一郎様の方が格段に技量が上だ。
やがて、通りがかった城勤めの武士たちも興味深げに足を止め、いつしか二人の周りには幾重にも人垣が出来はじめた。
「──ちょ、ちょっと待った! 少し休ませてくれ」
しばらくして、反撃する間もなく小一郎様の打ち込みを受け続けていた三介様が弱音を吐いた。一方の小一郎様は、ほとんど息も乱していない。
「すまんな、ちょっと通してくれ」
三介様が人垣の中から出ていくと、小一郎様の腕前に興味をそそられたのか、見物人の中から次々と声が上がった。
「小一郎殿、次はぜひとも自分と稽古していただきたく──!」
「いや、それがしが先だ。小一郎殿、いざ尋常に勝負!」
「待たれよ! では、どちらが先に小一郎殿とやるか、立ち合いで決めようではないか!」
──何だか急に盛り上がってきたなぁ。そこここで言い合いだの立ち合いが始まってしまった。お二人の激しい稽古を見せられて、皆も血が騒ぎだしたらしい。
実は、この伊勢国はなかなかに剣術が盛んなところだ。剣術狂いの御隠居が剣豪たちを厚く遇することが広まったためか、修行の旅の途中で寄る者も多く、それが伊勢武士たちに少なからず影響を与えているようなのだ。
ちょっと見ただけでも、かなり腕の立ちそうな人が何人もいるしな。
──あ、待てよ、そうか。三介様は、自分よりそういう人たちと稽古した方が小一郎様の身になると思って、こっそり気を回したんだろう。お若いのに気配り上手な方だからな。
案の定、人混みから脱け出してきた三介様は、けろりとした顔をしておられる。
「お疲れ様です、三介様。──さほど疲れてはおられないようですけど」
「──まあな」
俺の言葉に、三介様がにやりと笑ってみせる。やっぱりそういうことか。
「お疲れ様、三介様。お水をどうぞ」
そこに、お駒様が井戸水を汲んだ桶を持ってきた。嬉しそうに柄杓で水を飲んで、三介様がその場に腰を下ろす。
「で、どうなの? 小一郎は御隠居様といい勝負が出来そう?」
「ああ、さほど腕は鈍っておらんみたいだな。ここと、大河内への道中で少し稽古すれば勘も戻るじゃろ」
「そういうものなの?」
そう言って、お駒様はちょっと周りを見回して、誰も自分たちに注意を払っていないことを確かめてから、小声で続けた。
「──ほら、剣術を実際にやっていたのは龍馬殿でしょ? 小一郎は龍馬殿の記憶を持っているだけで、剣術をやってたわけじゃないし──。
それで剣豪とかいうくらいの人と渡り合えるものなの?」
「うーん、どうなんじゃろうな。ただ、龍馬殿の剣はなかなか理にかなっていてな。細かいところまでしっかり理屈が立てられていて覚えやすいし、上達も早いんじゃ」
へえ、そういうものなのか。俺たち忍びには、一対一で向き合う正統派の剣術はからきしわからんのだけど。
「わしが今浜から伊勢に戻った時にも、剣術師範が思っていたよりずっと上達していると驚いとったからな。
まあ、小一郎殿は体格もいいし、肝もすわっとる。素振りは続けていたようだし、後は実戦の勘、じゃな。
──なあに、別に勝ってくれなくてもかまわんのだ。それなりに粘って、時間をかけてくれればな」
あ、これは何かをたくらんでいる顔だな。まあ、今は聞いても教えてはくれんだろうけど。
お駒様も、何だか要領を得ないような顔つきだったが、ふと小一郎様の方に目をやって声を上げた。
「──あ、孫一殿?」
何と、誰が小一郎殿の相手をするかで皆が騒いでいるうちに、いつの間にか紛れ込んでいた孫一殿がちゃっかりと小一郎殿と立ち合いを始めていたのだ。抜け目ないなぁ、あいつ。
性格そのものを表したように派手で奔放な動きの孫一殿の攻めを、正眼に構えた小一郎殿が地味な動きで受け流し続けている。防戦一方で、何だか劣勢のようにも見えるんだけど。
「──ねえ、三介様。小一郎って本当に強いの?」
その様子を見て、お駒様も眉をひそめる。
「ああ、今にわかる。あの様子だと、先に音を上げるのは孫一殿の方だ。
小一郎殿はずっと体力を温存しつつ、孫一殿の攻めを受け流し続けとるからな。あれ、やられた方はけっこう消耗するんじゃ」
「うーん、よくわからないわね。何だか、構えた剣の先もふらふらしていて頼りないし──」
「ああ、実はあれが小一郎殿の流派の肝でな。あの動きにもちゃんとした理由があるのだぞ」
「ふうん。──あ、それで小一郎の流派って何流なの?」
「──んん? そういえば一度も聞いた覚えがないな」
やがて三介様の予想通りに、激しく攻め続けていた孫一殿が先に体力を使い果たしてへたり込んでしまった。
腰を落として大きく肩で息をする孫一殿を置いて、小一郎様がこちらにやって来た。
「おおい、わしにも水をくれ。ひと休みじゃ」
水を飲んで、濡らした手拭いで気持ちよさそうに顔を拭く小一郎様に、三介様が質問をぶつけてみる。
「小一郎殿、ちょっと聞きたいんじゃが──」
「はい、何です?」
「小一郎殿の流派は何という名前なのだ?」
──わかりやすく、小一郎様の顔が強張った。皆で予想したとおりだな。
「ふう、どうせまた、あれじゃろ。今はまだ存在しない流派なので、下手に名乗って歴史が変わってしまったら、とかじゃろ」
「あと、自分が開祖になってしまったら本当のご開祖様に申し訳ない、ってところかしらね」
三介様とお駒様にあっさり言い当てられて、小一郎様がばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「まあ、そんなところです」
「何を今さら。歴史など、これまでもさんざん変えてきたろうに。
大体、そのご開祖様がこの先生まれてくるかどうかもわからんのだぞ」
「いや、確かにそうですがの。無明殿に知られてしまうのも──」
「もうとっくに知られてしまっとるではないか」
呆れ顔の三介様と、小一郎様とのやり取りを見ていたお駒様が、ふいにぽんと手を叩いた。
「ねえ。もうこの際、おおっぴらに名乗ってしまってもいいんじゃない?」
『──はぁ?』
意表を突かれた二人の声が重なる。あ、これはもしかして、首領が言っていた『お駒様が時々みせる突拍子もない思いつき』ってやつなのか?
「──いや、何も『自分は未来の記憶を持っています』とか公言しろってことじゃないわよ。
わかる人にはわかるように──つまり、あのご老人のような人が耳にしたら『もしかして同類なのでは?』と思えるように、今の時代にない名称を使うのもありだと思うのよ」
「え、ええぇ──」
小一郎様たちが困惑した声を上げる。確かに突拍子もないよなぁ。
「い、いや、しかし無明殿たちにこちらのことが知られてしまう危険性が──」
「もうとっくに知られちゃってるじゃない。それこそ『何を今さら』よ。
あのご老人のように、未来の知識を利用する機会もなく埋もれている人が他にもいるかもしれない。
そういう人が、今はまだないはずの未来の名称を耳にしたら、真相を確かめに訪ねて来てくれるかもしれないでしょ?」
「いや、逆にそいつが、無明殿と先に手を組んでしもうたら──」
「絶対にあり得ないわね」
え、何ですかその自信満々な顔は。
「そういう人が、どうやって無明殿の存在に行き当たるの? 私たちにすら、まだ誰なのか確信が持てないくらい存在を隠しているのよ。普通の人がそれを探り当てるなんて──いや、その存在にすら気づかないと思うわ」
「う、言われてみれば確かに……」
「実はこれ、こちら側だけの強みなのよ。こちらは無明殿にもう存在を知られてしまっている──つまり、多少そういう情報を広めたところで大して変わりはないのよね。
逆に無明殿は、こちらの意図に気づいたとしても、同じ手は絶対に使えない。それをすれば、自分の正体に繋がる手がかりを私たちに与えることになってしまうもの。
どう? やってみる価値、あると思わない?」
──ああ、なるほど。そもそもの発想からして違うんだ。
隠したい秘密がある時、普通ならどうやってそれを隠し通すのかばかりを考える。でもお駒様は、どこまでなら知られても大丈夫か、意図的に情報を漏らすことで何か他の効果は得られないかまで考えているのだ。やっぱり凄いなぁこの人。
「ううむ──さすがは駒殿。お館様やお方様が認めるだけのことはあるな。
小一郎殿ひとりでもこれだけ色々なことが出来たのだ。もし、同じような人がもっと増えたら──確かにためしてみる価値はありそうだな」
三介様は、お駒様の提案に納得がいったようだ。
──ちなみに、三介様に堀次郎殿のことはまだ教えていない。それはやはり本人の了承を得てからのことだと思うので。
だが、小一郎様はまだ腕組みをして思案気な顔のままだ。
「いや、まだ問題はあるぞ。坂本龍馬には味方も多いが敵も多かった。何しろ、最後は誰かに暗殺されたくらいだからな。
もし、その者が龍馬と敵対するものの記憶を持っていたら──」
「大丈夫です、そのために俺たちがいるのです。俺たちが絶対にお守りします」
自分でも驚くくらいすんなり言葉が出た。
「それに──言葉さえ交わしてしまえば、小一郎様ならかつての敵ですら丸め込んでしまえるのでは?」
そんな俺の言葉に、小一郎様が少し屈託のなくなったような笑顔を見せた。
「言ってくれるなぁ、新吉。まあ、わしも油断さえしなければ自分の身くらいは守れるし、あとは味方にするも敵にするも、わしの弁舌次第ということか。
──よし、決めた。これからは流派名も堂々と名乗るとしよう」
そう言って、小一郎様は木剣を手に立ち上がった。
向こうの方では、どうやら立ち合いなどが落ち着き始めているようだ。
「──さあ、休憩も終わりじゃ。そろそろ誰がわしのお相手してくれるのかは決まったかいの!
この『北辰一刀流』免許皆伝・羽柴小一郎が存分にお相手つかまつろう!」
さて、その晩、夕食を食べている時に、孫一殿が紀州雑賀に帰るといきなり切り出してきた。
明日にもここを発ち、志摩から九鬼に船で送ってもらい、南紀回りで帰るとのことだ。
「いつまでも雑賀党を放っとくわけにもいかんからな。
御曹司(三介)にも頼まれたので、しばらく小一郎の稽古に付き合ってやろうかとも思ったが、正直あれはもう御免だな。
北辰一刀流とか言ったか? 妙にやりにくいし、疲れてイライラするんだよ」
「はは、すまんな。北畠の御隠居とやるのに、あれこれ欲張っても厳しいと思うてな。攻めは捨てて、受け流しばかり練習させてもらったんじゃ」
「いや、しかしそれで勝てるのか? 相手は凄腕なんだろう?」
「まあ、三介様からはそれなりにいい勝負をして、なるべく時間をかけてくれと頼まれとるからな。
何かお考えがあるんだろうが、それまではせいぜい疲れさせて苛立たせてやるわ」
「意地悪い顔しとるなぁ。──まあ、そういうわけで俺はここまでだ。
お駒殿、世話になりもうした。いずれ小一郎の元に押しかけ家臣になりに来るので、よろしくお願いいたす。
それまでに、雑賀水軍全てとはいかんが、まあ、三分の一ぐらいは連れてこられるよう、口説いてみせますので」
そう挨拶する孫一殿に、お駒様が何やら含みのありそうな笑顔を向けた。
「ずいぶんと自信家ですこと。──そういうところが神戸城の女中たちに受けたのかしら」
「ぅえっ──⁉」
「色々な方と夜毎にずいぶんお楽しみのようでしたけど──雑賀に戻ったら、ちゃんと奥方のことも大事にしなければ駄目ですよ?」
うわ、お駒様の満面の笑みが怖い。これは『貸しにしておきますよ?』という顔だな。
「あー、いや、それはその──誠に恐れ入りました」
そんな間抜けなやり取りを尻目に、小一郎様は何やらじっと考え込んでおられたのだが、しばらくして真顔で口を開いた。
「孫一、最後にもう一度だけ訊くぞ。本当にわしの下で構わんのだな?
織田はいずれ支配下の水軍を組織化するじゃろ。そこに属さないとなると、陪臣という形になってしまうんじゃが──」
「ああ、かまわん。俺たちは窮屈なのは御免だし、遊軍的な部隊があった方が用兵の幅も広がるだろう?
俺たちは、やりがいのある仕事とそれに見合った報酬さえありゃそれでいい。直臣か陪臣かなどは気にせん」
「わかった。ならひとつ頼みがある。
──雑賀水軍の全員が来るわけでもないのに、いつまでも『雑賀水軍』と呼び続けるわけにもいかんじゃろ?
そこで、わしの下に来る水軍には、全く新しい名を名乗ってほしいと思っとるんだがな」
「ほう、どんな名だ?」
「海の仕事で織田家を──いや、日ノ本の万民を援ける部隊。──『海援隊』じゃ」




