007 秘密同盟の結成 竹中半兵衛重治
「──ああ、よかった……」
小一郎殿が頭を下げた後の長い、長い沈黙を破ったのは、そんなおね様の安堵の声でした。
「義姉上──え、何で涙を……?」
「実は私、少し怖かったのです。小一郎殿が、何だか得体の知らない誰かにお心を乗っ取られてしまったのではないかと……。
でも、やっぱりあなたは、兄思いの優しい小一郎殿のままなのですね」
──ああ、やはりこの人にはかないませんね。
私のようにあれやこれやと小難しく考えなくとも、おね様には、直感的に事の本質を見抜く目がおありだ。
小一郎殿も、空気が変わったことに安堵したのか、大きな身振りでおどける様に返します。
「義姉上──そりゃそうです、わしはわしです! 兄者や義姉上、家族を思う気持ちは、なーんも変わっちょりません!
……まあ、多少、龍馬の記憶につられて、ものの見方や考え方が変化したことは否めませんがの」
「『りょうま』? それが小一郎殿の中のもう一人、なのですか?」
「じゃじゃ、そこはまだでしたな。
わしの中のもう一人のわしは、土佐の坂本龍馬、という男です。いささか、侍らしくない変わった男でしてな」
さかもとりょうま……。
「土佐の方でしたか。ああ、それで言葉遣いが──」
「う……、やはり、少し不自然でしたかの?」
「はい、はっきり言って、相当変でしたよ」
おね様の指摘に、小一郎殿はがっくりと肩を落としました。
「仕方ないですろ。
──元々の尾張言葉に、慣れない武家言葉、最近は京でのお勤めのために、京言葉や公家の言い回しも覚えている最中に、いきなり土佐言葉が一気に頭に流れ込んで来て──もはや、自分でも今どこの言葉を喋っとるんだか、全くわかっちょらんきに」
「……まあ!」
ひとしきり三人で笑いあった後、おね様がふと思い出したかのように切り出しました。
「ところで、小一郎殿。私、先ほどから口にされている『歴史が変わる』というのが今一つ意味がわからないんですけど……」
「ああ、実はわしにもよくわかっとらんのですが──。
義姉上、もし、わしが戦で龍馬のご先祖を殺してしまったら、どうなると思いますか?」
「え? ──そうなると、りょうま殿はこの先、生まれない事になる──んでしょうか?」
「そうなると、今わしの中にある龍馬の記憶は、どうなるんじゃろ?」
「え? ──え?」
「例えば、わしが龍馬の記憶に基づいて未来の強力な鉄砲を作ったとします。その鉄砲を作ったことで、本来負け戦だったのを勝ち戦に変えてしまう。その鉄砲で、死ななかったはずの龍馬のご先祖が死んでしまったとしたら──。
知恵者の半兵衛殿にならわかりますかの?
龍馬が生まれて来なくなるのなら、その龍馬の記憶で作った鉄砲はなかったことになるんじゃろか? ──と、考えが堂々巡りしてしまうんじゃ」
なるほど、なかなか興味深い問題ですね。
「──ああ、それで金ケ崎では敵兵をなるべく殺さないようにしていたのですか?」
「いや、まあ、それは性分のせいでもあるんですがの──龍馬は、とある流派の免許を持つほどの腕なんじゃが、実は人を斬ったことがありませんでな」
「──あ、なるほど! 小一郎殿が急に剣豪のようになったのは、りょうま殿が剣の達人だったから、なのですね?」
「まあ、わしがそれなりに体格がよかったから、でもあるでしょうなぁ。百姓仕事でそれなりに腕力もありますし。もし龍馬が入ったのが兄者だったら、ああまで剣は振るえなかったかも、ですな」
おね様の中でも、何だか、色々な事のつじつまが次々と合っていくようです。
さて、りょうま殿の先祖をもし殺してしまったら、どうなってしまうのか──。
「ふむ──そうですね。今の先祖殺しの話ですが、あまり気にしなくてもよいのではないですか?」
「半兵衛殿?」
「たとえ自分が誰も殺さなくても──三百年とか言ってましたね、その間に歴史が変わる機会というのは無数にあると思うのです」
そう、先日、藤吉郎殿と小一郎殿は、本来起こる筈の浅井家滅亡を回避してしまった。
では、本来死んでいたはずの浅井兵やその子孫が、りょうま殿のご先祖を殺すことも起こりえるのでは……?
あるいは、本来いるはずのない者がいることで、ご先祖の夫婦同士の縁が他の人と結ばれてしまうこともあるのでは……?
「──とまあ、このように、りょうま殿の記憶と違う歴史の流れになってしまう可能性は、それこそ小一郎殿おひとりでは全て防げぬほどに、いくらでもあるのではないかと思いますね」
「なるほど──ただ単に誰も殺さなければいいという事でもなさそうですな」
「もはや、りょうま殿が知っている歴史の流れとは別の流れになってしまったと考えるのが妥当でしょう。
──それに、小一郎殿は、歴史を変えてでも、藤吉郎様を天下人にさせないおつもりなのですよね。
ならば、いいではありませんか。思うがままにやってみればいいと思いますよ。
──で、小一郎殿。これから先どのような歴史になるのをお望みですか?」
「そうですな──月並みな言い方にはなりますが、やはり、皆が平和に笑って暮らせるような世の中にしたい。龍馬の時代は決してそうではなかったからの。
天下は統一されて、戦のない世にはなったが、あいかわらず民百姓は貧しく苦しいままじゃ。
やはり、日ノ本全体がもっともっと豊かにならにゃいかん。
そのためにも、乱世はさっさと終わらせてしまいたい。──だからといって、暴君が誕生してしまうのも困るがの」
「なるほど」
「国をひとつにまとめて、異国と広く交易して、豊かにしていく。その辺りでこそ、龍馬の知識が活かせるはずじゃ。
そのためにも、異国との関係を損ねるような大陸出兵、これは絶対にやめさせたい」
「はい」
「お館様に思いとどまっていただくのが難しいようなら、ご嫡男の信忠様──奇妙丸様がそんな野望を抱かぬように仕向け、あの謀反が起きても奇妙丸様だけ助かるように、手を打ちましょう」
「藤吉郎殿のことはどうされるのですか?」
「うーん──まあ、兄者に関しては、幾重にも幸運に幸運を重ねた上での大出世なんで、途中でほんの少し足を引っ張るくらいで天下人の目はなくなるとは思うんじゃが。
出来れば、織田家の宿老くらいまででとどまるようにしておきたいですの」
──なかなかに難しそうですね。あの藤吉郎殿に、ほどほどの出世で満足するように仕向けるとは。
「──それでも、もし兄者が天下人になってしまって、天下万民に害をなすようなことがあれば、その時はわしがこの手で──義姉上、よろしいですな?」
小一郎殿の険しい顔つきでの一言に、おね様が覚悟を決めた厳しい顔で頷きました。
「さて、ここまでわしの秘密を教えてしもうた以上、お二方にはとことんわしにつきあっていただかねばなりませんな!」
夜も更けてきました。そろそろお開きに、という空気になってきた頃、小一郎殿がふいに切り出しました。
「お二方にあまり詳しい未来を教えてしまって、歴史が変わってしまっては、とも危惧しとりましたが、今後わしの企みに協力していただく以上、お二人のこれからについても、少しお教えしておいた方がよさそうですな」
──いったい、自分の未来に何が起きるのでしょう。その片鱗をこれから知るということに、私もおね様も思わず息を呑みます。
「──義姉上。義姉上はまず、兄者との子作りを頑張って下さい。義姉上と兄者の間に子が出来ず、性悪な側室に子が出来ることで、家中にひどいお家騒動がおきますので」
「は、はい!」
おね様が、お顔を真っ赤にしながら応えます。ああ、何か、いいですねぇ……。
「兄者の女遊びには、わしと半兵衛殿で目を光らせておきます。──それと、半兵衛殿!」
「は、はい!?」
「半兵衛殿は──今のままでははっきり言って早死にします」
「え──ええぇ……」
……ど、どう受け止めればいいんですか、こんな話!?
「まず、酒は今すぐにでも止めてくだされ!
それと、お二方とも、体力をつけるため、食事を少し見直して頂きます」
「──」
「わしの望む未来のため、お二人にも、なるべく永く元気でいてもらわねば困ります。
もはや我らは一蓮托生。兄者のため、この日ノ本の未来のため、とことん協力していただきますぞ!」