061 次郎様の書付け 樋口赤心斎(三郎左衛門直房)
今朝も、寝起きから体が軽い。
先日、樋口家の家督を息子に譲り、家老職を退くことの許しを次郎様から得た。
ついでに、少し危うくなっていた髪も剃り、入道して『赤心斎』と名乗ることにした。──まあ、この先、誰かを裏切ることなど決してしないという戒めの意もある。
かくして、晴れて隠居の身となったのだが、それ以来、十は若返ったようにも感じられる。
自分ではまだまだやれると思っていたのだが、実は相当にくたびれていたのだなあ。
息子は『隠居など早すぎます。それに私もまだ未熟なので』などと尻込みしておったが、甘えるなと一喝してやった。次郎様は、お前よりはるかに若くして当主の座に就かれたのだぞ。
もっとも、家老職は息子ではなく、次席家老に譲ることにした。息子に譲ることも出来なくはなかったが、あいつはそこまでの器でもなかろう。家老になりたくば、もっと苦労をせねばなるまい。
次郎様からは『これからは好きに生きて欲しい』とも言われたが、あまり離れてしまうのもまずかろう。何しろわしは、次郎様や小一郎殿の最大の秘密を知ってしまったのだからな。
そう考えて、当面はものづくりの仕事を手伝うことにした。
次郎様の知識は、小一郎殿のそれをはるかに凌ぐものだが、当主の仕事もあるし、そう足繁く職人たちのところへ通うわけにもいかん。
そこでわしは、次郎様が書き出したものづくりの指示書などを預かり、鎌刃城と小一郎殿の今浜の屋敷、国友村、そして治部左衛門殿の忍びの里とを行き来する日々を送ることとなったのだ。
新しく作られるものを見ているのは意外に面白い。気が向いたら鎌刃城に戻り、時には半兵衛殿や治部左衛門殿の屋敷に泊って酒を酌み交わす。なかなかに気楽な毎日だ。
──ただ、小一郎殿の屋敷にはまだ泊っていない。一度、新婚の様子を冷やかしにでも行ってやろうと思ったのだが、何故だか半兵衛殿や治部左衛門殿が、真面目な顔で『やめた方が身のためです』と反対するのだ。
わしも、小一郎殿の考えた料理を食べてみたいのだがなぁ。
「ううむ、これはまた凄いのう……」
今日は、その小一郎殿の屋敷に来ている。小一郎殿と半兵衛殿、治部左衛門殿が今見ておるのは、この先実現できそうな未来の知識について、次郎様がずらりと一覧に書き出したものだ。
それぞれの事柄について、また別の書面に詳細が書かれているのだが、それらの書面もすでに結構な量になってきている。
「次郎様が、『いずれ(中島)三郎助殿の記憶が薄れるのであれば、鮮明なうちに出来るだけ記録して残しておく』と言われてな。
今、凄い勢いで思いつく限りのことを書きなぐっておられるのだ」
「おお、それはありがたい。しかし、これほどの量とは──体調の方は大丈夫なんかの?」
「まあ、今は気力体力ともに充実しているとおっしゃられてな。ちゃんと休養と睡眠はとっていただくよう、家臣たちにもよくお願いしてある。しばらくは好きにしていただこうと思うてな」
「──しかし、驚くほど知識が幅広いですねぇ。大砲や船のことばかりか、農業のことや商業のことまで──」
半兵衛殿も感心しきりだ。ぺらぺらと書付けをめくりながら、気になったところを紙に書き出している。
「ああ、三郎助殿は病でお勤めを休んでいた間も、いつも雑多な本を読んでいたそうだ。
幕府の海軍なんとか所の一期生に選ばれたくらいだから、元々、相当な秀才だったんだろうな。
なんでも、後に討幕派の筆頭の一人となる長州の『かつら』という者や、その師匠の『よしだしょういん』とかいう大物たちも教えを乞いに訪ねてきたらしい」
「『かつら』さんや『しょういん』先生が? それは知らんかったのう」
小一郎殿──龍馬殿もそのご仁たちのことを知っているらしい。それほどの有名人に教えを乞われるとは──すごい人だったのだな、三郎助殿とは。
「──この『旗振り通信』というのは、なかなか面白そうですな」
次郎様の一覧の中で、治部左衛門殿が興味を示したのは、情報を素早く伝達する仕組みだ。
「ああ、それなら聞いたことがあるぞ」
小一郎殿も、それについては知識があるらしい。
「徳川の時代には、米の商いの中心が大坂になっておってな。そこでの相場の上げ下げが全国の相場に影響するので、いち早く情報を広める必要があったんじゃ。
そこで二・三里毎に高台や、平地では櫓を建てて旗振り場を作ってそこに人員を配置して、旗の種類や振り方で情報を次々に伝えていくようになったんじゃ。
何でも、大坂から安芸(広島)まで、最短で四半刻(約30分)ほどで情報が届いたとか聞いたことがある。
もっとも、遠くを見るための『遠眼鏡』という道具が家康殿の頃に普及した後の話じゃがな」
「それにしても、とんでもない速さですねえ」
「我々忍びにも情報を素早く伝達する手立てはあるのですが、さすがにそこまでの早さはありませんな。
──しかしこのやり方だと、他国の間者などにも見られる可能性があります。軍事情報や指令を伝達するには、いささか問題があるかと──」
「まあ、そこはやり方次第じゃろ。振り方を何種類か決めておいて日によって変えるなど、やり方は色々考えられるしの」
「それに、そこまで複雑なことを伝達しなくても、充分に有用ではないですかね」
半兵衛殿も意見を挟んでくる。
「例えば、そうですね──『武田・侵攻・三河』のように、必要最低限の情報が素早く諸将にいきわたるだけでも、いち早く出兵準備に取り掛かることも出来るでしょうしね」
「──どうじゃ、治部左衛門。その辺の決まりごとを、おんしらで考えてみんか?
織田家の者にはわかりやすく、しかし他の者には簡単にわからないような仕組みを考えてみてくれ。あと、遠眼鏡が普及するまで、どのくらいの距離で旗振り場を設けるべきか、などもじゃな。
なかなか面白そうな仕事じゃろ?」
「──は。そういうことは、まさに忍びの得意とするところです。お任せください」
治部左衛門殿が、不敵な笑みを浮かべて請け負う。
──小一郎殿が『最も信頼する右腕』とまで言った治部左衛門殿が、忍びの首領だと聞いた時には驚いたが、この二人にはかなり深い信頼関係があるようだ。
この辺りの人心掌握術は、さすがだな。
「──しかし、これはちょっと……どうするかのう」
小一郎殿たちが、揃って躊躇いの色を見せる。
次郎様の一覧の中に、実に驚くべき記述──硝石の作り方──があるのを見つけ、初めは『これは是非やらねば!』と皆で色めき立っていたのだ。
鉄砲に不可欠な火薬の原料となる硝石は、日ノ本では産出されない。どうしても、異国からの輸入に頼らざるを得ないのだ。しかし次郎様の書付けには、その硝石を作る方法というのがはっきりと書いてある。
この記述を見た時、半兵衛殿も小一郎殿も『これが本当なら大発見だ!』と喜びの声を上げていたのだが──その二つ目の方法というのを見たとたん、その顔色がげんなりとしたものに変わったのだ。
「この一つ目の『古土法』というのは、古い民家の床下の土を集めるだけですからさほど問題はないですが、あまり量が作れないと書いてあります。
この『培養法』の方でなら、大量に作ることも可能だということですが、しかし材料があまりに……ですねぇ」
半兵衛殿が、心底不快そうに顔を歪める。
無理もない。そこに書いてあった『培養法』の材料というのが、ヨモギやニガクサなどの植物やカイコの糞、そして──大量の人馬の糞尿。
それらを積み上げて何年かかけて腐らせるというものだったのだが──字面を見ただけで、それがどれほどの強烈な臭いを伴うものなのか、容易に想像がつく。
次郎様も、その書付けの余白に『知識で知っていただけで、やったことはないですし、自分がやるのは断固拒否します』と力強く書き殴っておられるしなぁ。
「しかし、本当にこんなものから硝石が出来るのですか? にわかには信じがたいのですが──」
「いや、信憑性はありそうですぞ」
訝しげな半兵衛殿に、治部左衛門殿が応える。
「実は忍びにも、昔からごく少量の火薬を作る方法が言い伝えられています。秘伝なので詳しくお伝えすることは出来んのですが、材料は似たようなものです。
おそらく、これで硝石が作られることは間違いないでしょう。試してみる価値は充分にあると思います」
「──小一郎殿、どうします?」
「うーん。──仕方ない、またあの手を使うか」
「うわぁ……」
それを聞いたとたん、半兵衛殿と治部左衛門殿が、何とも言えない微妙な表情を浮かべた。
「ん? 何だ、何か問題でも──?」
「いや、それがですね、赤心斎殿。小一郎殿ときたら、死罪間違いなしの罪人たちに助命をちらつかせて、厄介極まりない仕事を押し付けちゃうんですよ。ひどい人ですよねぇ」
「うわぁ」
「──『ひどい人』とは心外じゃの。織田筒の試射に比べたら、死ぬ危険性がないだけはるかにマシじゃろ。それを何年か勤めれば罪を許してやろうというんじゃ。
わしほど慈悲深い人間は、そうはおらんと思うぞ?」
「いや、たぶん『死んだ方がマシだ』というくらいの地獄の苦しみだと思いますよ、これ」
途中、部屋の外から声がかけられ、お駒殿が握り飯などを差し入れしてくれる。
その際の二人のやり取りを見て──半兵衛殿たちが、この屋敷に泊まるのを止めた理由に察しがついた。
確かに、こんな甘ったるいやり取りを見せつけられては、飯など喉を通らなくなりそうだわ。
そのお駒殿が下がっていった後、ふと思い出した。次郎様の嫁取りに関する、極めて重大な相談があったのだ。
「おお、そうだ。皆に折り入って相談があるのだが──。
実は今、堀家断絶の危機ともいえる困った状況でなぁ」
「だ、断絶──!? また、ずいぶんと大層な話じゃの。何があったんじゃ?」
──次郎様は、早くに両親を亡くされ、ご兄弟もいない。そもそも堀家自体が新庄家の分家筋なので、係累もほとんどいない。
次郎様に早く嫁取りをしてもらわなければ、堀家の血筋が絶えてしまいかねんのだ。
それゆえ、昨年くらいから次郎様の縁談を模索し始め、何人かの候補も挙げていた。
次郎様ご自身も、どのような娘が嫁に来てくれるのかと、楽しみにされているようなところもあったのだ。
「──ところが先日、『病も癒えたようですし、そろそろ縁談を進めましょうか』と言ったところ、泣きそうな顔で『当分、嫁など欲しくはない。その話はするな』と強く拒否されてなぁ。
理由を尋ねても頑として答えて下さらんし、ほとほと困り果てておるのだ」
「──あ」
「何だ、小一郎殿、何か思い当たる節でもあるのか!? 何でもいい、間違っていてもいいから教えてくれんか」
正直、家臣一同、皆目見当もつかないのだ。同じような境遇の小一郎殿には、何かわかるのではないと期待はしていたのだが。
「あー、いや、その──しばらくは龍馬の記憶が、どんなことでも鮮明に思い出せたと言いましたよな?
ひょっとしたら次郎殿は、三郎助殿の奥方との、その、色々な何かの記憶をついうっかり思い出してしまったのではないかと」
そ、それは何と言うか──実にお気の毒な。
まだまだ女性に対して、淡い幻想を抱いておられても不思議のないお年頃だ。
それなのに、自分の母親以上の年齢の女性との様々な、その、何かの記憶をはっきりと思い出してしまったのだとしたら──。
それは、夢も希望も無くなるわなぁ。
半兵衛殿も治部左衛門殿も、何とも痛ましげな表情を浮かべている。
「──ま、まあ、その辺は三郎助殿の記憶が徐々に薄れるのを待つしかないじゃろ。
時間が解決するまで、しばらくはそっとしてあげてくれんか?」
「──まあ、嫁取りの話はともかく、未来の技術を実現するためには、三郎助殿の記憶を出来るだけ保ち続けてもらいたいというのが本音なのですがね」
しばしの沈黙の後、治部左衛門殿がけっこう身も蓋もないことを口にする。
「農法や商業の方面でも、試してみるべき価値のあるものが色々とあります。
しかし、他のものはおおむね字面からどんなものか予想がつくのですが、これだけは全く見当もつかんのです。
小一郎様、これについては何かご存じですか?」
そう言って治部左衛門殿が指差したところには、『種痘』という文字が書いてある。
確かに意味が全く想像もつかんが、小一郎殿はそれを見たとたんに顔を輝かせた。
「『種痘』──そうか、それがあったか!
皆、聞いて驚け。この技術で、この日ノ本から痘瘡(天然痘)を無くすることができるかもしれん」
「と、痘瘡が無くなるですと──!?」
皆、絶句している。痘瘡は致死率も感染率も極めて高く、治療法もない。何年に一度かは大流行して多くの命を奪う、危険極まりない病なのだ。
「まことに治せるのか!?」
「いや、治療法ではなく、痘瘡に罹らないようにするための方法なんじゃ」
そう言って、小一郎殿がその仕組みについて説明してくれる。
──日ノ本では見られないが、異国では牛が罹る痘瘡に似た『牛痘』という病があるらしい。
そして、牛痘は人にも移ることがあるそうなのだが、症状がごく軽いもので済むし、一度罹った者は人の痘瘡にも罹らなくなるとのことなのだ。
「え、それはつまり──?」
「人を、あらかじめ牛痘にわざと罹らせることで、痘瘡に罹らなくしてしまう、ということなんじゃ。
これが日ノ本中に広まれば、新たな痘瘡患者は出なくなる。つまり、日ノ本から痘瘡が無くなるんじゃ!」
「そ、それは凄い!」
半兵衛殿が感嘆の声を上げる。あんな危険な流行り病が、事前に防げるということならば──!
だがそんな中、何故か治部左衛門殿だけは、妙に深刻な表情を崩していない。
「──お待ちください。その種痘とやらを行うためには、牛痘に罹った異国の牛がまず必要になる。そういうことですな?」
「ああ、そのとおりじゃが──?」
「実は、坂本に潜伏した部下から報告が来ております。
明智様が堺の商人を通じて、南蛮商人たちから色々なものを購入しようとしておられるようでして。
玻璃(ガラス)の器や硝石など、よくあるものばかりでしたのであまり気にも留めていなかったのですが──その中に少し奇妙な品目があったのです。
『大陸の牛、二十頭。多少病に罹っていても同じだけ金は支払う』と」
──しばし、重い沈黙が流れる。ようやく口を開いたのは半兵衛殿だ。
「これは──いよいよ無明殿も動き出しましたかね?」
「これまで、未来の知識を再現しようとするような気配はなかったんじゃがなぁ。
──治部左衛門、おんしはどう見る?」
小一郎殿の問いに、治部左衛門殿が険しい顔で推論を口にする。
「おそらく、先日の明智様との会談で、我々が明智様を一番に疑っていると確信したのでしょう。すなわち、自分の正体にはまだ見当もついていないと。
明智様と無明殿に繋がりがあることははっきりしましたが、それも明智様が白を切りとおせば済む話。これならば、未来の技術の再現に動き出しても問題ないと判断したのではないかと」
「ふむ。まあしかし、それが武器の知識ではなく医術の方の知識なら、さほど問題はなかろう?」
「何をのん気な──! 逆です。むしろこちらの方が──はるかに脅威です」
そう鋭く答えた治部左衛門殿の表情は、ひどく強張っている。
「意図的にどこかの国に流行り病を広める手立てなど、忍びにはいくらでもあります。しかし我らは、治療法や予防法のない病をそのようには使いません。自分たちにまでうつっては困りますので。
しかし、痘瘡ほどの危険な病の完全な予防策を、無明殿たちだけが手に入れてしまったとしたら──どういうことが可能になるか、おわかりになりませんか?」
「え? ────ま、まさか──!?」
「そうです。その場合、痘瘡は他国を脅迫する強力な切り札にも──それどころか、ひとつの国に甚大な被害を与えることすら可能な、凶悪極まりない兵器にもなり得るのです」
『──っ!?』
治部左衛門殿の、身の毛もよだつような恐ろしい予測に、皆が言葉を失う。
「──小一郎様。これは、これだけは断じてやらせてはなりません!
病の治療法や予防法は、世に広めてこそ初めて皆の役に立つのです。悪意ある者がそれを独占してしまっては、万民にとって悪夢のような災厄を引き起こしかねません!
これは、断固として阻止して、こちらが先に大々的に広めてしまわねば──!」
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