054 巣立ち 竹中半兵衛重治
突然、お駒殿の養女の話を持ち出したお館様の隣で、藤吉郎殿が、ふと不機嫌そうに眉間にしわを寄せませした。
「小一郎と駒殿の婚姻? ──そりゃ一体、何の話だ?」
──こ、これはまずい! おね様の妊娠騒ぎやその後の双子の騒動で、藤吉郎殿にはその辺りのことをまだ伝えそこねていたのです。
「おい、小一郎!? そりゃどういうことじゃ? 何でお館様が知っておるのに、わしに何の相談もなかったんじゃ?
しかも、よりにもよってその娘と、だと!? 忘れたのか? その娘は一度はわしに──」
「どうした、駒? 早う答えんか。おぬしの父は誰だ? どこの家の者なのだ?」
「あ、いや、その──」
お二人から同時に質問されて、どう答えてよいのか困っている小一郎殿とお駒殿に、何とか助け船を出してあげようかと、私が口を開きかけたその時。
「──申し上げますっ!」
意を決したように、お駒殿が床に両手をついて、二人の質問を遮るように大きな声を張り上げました。
「私は、浅井家の一門、浅井玄蕃丞の娘でございます!」
「浅井玄蕃丞──政澄か? 確か、久政に与して粛清されたと聞いたが──。
それでは、長政や羽柴を恨んでいるのではないのか?」
お館様の問いかけに、どこまで答えて良いのか迷ったのか、お駒殿は一瞬ためらいの色を見せたのですが──。
「確かに一度は恨みました。それどころか、生活に行き詰った逆恨みから、愚かにも藤吉郎様に刃を向けてしまったこともあります! その節は、誠に申し訳ありませんでした!」
──向けたのは刃ではなく銃口でしたけどね。
「そんな私を許すどころか、働き口や、弟の奉公先までお世話していただきました。長政はともかく、羽柴家の方々にはもう感謝の思いしかありません。その上、厚かましくも──」
そこで小一郎殿が、お駒殿の言葉を手振りでそっと優しく遮ります。そして、両手をついて藤吉郎殿に向き合いました。
「兄者! 報告が遅れたことは謝る。
兄者が、命を狙ったお駒のことを面白く思っとらんことはわかっておる。しかし、あれは六角が心の弱みにつけ込んだためで、お駒も今では深く反省しておるんじゃ。
それに──それに何よりわしが本気なんじゃ! お駒に本気で惚れて、嫁になって欲しいと心から思ったんじゃ!
頼む、兄者、わしらのことを許してくれ! この小一郎、生涯ただ一度、最初で最後の自分のためだけのわがままじゃ! 頼む、この通りじゃ!」
小一郎殿とお駒殿が揃って平伏したままの、重い沈黙を破ったのは──。
「んー、別にかまわんぞ?」
意外なほどあっけらかんとした藤吉郎殿の声でした。
「──え?」
驚いて顔を上げた小一郎殿たちの前で、藤吉郎殿はひょうきんな顔でぺろりと舌まで出してみせたのです。
「おんしらのことは、おねからとっくに聞いておったわ。いつまでたってもわしに言いに来んから、怒ったふりをしてみただけじゃ。ひひひ、まんまと騙されおったの?」
「え──!?」
「あ、あの、藤吉郎様、誠によろしいのですか!? 私はあの時、藤吉郎様のお命を狙って──」
「はて、何のことじゃったかな? 水に流すと言ったじゃろ? もう忘れてしもうたわ。
それに、駒殿はおねのことも慕ってくれとるようだしの。よく、嫁と小姑や姑との仲がこじれて、という苦労話も聞くしな、そういう心配がないというのは──。
──ん? ……あっ、あああああっ!!」
突然、それまで楽しそうに話していた藤吉郎殿が、何かを思い出したかのように大声を上げられました。
「ど、どうした、兄者!?」
「──姑じゃ、母様の事じゃ! 城持ち大名になったら城に住まわせて楽さしたると約束しとったに、双子の騒ぎで、すっかり頭から飛んでおったわ! ど、どうしたらええんじゃ!?」
「ああ、そのことか。ははは、そんなことだと思うとったわ。
安心してくれ、母様にはわしがたまに文を送っとる。
これから寒さが厳しくなるで──そうじゃな、関ケ原から雪が無くなる頃に、兄者が迎えに行ったらどうじゃ?」
「お、おお、そうじゃな、そうするか!」
そんな賑やかで和やかな雰囲気の中、何故か少し難しそうな顔で考え事をされていたお館様が口を開かれました。
「──あー、藤吉郎の許しが出たのは結構なのだがな。
駒に父親がいないというのは、婚礼上いささか問題があると思うのだが、おぬしら、その辺りはどうするつもりだったのだ?」
「え? いや、わしはまだよく考えていなかったのですが──」
「わ、私も、行き遅れにならなくて済むのであれば、その他のことは正直どうでもいいと言いますか──」
──うわぁ。言葉はいまいち素直じゃないですが、薄桃色に頬を染めてはにかんだお駒殿は、もう感情がだだ洩れなんですけど。
「ううむ、何だかちと胸焼けがしてきたぞ……。
いや、しかしそういう訳にもいくまい。小一郎も今や、城持ち大名の一門衆、筆頭家臣だ。やはり形はある程度きちんとしておかんと、示しもつかんし、藤吉郎にも恥をかかせることになるぞ?」
それについては、私に前もって用意していた考えがあるのです。
「お館様。実は私の一門の者が、お駒殿を養女に引き受けても良いと申しております。その上で、竹中家の養女として羽柴家に嫁がせるという形をとって──」
「いや、それは止めておけ」
お館様が、言葉短く私の発言を遮られました。
「何故ですか?」
「先ほど話した派閥のことがある。今、半兵衛が申した形を取ると、傍から見れば『羽柴と竹中、浅井の三家が、より結び付きを強めた』とも受け止められよう。それでは、他の派閥のものを刺激しかねん。
ここはやはり、竹中や浅井、それと丹羽あたりに縁付けるのは避けた方がいい」
「なるほど」
「──実はな、最近、小一郎に公家からもいくつか縁談の打診が来ておる。『叡山問答』でずいぶん存在感を示したからな、利用価値があると思っておるのだろう。
今のところは大した家柄のところでもないし、小一郎が未だ無位無官だということで、わしのところで断っておるがな。
まあ、公家からわざわざ面倒くさい嫁を貰わんでも、今なら駒をどこぞの公家の養女にすることも出来ようが──しかし、それも悪手だ。
『公家衆が羽柴の派閥に肩入れして、織田の跡目に三介を望んでいる』などと取られかねんからな」
「何だかよくわからないのですが、派閥とはずいぶん面倒なものなのですね……」
お駒殿が、困惑したように溜息をつきます。
「だから、家中に派閥など作らせたくなかったのだがな。しかし、出来始めてしまった以上、何とか対立が深まらん方向に持っていく他あるまい」
──うーん、これは何だか、我々が最も望まない方向に話が進んでいるような気がするのですが……。
「これは、あくまでもわしの『希望』にすぎないのだがな。
駒には、小一郎に嫁ぐ前に、奇妙丸の派閥と目される家の養女となってもらいたい。
そうすることで、羽柴が奇妙丸と対立する意思がないと内外に示すことにもなると思うのだ」
「──具体的には、どちらの家をお考えで?」
「ふむ。佐久間は羽柴をはっきり嫌っておるからのう。河尻では羽柴と係わりがなさ過ぎて不自然だ。となると、ここはやはり、明智しかないと思うのだがな」
──ああ、やっぱり。
よりにもよって、無明殿の最有力候補である明智殿ですか……。
「おお、そりゃあええ! 十兵衛殿はわしと並ぶ出世株じゃ!
明智と羽柴の結びつきが強うなれば、家中での発言力も高まるし、近江の統治にも色々と協力できることも増えるじゃろ。これ以上ないお相手じゃ!」
私たちの思惑を知らない藤吉郎殿は、無邪気に喜んでおられますが、小一郎殿の顔にはげんなりとした色が見えます。
「……お館様のご命令ではなく、あくまで『希望』だとわざわざ言われたということは──これも、やはりわしが自分で交渉せよ、ということですか」
「そういうことだ。わしが派閥間のことに口を挟んだ、などと思われたくはないからな。
──ああ、それに十兵衛と帰蝶はいとこ同士だ。おぬしが十兵衛の養女を娶るとなれば、帰蝶の態度も多少は軟化するやも知れんぞ?」
「そういうことでしたら、まあ、何とかやってみますが──。
お駒もそれでいいな?」
「は、はあ。そんなことでお嫁入りが順調に進むのであれば──別にかまいませんけど」
相変わらず素っ気ない返事ですねぇ。──その表情からはまるで正反対の感情があふれ出してるんですけど。
「──ううむ、半兵衛殿、わしまで何だか胸焼けがしてきたんじゃが」
「奇遇ですね、藤吉郎殿。私もです」
その晩は、お館様のご要望どおり、羽柴流の送別の宴となりました。
『──お館様、なりません! その様に、正規の毒味役を経ない食事をお口にされるなど──』
『ああっ、三介様、まだ毒味も済んでいないものを、そのようにばくばくと──!?』
前回、まだ到着していなかった御小姓衆や馬廻衆の方々や、伊勢からのお迎えの方々は、羽柴流の食事に当初かなり頑迷に反対していましたが──。
最終的には、軍鶏鍋と焼き握り飯、清酒の魅力の前に、揃ってあえなく陥落しました。
まさに胃袋鷲掴み。小一郎殿の『旨いものを食わせてしまえばこっちのもんですわ』という言葉どおりですね。
そして、翌朝。
いよいよ、お館様と三介様が小谷を離れる時がやって来ました。
「義伯父上、伯母上、羽柴家の皆様。長い間、誠にお世話になりました」
おね様がまだ床から離れられないので、別れの挨拶はおね様の寝所で行われます。
此度は三介様のたってのご希望で、主君の息子としてではなく、あくまでお世話になった甥として御礼を述べる、という形になりました。
「おお、三介殿、まことに立派な若武者ぶりじゃ」
「ええ、あの頃に比べると背も伸びて、顔立ちもずいぶん凛々しくなられて──。今の三介殿を見て『うつけ』だなどと思う人はいないと思いますよ」
「はは、まあ、昔のわしを知っている者はそうかんたんに見直してはくれんでしょうが──あせらず気長にやります」
「大丈夫です。三介殿なら、きっと民に慕われる良い領主となられますよ」
「はい、しょうじんいたします」
そして、しばらく思い出話に花を咲かせていると、与右衛門殿が三丁の織田筒を持って部屋に入って来ました。
「殿、お待たせいたしました。たった今、国友村から届きました」
「おお、間に合ったか!
──三介殿、わしからの餞別じゃ。今ある織田筒の中で最も出来のいいものを、替えも併せて三丁用意させた。お館様にも許しを得ておる。持って行かれよ」
「よろしいのですか!? ──え、この形は……?」
これは私も聞いていなかったのですが、鉄砲を持つ銃把の部分がずいぶん長く、そして端にいくにつれ少し幅広くなっています。
すると、小一郎殿がその一丁を手に取り、構えて見せました。
「三介殿、前に言われとりましたな、両手で鉄砲を構えるとだんだん手が疲れてきて、狙いが定まりにくくなると。
この銃床の部分を肩の内側に当てることで、三か所で重さを支えるようになるので、より安定するようになるんですわ」
「どれどれ、──おお、これはなかなかいいな! さすがは小一郎殿じゃ!」
「この新しい工夫がわしからの餞別です。いかにも、わしらしいじゃろ?」
そう言って、小一郎殿がにやりと笑って見せます。
「──あらあら、藤吉郎殿も小一郎殿もずるいですね。そんなことなら、私も何か餞別を用意いたしましたのに……」
少し拗ねたようなおね様に、三介様がとても穏やかな笑顔を向けられました。
「いえ、伯母上にはもう数え切れぬほどたくさんのものをいただきました。それは全て、ここと、ここに刻み込んでいます」
そう言って、誇らしげにご自分の頭と胸とを示されたのです。
「──伯母上や皆様から教え導いていただいたこと、このご恩はしょうがい忘れません。
ここにいる皆は、わしにとってもう一つの家族です。皆様にもし何か重大な問題が起った時は、わしにできうる限りのお力ぞえをいたすこと、お約束いたします」
「わしらもじゃ。羽柴家はどこまでも三介殿にお味方致すこと、誓いますぞ」
「伯母上、たまには無双丸や双葉の様子を、文で知らせて下され。
では、名残はつきませぬが、これにて──おさらばです」
玄関を出ると、そこにはお館様のご一行と伊勢衆のご一行が、すでに出立の支度を整えて待っておられました。
「──三介、もう良いのか?」
「はい、父上。もう充分です」
かすかに目元を潤ませながらも、毅然と顔を上げて歩むお姿の、なんとご立派なことか──。
「──あ、半兵衛殿。ひとつ頼みがあるんじゃが」
ふと何かを思い出してか、三介様が振り返られます。
「はい、何か?」
「お仙──あの侍女のことじゃ。改心して治左ヱ門殿の酒蔵で働き始めたんだが、その母親の病が、どうも症状をきいてみると脚病らしくてな。
あまりたちの良くない医者に、うそみたいに高い薬代を払っていたらしい。いちおう、蕎麦がいいとはすすめておいたんじゃが──」
「わかりました。一度いい医者に診てもらって、食事を指導するようにしておきます」
「頼んだ。こういうことは、やはり半兵衛殿が一番頼りになりそうなんでな」
こういう情の深いところは、これからも失くさないでほしいものですね。
そして、三介様は、私の隣にいる与右衛門殿に顔を向けられました。
ともに学び、競い合い、お互い認め合ったお二人には、もはや多くの言葉など必要ないのでしょう。
「与右衛門殿──では、いずれまた」
「はい、三介様。いずれ、また」
──周りの者には、ただのそっけない挨拶にしか聞こえなかったことでしょう。
しかし私たちは、彼らがこの一年余りの間に、どれほど深く強い絆を築いたのかを見てきました。
おそらく彼らは、この先何年経とうとも、お互いに絶対の信頼をもって背中を預けられる輩として、その絆を大事に保ち続けるに違いありません。
願わくば、彼らが運命の悪戯で、相争うようなことにだけはなりませんように──。
「──さて」
ひらりと馬に乗った三介様は、見送りの人たちの中に、もう一人なじみの顔を見つけられたようです。
「おぉい、駒殿! 色々と世話になったな!
虎松のことだが、本人が望むのなら、元服した後にわしの元に呼び寄せたい。かまわんだろうか?」
「いえ、それは駄目です」
『──な、何と無礼な!?』『娘、身分をわきまえよ!』
色めき立つ家臣を身振りで制して、三介様が重ねて尋ねます。
「虎松が仕えるのが、わしみたい『うつけ』ではだめかな?」
「いえ、三介様は必ずや良き主君になられると思います。虎松を可愛がってくれているのも、ありがたいと思っております。
ですが、情にほだされてはなりません。
三介様が厳しい目でしかと見定めて、弟の成長ぶりがまことにお眼鏡に適うのでしたら、そのときはぜひとも良しなに」
「はは、駒殿らしいな。あいわかった、しかとぎんみしてからにしよう。
──よし、これでやり残したこともない。行くか」
そう言って三介様は、南の山並みへと希望に満ちたまなざしを向けられました。
はるか南の伊勢へ──いえ、まだ見ぬご自身の未来へ、と。
今この時、三介様は少年であった日々に別れを告げ、織田家の次代を担う若き将のお一人として、新たな第一歩を踏み出されるのです──。
「向かうは伊勢、大河内城! ──皆の者、行くぞ!」
『応!』
「行ったか。──さて、ではわしらも行くか」
お館様もすでに馬上の人です。
「──ああ、小一郎。ひとつ言い忘れておった。
正月の評定で、おぬしの婚儀を皆に告げるぞ。派閥作りなんぞにうつつを抜かすうつけどもに釘を刺さねばならんからな」
「え、それはつまり──?」
「年内には駒の養女の話をまとめ、婚礼を済ませておけ──いや、済ませてくれればありがたい。
まあ、これもあくまで、わしの単なる『希望』にすぎんのだがな? ──よし、出立!!」
「え、えええ……!?」
最後の最後に、また随分な無茶を吹っ掛けられてしまいましたね。御気の毒に。
これにて第六章は終幕となります。
おね様の出産のことだけではなく、それに伴う若者たちの変化も描きたいと思っていたのですが、巧く表現できていたでしょうか?
またご意見、ご感想をいただければ幸いです。
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