004 苦渋の決断 木下藤吉郎秀吉
ようやく家臣たちを黙らせた長政殿は、改めてわしらに向き直った。
「お待たせいたしました、木下殿。
改めて──まず、妻子は岐阜城へお預け致します。その上で、父上の首級は必ずやこの手で挙げ、岐阜に持参致します。他に何か条件は──?」
「そうですな、此度、ご隠居様に与した方々には、二度と織田に歯向かわぬとの起請文を差し出して頂きましょう。それが出来ぬ方は、残念ながらご隠居様とともに……。
それと、そうそうに朝倉との戦が起こった折は、浅井家の方々は武装解除の上、しばらく禁足させて頂きます。申し訳ないが、万が一、があっては困りますからな」
小一郎に代わって答えたわしの言葉に、家臣たちが安堵の色を見せた。やはり、永年の交誼がある朝倉家に刃を向けるのは、心苦しいものがあったのだろう。
お館様が示された和睦の条件は、これで全てだ。
やったぞ、小一郎、上首尾じゃ!
「万事、心得ました──木下殿にはご足労をおかけいたしました」
長政殿が居住まいを正し、わしらに頭を下げる。
「いや、頭を上げて下され……」
「──いや! これは、それがしとしたことが、父の行状に動転したためか、大変な不調法を致しておりました!」
突然、長政殿が芝居がかったように大声でそう言うと、上座からわしらのところまで歩み寄り──やおらに平伏したのだ。
「織田家のご使者を下座に座らせるなど、誠にご無礼致しました。どうか、上座に──!」
何じゃと!?
それではまるで、わしらが浅井家の主家の使者であるようじゃないか。
──ま、まさか、織田家の同盟者の立場から、織田家を主と仰ぐ家臣の立場に自ら降りる、ということなのか!?
『殿! さすがにそれは──』
『それでは和睦ではなく、ただの降伏ではありませんか!?』
『浅井家は世の笑いものとなりますぞ!』
さすがに家臣たちも気色ばむ。だが、長政殿はその場に平伏したまま声を荒げた。
「黙れ! 我らは義兄上に歯向かった上に、その義兄上の温情によって生き永らえるのだ! この有様で、これまでと同様に『対等の同盟』などと思い上がっていてみよ、それこそ世の笑いものではないか!」
『──』
「──皆、良く聞いてくれ。
たとえ此度、和睦が成ったとしても、織田家中の方々の浅井への反感は収まるまい。それではいずれ、この同盟は儚いものと成り果てよう。
詫びを入れる意味でも、ここは恥を忍んで降伏して臣下の礼を取り、織田家中の信用を一から築くしかないのだ。
永くつらい日々になろう。が、ここはひとつ、わしと共に恥辱に耐えて欲しい。
この長政、伏して皆に頼む。この通りだ」
『──殿……』
より一層、頭を床にこすりつける長政殿の姿に、家臣のあいだから、低い嗚咽が聞こえてくる。
「──備前守様、よくぞ、よくぞご決断なされましたなぁ」
永い沈黙を破ったのは、低く深い小一郎の声だった。
──おいおい、何でワレまで涙を流しておるんじゃ?
「小一郎殿……」
「世間が何と言おうと、備前守様のご決断で多くの命が失われずに済んだのです。また、織田家中の不満の声も、ただ和睦するだけよりはかなり抑えられましょう」
「──」
「むろん、色々と口さがなく言う者はおりましょう。しかし、浅井家の方々がしっかりとした覚悟をもってご奉公なされば、世間の見る目もいずれ変わるはずです。
──昔、『馬鹿だ』『寝小便たれだ』と周りにさんざん馬鹿にされ続けた男が、こんな戯れ歌を詠んでいましてな。
『世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る』
その男はやがて、大きな仕事をして、周りの見る目を変えてみせたそうです。
言いたい者には言わせておけばよいのです。そして、いずれ『織田家中に浅井あり』と言われるまでになるようお励みなされ!
我ら兄弟も、微力ながら、浅井家の再出発のお力になりましょうぞ。のう、兄者?」
「お、おう」
「──木下様のご厚情、この長政、深く身に沁みましてございます。向後、なにとぞ良しなに願います」
「──小一郎、ワレ、長政殿が臣従を言い出すように仕向けたな?」
小谷城を出て、見送る浅井家の面々から見えないあたりまで来た頃、わしは先ほどから気になっていたことを切り出した。
「ん? 何の事じゃ?」
「お館様の条件を呑めば和睦は成る、しかし、それだけでは家中の反感が残る、せめて何かもう一つ差し出せるものがあれば──などと言っておったな。
よくよく考えてみれば、浅井に他に差し出せるものなど残ってないではないか、長政殿ご自身の首か、『誇り』以外には、な。
それとなく降伏臣従を言い出すよう仕向けておきながら、涙を流す芝居まで見せて──ワレぁ、実は相当に腹黒じゃな」
「別に、泣いたのは芝居という訳ではないんじゃが──ただ、自ら恥辱にまみれる決断をした長政殿のお姿を見ていたら、何だか、大樹こ──とあるお方と被ってのう……」
「ん? ……ようわからんな。
まあ、しかし、お館様の期待以上の条件を引き出せたのは上出来よ。これは、ご褒美が楽しみじゃな!
──ところで、あの戯れ歌とやらは初めて聞いたんじゃが、ありゃ誰の話なんや?」
小一郎は何だかずいぶん遠くを見るように目を細めて、ぽつりと呟いた。
「……なぁに、まだ誰も知らん、名もないただの『べこのかぁ』よ……」