002 織田家の使者(一) 浅井新九郎長政
「殿、織田家から使者が参りました」
「うむ──父上には?」
「いえ、未だ……。朝倉のご使者との会談中ゆえ、誰も入るなとのことでしたので」
「よし、そのまま気取られぬようにしておけ。織田家のご使者をお通しせよ」
──ついに来てしまったか。
果たして、裏切りへの詰問か、あるいは降伏勧告か……。
私は暗澹たる思いで、深く溜息をついた。
浅井家は、自分の義兄たる織田信長殿を裏切ってしまった。
浅井家当主は私だが、相変わらず家中の大半は隠居した父の影響下にある。
此度の戦も、私が、万一の際の織田への援軍を準備している合間に、父とその側近が、織田討伐の兵を勝手に出してしまったことによる。
しかし、あの苛烈な義兄上が、そんな言い訳を聞き入れる筈もない。
まして、今、父上が織田の使者と会おうものなら、それこそその首を刎ねて織田に送り付けかねない。
そうなれば、敗戦後の浅井への仕置きは熾烈なものとなろう。
すまん、市、茶々、初。浅井家はここまでかも知れん。せめて、そなたたちだけでも……。
「お初にお目にかかります。織田家家臣、木下藤吉郎秀吉にございます。これなるは弟、小一郎にて」
織田家の使者は、貧相な風体ながら不思議と愛嬌のある小柄な男と、間抜けそうな長身の男だった。
兄の秀吉殿の方は、なかなかの出世ぶりとのうわさも聞こえている。我が家の重臣たちの、射殺すような視線を浴び続けても意に介さない胆力は、さすがというべきか……。
「お勤めご苦労。──して、此度の用向きは?」
「いやあ、此度は誠に大変でしたなぁ! ご隠居様(久政)が勝手に兵を出されるとは、備前守様(長政)もさぞ驚かれた事でしょう!」
『!?』
家臣たちが一様に息を呑む。
ひょうげたような木下殿の言葉には、我らを非難するような色はない。むしろ、気遣うような気配すら感じられる。
「いや、それは……」
「お館様も案じておられましたぞ! このことで備前守様がさぞや肝を冷やしておいでかと。
──いや、ご案じめさるな! お館様はこの程度のことで、備前守様のお気持ちを疑うようなことは決してないと仰せでしたぞ!」
「何っ!?」
まさか、此度の裏切りを、父上ただ一人の責任とするおつもりなのか?
「お館様は仰せになられました。『備前守の苦悩、如何ばかりか。父親を処断することに躊躇いがあるようなら、代わってやってもよい』とも……」
裏切り者の末路は悲惨だ。当人はもちろん、一族郎党に至るまで根絶やしが世の常なのだ。
なのに何故──?
「──そうそう、お館様はお市様や姪御様方の家中でのお立場にも気を揉んでおられましたな。もし備前守様がご家中を落ち着かせるのに時がかかるようなら、しばらく実家で預かろうかと。
……ああ、そういや、ご嫡男のお顔も見てみたいと仰せでしたなぁ」
──なるほど、妻子を岐阜に人質として差し出せということか。それと、父上の処断をすれば、此度のことは不問にすると。
同盟を裏切ったことに対する罰としては、相当に寛大だ。いや、むしろ、世の常識からすれば手ぬるいとさえ言っていい。
しかし──。
「──何故だ?」
思わず、疑念が口をついて出た。
此度の撤退戦、織田軍にも少なからぬ被害を与えている。参陣していた武将たちも、おそらく納得すまい。それを押し切ってまで、何故、私を許そうとするのか……?
「それは……」
「──不躾ながら、それについては兄に代わりましてそれがしが」
ふいに、それまで意識もしていなかった木下殿の弟が口を開いた。
「──そもそも、此度の戦、もとより朝倉を討とうとしたものではございません。
公方(足利義昭)様のご意向により、若狭武田家の当主を不当に放逐した武藤を成敗するものでした。
そこに、朝倉が介入してきたために、やむなく受けて立ったまで。
──織田家と浅井家が同盟を結んだ折、浅井家と朝倉家の永年の交誼を考えて、『朝倉との不戦』を約しました。しかし、不本意ながらそれを破ってしまったのは事実。
おそらく、御隠居様は、織田が約定を破って朝倉攻めを行ったと勘違いなされたのでしょう。
残念なことです……。せめてその時点で抗議の使者を出すなりしていただければ、すぐに誤解も解けたのでしょうが、いきなり兵をあげて来られたのでは──」
小一郎殿とやらの言葉は、立て板に水が如く淀みない。
それに、この自信に満ちた堂々たる話しぶり──これは、この男こそがこの筋書きを描いたという事なのか……?
──緊張感なく兄の横に座っているだけだと思っていたが、実はなかなかの切れ者なのかも知れん。これまで、名前すら聞いたことがなかったのだが……。
それに、一見その居住まいは隙だらけにも見えるが、何故か斬れる気がまったくしない。大きい。
この男、相当に出来る──!?