001 金ケ崎 木下藤吉郎秀吉 元亀元年(1570年)
初投稿です。
よろしくお願いいたします。
近頃、弟──小一郎の様子が変じゃ。
あの、悪夢のような金ケ崎の退き戦を何とか生き延びてから三日。
その間ずっと、何やらぶつぶつ言いながら、ときおり髪をくしゃくしゃと掻きむしって、難しい顔で考え事をしている。
……はて、小一郎にあんなクセなんぞあったかな。
思えば、あのいくさの時から少しおかしかったような気がする。
敵味方入り乱れての乱戦の最中、小一郎は敵の足軽が無茶苦茶に振り回した槍で額のあたりを強く叩かれて、一瞬気を失ったことがあった。
兜の上からだったので傷はなさそうだが、その後もしばらくもうろうとしていて、今がどういう状況か、いや、自分が誰なのかすらよくわかっていないようだった。
「──何じゃこりゃ? 何でわしゃ鎧なんぞ着とるんじゃ、いったい何がどうなっちょるんじゃ?」
「何を言うとるんじゃ、小一郎! 今はいくさの真っ最中ぞ、しっかりせぇ!」
「いくさ? ──どこと? いや、そもそもおんしゃあ誰なんじゃ?」
「わしがわからんのか? わしゃ、ワレの兄の木下藤吉郎じゃ。今は朝倉勢から逃げてるところや! ──危ない、小一郎っ!」
……その時の小一郎には驚いたな。
突然、横合いから切りかかってきた敵兵の刀を抜きざまに受け流したかと思うと、上段から一刀のもとに斬り伏せたのだ。
──いや、斬ってはいない。峰撃ちだ。鎖骨のあたりを砕かれた敵兵は、転げまわって苦悶の声を上げ続けている。
さらに小一郎は、槍で突きかかってきた足軽に飛ぶように一足で踏み込み、その首のあたりを峰撃ちで叩いて悶絶させた。一人、また一人と──。
あんな遠間から剣が届くものなのか……?
日ごろから、兵の鍛錬に付き合っていても百姓丸出しのへっぴり腰だった小一郎が、まるで剣豪のように背筋の伸びた堂々たる身のこなしだ。いつの間にこんな腕前を……??
数人もの兵を一瞬で戦闘不能にした小一郎の凄まじさに敵の足軽たちがひるんだ隙に、わしらは走り出した。
「朝倉から逃げる? ──てことは、まさかここは金ケ崎かの?」
「その通り! あと少し行けば明智様の軍勢と合流出来るはず、もう少しの辛抱や!
──ところで小一郎、さっき、何で朝倉の兵を斬らんかったんじゃ?」
「ああ、斬ろうと思えば簡単なんじゃがの、それでは兵を一人ずつ減らすだけじゃ。
助かりそうなぐらいに大怪我をさせておけば、介抱する兵と合わせて二・三人ずつ足止めできるやろ? その方が得じゃからな」
──剣の達人のようなことをさらりと口にしてニヤリと笑う小一郎に、何だか背筋が寒くなった。
小一郎の目の覚めるような活躍もあって、木下隊が命からがら京に到着すると、信長様──お館様がわざわざ駆けつけて、わしらを労って下さった。
「藤吉郎、よくぞしんがりの責を果たした、弟もようやった、褒めてつかわす!」
「は、有難き幸せ!」
しかし、同盟軍と信じていた浅井家の突然の裏切り、そして悪夢のような撤退戦という事態の後だけに、お館様と共にいた重臣の方々の顔色は一様に暗かった。
『まさか、浅井が裏切るとはな』
『(浅井)長政め、お市様を娶っておきながら、お館様に背くとは』
『此度の負けいくさはあまりに手痛い……!』
『くそ、左兵衛尉(浅井久政)めが高笑いしているのが目に浮かぶようじゃ!』
重臣方が歯噛みをするように毒づく。その時──。
「……はて、それはどうですかいの?」
平伏したままの小一郎がぽつりと発した言葉に、お館様が鋭く反応された。
「──どういうことだ? 存念があるならば申せ!」
「は、恐れながら申し上げます。
此度の浅井の裏切り、全くの予想外にて、織田家が大きな痛手を被ったのは事実にございます。
しかしながら、実は今、最も青ざめているのは浅井でございましょう」
「む? どういうことだ?」
「浅井も朝倉も、今の織田家に正面切って対峙するほどの力はございません。それゆえの奇策でしょう。
しかし、この手が使えるのは、ただの一度きり。──織田家が浅井家を信じ切っており、背中を預けていた今この時だけ、です。
なればこそ、浅井はやると決めた以上、何としてもこの機にお館様のお命を取らねばならなかった……。
ただ一度しか使えぬ奥の手を使っておきながら、浅井は唯一絶対の目的を果たせなかった──この大博打に失敗したのです。
ゆえに、此度のいくさは、織田の勝利とはさすがに言えませぬが、浅井の負けと言っても良いかと」
『おお……!』
『なるほど!』
群臣がどよめく。
「なるほど、面白い見方よの。 ……小一郎とかいうたな。なればこの後の浅井への仕置き、貴様ならばどうする? 考えを聞かせてみよ」
「ほうですの……。
朝倉も南の六角も昔日の勢いはなく、連携されれば厄介ですが、個別に叩けばさほど手強い相手でもありますまい。
そのどちらかを叩いた後なら、浅井など高々二十万石、今の織田家の敵ではないですな。
周辺の国人衆を調略した上で大軍で囲めば、いくら小谷城が難攻不落であったとしても永遠に籠城できるはずもなし、滅ぼすのは難しくはないかと思いますが──。
しかしお館様、本当にそれでよろしゅうございますか?」
「むぅ……」
小一郎の問いかけに、お館様が考え込む。
浅井長政殿は、かつて三倍もの兵力差を物ともせず、強敵の六角を打ち負かして名を馳せた戦上手。
決して大きくもない身代ながら、お館様が溺愛する妹のお市様の嫁ぎ先にぜひにと望んだほどなのだ。それほどの器量の持ち主、惜しくないはずがない。
お市様との夫婦仲も円満であったと聞く。しかし、朝倉家とも祖父の代からの長年の交誼がある。織田・浅井の同盟が成った後も、父親の久政殿を筆頭とする派閥の『織田と手を切り、朝倉と共に織田を討つべし』との声を抑えるのに、長政殿は相当苦慮していたらしい。
此度の裏切りも、おそらくは板挟みの末の、苦渋の決断だったのだろう。
すると、それまでかしこまった物言いをしていた小一郎が、顔を上げてからりと笑った顔を見せた。
「お館様。この際、悪いことはぜーんぶ一人に押し付けてしまうってのはどうですかいの?」
「──何っ⁉」
その後、小一郎が言い出しおったのは、かなり突拍子もない策じゃった。
むろん、重臣の方々からは非難囂々だったが、お館様が不思議と興味を示し、あろうことかわしら兄弟に浅井との交渉の全権を任せて下さったのだ。
思いもよらぬ大手柄の機会、なのにさほど喜ぶでもなし、今も囲炉裏の前で何やらぶつぶつ言いながら、考え事を続けている。
と、小一郎が急に立ち上がり、髪をガシガシと掻きむしって、大きくため息をついた。
「あまり浅井家と関わり合いにはなりたくなかったんじゃがの。──信長様にああ言うてしもうた以上、やらにゃならんか……。
──こうなったら、やれるだけやってみるぜよ!」
……ぜよ?
まず、序盤の四話を初日に投稿します。
その後は、週一くらいで更新する予定です。
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