82.君の名を
部屋の中、俺とイシュタルの二人っきりになった。
ヘカテーが気を利かせて、オノドリムとダガーの二人を連れ出してくれた。
ダガーは何か言いたげで、不満そうにしてたけど、ヘカテーが耳元で何かささやいたら納得してついて行った。
その事もちょっと気になるけど、俺はまず、目の前のイシュタルに振り向いた。
イシュタルはベッドの上で上体をおこして、壁に背中をもたれながら、湯気の立つコップに口をつけている。
「大丈夫? 持つのがつらいのなら僕が飲ませてあげようか?」
イシュタルの手が震えているから、提案してみた。
「だ、だいじょうぶ」
イシュタルはかすれた、まだ衰弱がありありと感じられる様な声でこたえた。
何日間も寝込んでいて、その間何も食べられなかったせいだ。
もともと、覚めない昏睡で食べることが出来なくて、それで衰弱死してしまう、というのがイシュタルの今回の症状だ。
この程度の衰弱で間に合ってよかったと安心するのと、本当にもう大丈夫なのかとまだ少し心配なの両方同時に感じていた。
そんな心配なのがイシュタルに伝わったのだろうか。
彼女はコップを自分の太ももの上、布団越しに太ももの上に下ろして、にこりと笑いながら、いった。
「ほんとうにもう、大丈夫」
「そっか。それならよかった。にしてもヘカテー、準備がいいな。こんな物を持ってきてたなんて」
俺はイシュタルが持っているコップの中身をみた。
中は何の変哲もない、ただの重湯だ。
ヘカテーはイシュタルが目覚めたあと、すぐにそれをさしだしてきた。
『医術は素人ですが、断食後の食事については多少の心得がございます』
ヘカテーは平然とそういって、重湯をコップに注いで、イシュタルに渡した。
イシュタルは断食をしてたって訳じゃないけど、眠りから覚めずに何も食べることができなかったんだから、断食と同じ状況なんだなと納得した。
「……大聖女は」
「え?」
「成功を信じて疑わなかったのね」
「……うん? うん」
どういう意味なんだろうと思ったが、イシュタルは半ば独り言のように、コップに視線を落としたままつぶやいていたから、俺に話しかけたんじゃないのかなと思ってスルーする事にした。
「体、大丈夫? 弱ってるのはもちろんだけど、他にどこかつらい所ない?」
「つらいところ……」
イシュタルはそういって、視線を落とし、片手をそっと自分の胸に当てた。
「……」
「胸が痛いの?」
「う、ううん。それは、大丈夫」
「本当に?」
「うん、そういう痛みじゃないから」
「え? やっぱり痛いの?」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
イシュタルは慌てて手を振った。
顔も赤くなってて、なんか焦ってる様子だ。
「本当に大丈夫なの?」
「だ、大丈夫!」
大丈夫?――大丈夫!
傍から見れば間抜けなやり取りに見えたかも知れない。
でもイシュタルは強くそう主張したし、理由は分からないけど顔が赤くなった事で血色よく見えるようになったから、たぶん本当に大丈夫なんだろう、と思う事にした。
「……ごほん」
イシュタルは咳払いをした。
わかりやすい、「話題を変えよう」という咳払いだ。
「マテオには助けられた、お礼をしなくては」
「え? そんなのいいよ」
「いいや、話を聞くに、余の病はそれなりに広まっているはずだ」
「あー、うん。少なくとも宮廷内ではそうなるね」
「そうなると余の病を治した『誰か』が必要だ、皇帝の重い病を治した人間に何もしないというわけにはいかない」
「そういうものなの?」
「余は俗世の主だ、信賞必罰は欠かせないことだよ」
イシュタルはフッと、皮肉っぽく笑った。
なるほどなとちょっと納得した。
「さて、そうなるとマテオにどのような褒美を与えるべきかだが……」
イシュタルはそう言って、両手でまだ湯気立っているコップを包み込むようにして持って、視線を落として思案顔をした。
適当でいいよ――って言おうとしたんだけど、それじゃダメだってまた言われそうだと思って口をつぐんだ。
信賞必罰に関しては、歴史の本を多く読んでると、それを堅く守ったが故に成功を収め名を残した歴史上の偉人が多いと自然と分かってくる。
イシュタルではなく、皇帝として信賞必罰を口に出した以上、それを止めてという理屈も立場も俺にはなかった。
だから俺はそのままイシュタルをまった。
黙ったまままった。
その間広大な皇帝の寝室は、砂粒が落ちた音さえも聞こえそうなくらいしーんと静まりかえっていた。
数分くらいして、イシュタルは顔を上げた。
「マテオ・ローレンス・ロックウェル」
「え? あ、うん、僕の名前だね」
いきなりなんの事かと思ったが、イシュタルは俺のフルネームを呼んだ。
普段はほとんど聞く事のない、貴族として長いフルネーム。
「そのローレンスはローレンス卿の名前をそのままもらった物、なのだったな?」
「うん、そうだよ。おじいちゃんがくれたもの」
「ならば余もそれに倣おう」
「へ?」
「マテオに名前を授けるのだ。余は皇帝なのだから、順番的には『マテオ』と『ローレンス』の間にはいるな」
「あ、うん……」
俺は曖昧に頷いた。
皇帝や貴族などが、臣下に名前を与える事は決して珍しい事ではない。
そして名前はなにも一つでなければならないという決まりもない。
近くだと30年くらい前に、長年にわたって三代の皇帝に仕えた宰相が、三人の皇帝から三つのなまえをもらったという事もある。
その人は元々「名前・母の名前・父の名前・名字」の「四つ」持っていたから、最終的には名前が「ジョセフ・ルカ・セイラード・シルス・エドワード・アイリン・ミッドマン」という、「七つ」つないだめちゃくちゃ長い名前になった。
皇帝が臣下に名前を与えるというのは普通にあることだ。
ちなみにその人、皇帝から与えられた三つの名前は、どれも古い言葉で「光」を意味するものだった。
途中から皇帝も大喜利気分になってたんじゃなかってちょっとかわいそうだなとも思った。
「では、今日からそこに『グレイス』と付け加えてなのるといい」
「グレイス?」
「ああ、余の父親、先帝が『もしも娘が授かったらつけようとした』名前だ」
「へえ……って、それって!?」
俺はハッとした。
最初は気づかなかったが、気づいて慌てた。
イシュタル――皇帝の正体は女で、ずっとそれを隠していた。
彼女が言う「もしも娘が授かったらつけようとした」名前は、たぶん……いやきっと間違いなく。
皇帝の本当の本名、今やだれも知らない本名だ。
「そ、それはまずいよ」
「よい」
「で、でも。陛下のそれ、反対する人も」
「帝国の全ては皇帝の一存で決めてよいのだ。そして今の皇帝は余なのだよ」
「……」
俺は唖然とした。
それは何度も聞いたことのある、皇帝の口癖のような言葉だ。
口癖であり、真実でもある。
それを彼女は俺を見つめ、真顔で言い切った。
「……えっと、うん、わかった」
俺は少しまよったが、受け入れることにした。
「うむ」
受け入れた瞬間、イシュタルは嬉しそうに笑った。
それでまたちょっと元気になったようにみえたから、これでいいと思った。
かくして、俺は「マテオ・グレイス・ローレンス・ロックウェル」になったのだった。
☆
「やはり……軌道が変わっている」
マテオがやんごとない、高貴な名前を拝しているのとほぼ同時刻に。
一人の学者服を着た老人が、空にある太陽を見て、しわくちゃの顔が更に眉間にしわをよせたのだった。




