逃亡令嬢の幸運な選択 ー庭師見習いは休暇中ー
「絶対、嫌! 絶対!」
私は思わず声を張り上げた。ナント伯爵邸の居心地の良い書斎に、私の声が隅々まで届く。父は驚いたように目を丸くした。
「なんだ、結婚するのは構わないと言っていたじゃないか」
「そうですけど、相手によるとも言いました。彼は嫌です。せめて優しい人にしてください」
「でも、ワレリー伯爵だよ。若くして事業も成功しているし、評判もいいはずだが」
その成功の陰で、いろんな人が泣いているというのに。なんで気づかないのかしら。
私は思いながら反論した。
「評判なんて、関係ありません。私が嫌なんです。なんだか……近寄るだけで気分が悪くなるというか」
「うーん……だが、いい男だし、家柄も釣り合ってるだろう?」
「それが何です? あの人と結婚するならうちの庭師と結婚したほうがマシよ」
「ゲルダ、お前がお嬢様以外の生活ができると思うのか? 迷惑をかけるだけだ。うちの庭師に失礼だぞ」
「できますわ。私は幼い頃、田舎の領地で暮らしていたんですよ?」
私は、幼少の頃に思いを馳せながら、それでもいやな”あの人”を思い出して身震いした。
「あんな人」
名前も言いたくない、と私は口をきゅっと結んだ。
「私には感じがいいが」
「得のある相手だからです! 私は確かに身分も持参金もいいのでしょう。それなりに資産のある伯爵令嬢ですもの。でも娶ったら私を邪険に扱い、愛人を作り、私のことなど見向きもしないことは明白です」
「そんなこともないと思うがなぁ」
「お父様がそのような人だから、彼の失礼さが伝わらないのです!」
確かに、ワレリー伯爵は感じの良い、いい男だった。人当たりの良い見目を持ち、若き伯爵として成功し、評判もいい。けれど、私は違う評判も知っていたし、笑顔の裏に何か嫌なものを感じて、話しかけてくれても避けてばかりだった。
「そう言われてしまえば、お断りするしかないけど……何しろ、お前の直感は大切にした方が、いい結果を生むはずなのだから。しかし、そんなに嫌っているなんて、わからなかったな。まぁ、一晩考えてくれ。一人で冷静に考えれば、また違う見解に落ち着くこともあるだろう」
私が断固として首を横に振ると、父はため息をついた。
「いい縁談だと思ったのだがなぁ」
のんきにぼやく父の声を聞きながら、私は書斎を後にした。
☆ ☆ ☆
その夜、私はベッドに入り、しばらく過ごした。が……眠れない。眠れなさすぎる。
自分の評判はよく知っていた。
一度目にすれば忘れられない、年頃を迎えて更に美しい令嬢。陶器のように滑らかな肌、静かな泉のようにきらめく青い瞳、金色の細く艶やかな髪。そして、しなやかな女性らしい曲線美の体は、どんなドレスもよく似合う。
というのが、一般的な私への評価だ。私がそれに納得しているわけでもないし、まして、見合ってるとは到底思えないが、ともかく、一目惚れをされやすいらしい。実感も自負もないけど。
そんなわけで、適齢期の伯爵令嬢である私は、引く手数多だ。
「そこでどうしてワレリー伯爵なの?」
父に任せておけば、安心だと思っていた。清廉潔白でなくとも、せめて、私に対しては誠実であるような、まっとうな生活をしている人を選んでくれるのだと。
本当は善意の人なの? いいえ、私は知っている。彼を信じて家が破産したり婚約破棄されたり、ひどい目にあった友人が現にいるのだから。
父は、それを見分けられるはずだった。我がナント伯爵家は、代々、当主となるべき人物には、善意だけで生きていけるような、勘が働く能力がある。だから、善意を見分け、悪意を避けられるはずなのに……
きっと、ワレリー伯爵の悪行は、我が家にだけはなされたことがなく、今後もなされないのだろう。狡猾な人。でも、だからといって、許せることでもなかった。
私は目を開けて、起き上がった。寝室の天蓋ベッドの頭には、私のお気に入りのカーテンがかかっていた。その向こうに、これまた私のお気に入りの観葉植物が見える。この観葉植物の葉をカーテンの向こうに揺らしたくて、無理を言って探してもらったものだ。
私はベッドから降りると、手近なブランケットをつかんだ。それを肩にかけ、ズルズルと引きずるようにして身にまとう。ウェストでぐるりと回して落ちないようにすると、今度は観葉植物に手をかけ、ずるずると動かした。
こうして動かすと、ベッドカーテンと壁、観葉植物、そしてベッドの隣にある小ぶりの棚の間に、ぽっかりと空間ができる。ここへきたばかりの頃、嫌なことがあると、私はこの空間に丸まって眠ることがよくあった。
そして今、再び、ここに篭ることになるとは。
私は枕をシーツの間に入れて人型を作って満足した。これで夜中は誰も気づかない。朝になって、起こしにきた誰かが、これは枕だと驚くだろう。いい気味だ。
使用人も両親も知らないから、もし私を探しにいっても、絶対に気がつかないだろう。
「……せいぜい、焦るといいんだわ」
その上で、ここからさっと出て行って、何事もなかったかのように顔を出す。最高。
父はそれできっぱり諦めてくれるだろう。
私は思いながら、ぽっかりできた空間で丸まった。ちょうど、そこから窓の外が見えた。月明かりだ。明るいから満月かしらとぼんやり思う。
小さい頃、私は体が弱くて、領地の屋敷で過ごしていた。自然の中で療養して、体は元気になり、年頃になったと同時に、王都の屋敷の方で生活するようになった。
自然が少なく、人付き合いの多い王都で、私はそれなりに頑張ってきた。両親は優しく、弟は可愛らしいし、私は幸せだった。
でももし。
この部屋に、誰か知らない人が入ってきたら?
私を殺そうとしたり、拐かそうとしていたら?
でも大丈夫。彼らには気づかれない。
私はここの場所に座っていることに安堵して、惰眠をそのまま貪るだろう。
☆ ☆ ☆
夢の中で、誰かが入ってきた気配がした。私はほくそ笑んだ。
メイドかしら侍女かしら、父かしら母かしら、それとも、私と父の口論を聞いて、心配になった弟かしら……
「……君が王都にやってきてから、ずっと目をつけていたんだ。伯爵に媚を売って話を取り付けて、ようやくここまで来たんだ。絶対に離すものか。君が嫌がっても、……既成事実を作ってしまえばそれまでだ。いいか。私は君を逃さない」
低い声が、甘く響く。だが優しさはなく、そこにあるのは支配欲だけ。眠くて目が開けられなかった私は、かろうじて音だけを聞いていた。
……誰?
「ふふ……君のお父様は知らないよ。君が嫌がるのは想定していた。だが、私をこうして招き入れ、ベッドを共にしたとすれば、君がこれまでなんども私を招き入れ……そしてそれを恥ずかしがっていたと言われるだけだ。さぁ、観念して、私のものになれ」
人影がベッドに近づき、次いで、ベッドがきしむ音がした。しばらくサラサラと布の擦れる音がして、そして、ぽすぽす、と軽く、布の柔らかい音が響いた。
「……枕? いないのか? ……逃げたのか!」
人影は立ち上がり、ドアを開けた。外にいた誰かを部屋に引き入れた。
「お前! 彼女は逃げた! どこへだ!」
「わ……わかりませんわ、私には……」
若い女性の声だ。聞いたことのある声だから、きっとこの家のメイドだろう。
そう、誰も私のことは知らない。こんなところにいたら怒られるから、私は誰にも言ったことがない。私だけの秘密の場所だ。
人影の声がイラついたように声を荒げた。
「クソ、せっかくこの日のためにお前を口説いたというのに! 意味がなかった! 無能め!」
「この日のため……? 嘘ですわよね、スヴェン?」
メイドなのに名前を呼び捨てで呼ぶなんで、随分と仲がいい。
「なにがだ?」
「私のことも愛してくださっておりますわよね? 私を愛してくださっているから、お嬢様を」
まぁ。メロドラマ的展開! ドキドキする。
小説で読んだわ、ここで甘く囁くのだ、”そうだよ、君のために政略結婚をするのだ”と。
「そんなわけがあるか」
すがるようなメイドの声に、スヴェンは無慈悲だった。メイドはヒィ、と悲鳴をあげた。
「ひどいです、スヴェン。私はあなた様のためにこの身を捧げ、あなた様のために……」
「なんだって? お前の身など知ったことか。私が欲しいのはお前の主人、ゲルダ嬢だけだ」
「……私のことはどうでもいいと?」
「ああ、どうだっていい。勝手に消えろ。どうせお前にはもう用はない」
言うと、スヴェンは鼻で笑った。
「私のことを誰かに言うか? だとしても、からかわれただけだとおしまいだ。たかがメイドが貴族と結婚できるとでも? 愛人にすらなれないだろう、お前ごときの顔で。絶世の美女なら考えてやっても良かったがな」
「それでは……なぜ私を……」
「は? お前の主人についているメイド達の中で、一番落とせそうだったからだ。私のいいなりになってくれた、礼を言うよ」
なんてひどい展開かしら。私の夢は、とうとう想像を超えてしまったらしい。
確かに、貴族がメイドに手を出すことはある。だが、私の知る限り、火遊びでもなんでも、令嬢に夜這いするためにメイドを手篭めにするなんて、そんな面倒なことをする貴族は見たことがない。想像しても手間がかかるし、面倒臭さそう。
でもきっと、本で読んだのだわ。どこで読んだのかしら?
「お前はもういらないんだ。私と彼女の未来に、障害があってはならない」
私は目をつぶってまどろみながら、考えた。
一体誰のことを言っているんだろう、”彼女”って。私のこと? そうか、この夢の中なら、きっとそうなのだろう。
「……シネ」
なんですって。
私は夢だとは分かりながらも、恐ろしくなって耳を押さえた。
「や! やめてください!」
「お前など、邪魔だ!」
ガタン、と音がして、何かを引きずるような音に、何かをひどく打ち付ける音がした。
「やめてください! わかりました、お邪魔しません! ここのお屋敷もやめます! ですからお許しください! やめてください!」
「だめだ」
「助けて!」
メイドの声が叫び、バタバタと音がして、どさり、と大きな音がした。そうして静まり返って、しばらくしてからドアが開いて、誰かが去っていく足音がした。
長い沈黙。
私は再び落ち着いて寝入りながら考えていた。
凄い夢だったわ。でもここにいたから、私は安全だった。やっぱり、秘密の場所は大切なんだわ。
☆ ☆ ☆
目を覚ましたのは明け方だった。天気が良く、窓から太陽の光がこれでもかと入ってくる。
「んー……」
私は伸びをして立ち上がると、ブランケットを纏ったまま、ベッドの脇へ進み出た。そこで足が止まった。
「……ん?」
ドアの前に人が倒れている。恐る恐る足を出し、歩くと、うめき声がした。まるまっていた人影が動いている。
私は急いで駆け寄ったが、すぐに足を止めた。
あの人だ。私に結婚を申し込んできた”あの人”。一体どうして……
そこで思いついて、ぞっとした。
あれは夢じゃなかったんだ。もし私がいつものようにベッドで眠っていたら……
私は想像しようとしたが、あまりにも恐ろしくて脳が拒否をした。慌てて廊下を含め、周囲を見回すが、誰もいない。つまり、あのメイドは無事に部屋に戻ったのだと、私はひとまず安心した。
振り返って、ワレリー伯爵をじっくり見た。頭から血を流していたが、息はしているし、さほど難しい状態でもなさそうだ。
ていうか、この人、スヴェンって名前だったんだ。
最初に戸惑い、メイドに同情した。あの頼りきった甘い声、そして裏切られた悲しみの声。
見目のいい貴族に優しくされれば、舞い上がってしまうのもわかる。それに、わざわざ、何も関係がない(はず)のに、あえて誘ってくれるなんて、勘違いもしたくなる。
考えよう。目が覚めたワレリー伯爵、つまりスヴェンがどう行動するか。
そして考えに整理がつくと、私は立ち上がった。
私はこの部屋にいない方がいい。絶対に。どうせ逃げたと思われているんだし、好都合だ。もう少し遅らせて、襲われそうになったことにしてもいい。
そうだ。この男は、私を襲い、私は嫌で、返り討ちにした。そういうことにしよう。いや、そうでなければならない。だって、メイドが貴族を傷つけたなど、殺されても文句は言えない。でもそんなこと、許さない。騙された方だけが悪いなんて、絶対にない。
私は、急いでクローゼットに向かうと、なるべく地味な服に着替えた。捨てるばかりだと侍女たちが話していた服や身の回りのものをカバンに入れると、私はありったけのお金を手に取った。
そして、手紙をしたためてベッドの枕に入れると、窓から飛び出した。
☆ ☆ ☆
「うわ!」
……人がいる想定をしていなかったわ。
気づくと私は誰かの上に飛び乗っていた。
「何をしているんですか、お嬢様!」
「まぁ。フレルク! あなたこそ、こんなところで何を?」
私は起き上がると服を叩いた。尻もちをついて唖然としているフレルクの黒髪が風でさらりと揺れ、その間のグレーの瞳が私に向いた。
「私は今日から休暇で……少し早く出るので、その前に、バラのお手入れを……」
フレルクは、言いながら気を持ち直したようで、私を訝しそうに見た。
そして、立ち上がりながら服を丁寧に叩いた。なかなか叩き終わらないのは、私より服が汚れているせいだ。
もちろん、庭仕事をしていたら服は汚れるもの。だから、これが私のせいなのか、いつもの汚れなのかわからない。でも、今日はいつもよりキレイめの服を着ているから、汚れが目立っている。
……やっぱり私のせいかしら。
「あぁ、フレルクはいつも手入れしてくれて嬉しいわ。私の部屋からも花がよく見えてよ」
「ええ、お嬢様の部屋から見える花壇はとりわけ綺麗にと思っております」
フレルクは丁寧に頭を下ろす。だが、決してかしこまらず、雰囲気はいつも柔らかい。
彼は、ナント伯爵家の庭師見習いだ。最近、私の身長を少し超えたばかりで、二歳年下の十五歳。雇われたのは、ちょうど二年前、私が王都にやってきた頃だった。雇われたばかりのフレルクと、庭遊びが好きな私はすぐに仲良くなった。今でも、使用人の中では一番親しいと言っても過言ではない。
出会ったのが彼でよかった。庭師のハリーだったらそのまま部屋に連れて行かれただろう。
「まぁ! そうだったの。それは嬉しいわ、いつもありがとう」
私が喜んで笑顔になると、フレルクはサァッと顔を赤くして、視線を彷徨わせた。そして、私の荷物に目を留めた。再び訝しそうに私を見る。
まずい。
「それで、休暇って? どこへ行くの?」
私が話題を変えると、フレルクは笑顔で頷いた。
「はい、実は、雇っていただいてからこの二年ほど、懸命に生活してきましたので、休暇をもらっておりませんでした。旦那様が気を利かせてくださって、一ヶ月ほど、休みをいただきました」
「一ヶ月?! そんなに?」
私は驚いて声を上げてしまった。一瞬口を押さえたが、どこかに聞こえた様子はない。確かにそうだ。早朝の庭は、よっぽどのことがない限り、庭師の物だ。
「はい。旅行をして過ごそうかと思っております」
「一ヶ月もフレルクに会えないの? なんてつまらないの」
私が被せるようにぼやくと、フレルクは呆れた顔をした。
「お嬢様は、どうせいたずらしたいだけでしょう。庭いじりが好きなら、旦那様と奥様が見ていない間なら、いくらでもして構いませんと言ったはずですが?」
「ダメなのよ、私。花は枯らしてしまうの、どうしても。だから、あなたが羨ましいのよ」
私はフレルクの手を取った。
土いじりで固くなった手のひら。マメもいっぱいでゴツゴツして、水を使ったり棘を触ったりしてしまうから、肌は荒れていて、カサカサ。でも、この手が綺麗な庭をつくる。
とっても羨ましい、素敵な手だ。
「いいなぁ、この手が、花を生かしてくれるのよね……私も癒されたい……」
あの、私の部屋で伸びている”あの人”よりずっと、フレルクの方がいい。
庭師。
私はハッとしてフレルクの顔を見上げた。ぼんやりしていたらしいフレルクは、目をパチクリとさせた。反対の手が私の肩に触れた。
「……フレルク」
私の呼びかけに、フレルクは飛び跳ねるように飛び退った。
「な! なんでございますか! お嬢様! 私は決してやましい気持ちなど……」
「私を一緒に連れて行って!」
「……は?」
「忘れていたけど、私、これから逃げるところなの」
「だから窓から飛び出してきたんですか?」
「そう。ほら、荷物もまとめてあるわ」
「まさか……一体どうして……何があったんですか? 旦那様も奥様も優しい方ですのに……何か行き違いでも?」
「私、結婚話が嫌で家出するのよ」
フレルクがぽかんとした。
「……結婚? 家出?」
「ええ。ワレリー伯爵を知っている? 私、あの方との結婚話があるの。でも、絶対に嫌。本当に嫌。結婚するくらいなら死ぬ。そう思っているから、逃げるのよ」
「ワレリー伯爵……スヴェン・フォルガー殿ですか? さすがにそれは……私も……反対です。表向きの評判はいいですが、裏では全くその逆です。でも、旦那様ならわかっていただけるのでは」
「ええ、お父様は断ると言ってくれたけど……無理かもしれないの。お父様は優しくて人がよくて、私もそういうところは大好きだけど、自分以外への悪意には鈍いから」
「何か……あったのですか?」
言いたくない。正直に言ったほうがいいのだろう。でもその前に、見せておいたほうがいい。
「ほら、見て」
私はそのフレルクの腕をとって、窓から自身の部屋をのぞかせた。
「見える? 倒れているのは、ワレリー伯爵よ」
「はい、見えます」
フレルクは頷くと、しばらく眺めた後、私に向いた。でも何も言えずに、戸惑っていたフレルクに、私は頷いた。
「……言いたくないのだけど、昨日の夜、……ワレリー伯爵が私の部屋に来て、既成事実を作ろうとしたの」
「それで……、だ……大丈夫だったんですか……?」
フレルクが蒼白の顔で私を見た。視線が心配そうだ。私は慌てて身の潔白を証明した。
「大丈夫よ! もちろん、何もなかったわ!」
「……何も?」
「顔も見られていないくらい。指一つ触れられていないわ」
「それは……よかったです」
ゆっくりと安堵のため息をつき、フレルクは私を見た。キラキラした目で、本当に癒されるわ。
「でもどうしてそんなことに? 誰も入れないはずですが」
「あの人、うちのメイドを口説いて、家に入ったの。きっと長い時間をかけたに違いないわ。私が王都に来てから狙っていたって言っていたもの。となると、かれこれ二年かしら……メイドの気持ちを弄ぶなんて……逆にメイドに殴られたのは自業自得。本当にひどい人よ」
フレルクは顎に手を当てて考え込んだ。
「メイド…セリアでしょうか」
「名前はわからないわ。でもきっと、そうだと思う」
「そうでしたか……だからか……あ、セリアは私が庭に出た時に、病院に運ばれていったんです」
「そうなの?」
「はい、みんなが噂していました。ひどい興奮状態だとかで」
「そう……でも、病院に行ったのなら安心ね。とりあえず、きっと彼女は喋らないでしょうし、……お父様なら、体調を気遣うだけのはず。私の逃亡に関係があるなんて、きっと考えないと思うわ」
「……わかっているのでしょう、彼女をそんな事態に追いやった相手を」
フレルクのつぶやきに、私は肩をすくめた。
「ワレリー伯爵が認めると思う? あの人、彼女に死ねと言ったのよ。本当に信じられない」
「そう……だったんですか……」
しょんぼりと頭を下げたフレルクは、とても残念そうだった。私もだ。
「だからね、フレルク。私、身を隠したいの」
「でも」
「メイドが貴族を殴ったなんて、絶対に知られてはならないわ。うちの落ち度にもなる。だから、あの人が勝手に侵入してきて、私を襲うところで私が返り討ちにした、ってことにしたいの」
「できるんですか?」
「私が置手紙をして、このまま逃げれば何も言えないと思うの。殴ってしまって怖くなって逃げた、とすれば、破談を促進できると思うの。それに、あの人だってきっと自分に不名誉なことは言わないわ。メイドより私の方が、マシでしょ? 私はベッドにいなくて、襲うことすらできなかったなんて、きっと彼にとってみたら恥の上塗りだわ」
「お嬢様……」
「だからね、お願い。私を連れて行って」
私が訴えるように目を見つめると、フレルクは気遣うように私の腕に手をかけた。
「無理ですよ。私は……ただの庭師見習いです。あなたを守る事なんてとてもできません」
「守ってもらいたいわけじゃないの。誰も、私とあなたが一緒だなんて気づかないわ。あなたが出かけるのは決まっていたことでしょう? 私は知らなかったんだし、一緒に出て行ったとは思わないわよ。それに、自慢じゃないけど、一人で屋敷の外に出たことなんてないから、私一人だと思えば、みんな甘く見るでしょう?」
「それなら、尚更ダメじゃないですか。早く家に戻ってください。やりようはどうとでもあるでしょう。シュテファンにどうやって言い訳するつもりですか?」
「シュテファン? 私の弟?」
私は驚いて声を上げた。敬称をつけ忘れるなんて、礼儀正しいフレルクには珍しい。話していて気が緩んだとしても、今まで一度だってなかったのに。
「え? あ、えぇ、あの、シュテファン、そう、シュテファンに……じゃなくて、シュテファン様に、です!」
フレルクは慌てた様子で言い直したが、すでに時遅しだ。私は有無を言わせぬ笑顔をフレルクに向けた。
「そういえば、あなたたち同い年だったけど……仲がいいわよね。どうして?」
すると、フレルクはしばらく黙り込んだ後、観念したようにため息をついた。
「……もともと友人だったんです」
「シュテファンと? あの子、典型的な温室育ちよ?」
私の二つ下の弟、シュテファンは、善意だけで生きていける優しい子だ。まさに、我が家の次期当主にふさわしい性格をしている。父も弟も、正直、ふわっとした性格だ。そのせいか、貴族社会の中でも、ナント伯爵家はとにかく評判がいい。当主の能力のおかげで、善意ばかりが集まる傾向にあるから、のんきな性格になるんだろう。
だから、弟は父と似ていると思われているけれど、実際は全く違う。父は、私の結婚相手を見抜けないように、隠された悪意には鈍い。自分に対しての悪意がないからだ。でもシュテファンは、悪意そのものを巧妙に避け、跳ね除けることができる……無自覚に。だから、彼は、自分に、ひいては愛する者に、”悪意ある人間”は決して近寄らせない。
そのシュテファンと仲がいいということは、私にとって安心できるポイントだ。ちなみに、スヴェンは、シュテファンとは近づいたこともなかった。
「シュテファンには貴族しか友達は……じゃ、あなた、もともと貴族だったの?」
「はい、そうです」
「まぁ! どうして庭師に? 職業体験かしら?」
「違います、お嬢様。うちはいわゆる没落貴族でして……爵位はあるのですが、破産をしているのです。返上するのは免れたようなのですが、稼がないとなりませんので、こうして仕事を」
「なら、まだ貴族なのね。それなら、他にも仕事がありそうだけど」
私が首をかしげると、シュテファンは躊躇いがちに微笑んだ。
「……父は評判のよくない貴族でしたので、私を信頼してくれる貴族はほとんどいません。宮廷も絶望的ですね。それに、まだ若いので……証明してみせられるほど、仕事もできません」
「それで、シュテファンのお願いで、父があなたを雇ったのね」
「はい、そうです。相談してくださいまして、旦那様は庭師くらいがちょうどいいと決めてくださいました」
「お父様も甘いんだから……」
そのおかげでフレルクの窮地を救ったが、私の窮地を新たに作ったわけだ。
「フレルク、あなたのお父様は?」
「父は爵位を私に譲って、そのままお金を持って逃げてしまいました。どこにいるかはわかりません。追放された元領地にも、匿ってくれる人などいませんし」
「じゃ、お父様を探して旅行に?」
「まさか! 私は元領地に家を買っ……なんでもありません、お嬢様は関係ないのですから」
私はピンときた。家を買った、と言ったのよね? それならきっと。
「いいえ、気になるわ。はっきりお言いなさい、”元領地に家を買っ”て?」
「……元領地に家を買ったので、そこで一ヶ月、一人暮らしをする予定なんです。だから父など探しに行きません」
「元領地に家を買うなんて、よくできたわね」
父親は追放され、本人は爵位を持ち、反乱因子として危険視されてもおかしくないのに。
「……新しい領主様は、良い方で、お目こぼしくださったんです」
「お目こぼし?」
「そうです。元領地に元領主の息子が住みたいなんて、最初は許してもらえませんでした。父は追放されていますから。でも、よく見てくださる方で、土地を好きなだけだという私を信じてくださいました。小さな庭もあるので、今から行くのがとても楽しみです。ただ、周りの人がどう思うかは心配ですけどね」
「それなら、私を連れて行くべきだわ」
「は……はい? 聞いてましたか? 私は元領地で、どう思われるかわからない生活をするんですよ。どうあれ、お嬢様に迷惑がかかります」
「違うわ。逃亡した私を助けたということにすればいいじゃない。元領地なら、あなたが勝手を知っているから匿いやすい、ってことにして」
「え、でも」
「そうすれば、あなたの評判も良くなるわ。そしたら私、フレルクのお世話係をする。家のことならなんでもする。フレルクに教えて欲しいの。ワレリー伯爵からずっと逃げなければならないなら、このお屋敷には戻れないでしょ。そしたら、仕事しなきゃならないし。そのためにも、私の身辺が落ち着くまで、手伝ってくださらない?」
私の懇願に、フレルクは口ごもった。
「お手伝いはできますが……その……一緒に暮らすのは……」
「どうして?」
「小さい家で、ベッドも一つしかありません」
申し訳なさそうにフレルクはうつむいた。私は自分の胸をどんと叩いた。
「あら。私が居候なんだから、床で十分よ」
「何を言ってるんですか。お嬢様はベッド一択ですよ」
「でも、あなたのベッドでしょう? そう言うなら、床とベッドを交代で寝ればいいわ……毛布を一組買って行きましょうよ。部屋に広さがあれば、ベッドを置かせてもらってもいい? 私、お金なら持ってきたの。それなりにあると思うわ」
「はぁ……」
「ね、お願い」
歯切れの悪いフレルクの返答に、私は、父に『お前がお嬢様以外の生活ができると思うのか』と言われたことが頭をよぎる。
そう、私は世間知らずだ。無一文の庭師が二年働いて買ったという、フレルクの家がどんなに小さいのか知らない。なのに、こうやって無理を言っている。フレルクが断れないだろうと踏んで。主従関係を強要してるようでいやだったけれど、背に腹は変えられない。
私が様子を見ていると、フレルクは思い切ったように顔を上げた。
「お嬢様は……料理も掃除もしたことはないでしょう? 一から始めるのは本当に大変ですよ。それに、毎日同じような服しか着られません」
「もちろん、いいわ。料理も掃除も覚える。オシャレは好きだけど、しなくても構わないのよ」
「でも」
「お願い! フレルクしか頼る人がいないの! 私が家にいたら、また狙われるかもしれないし、それを理由に結婚を迫ってくるかもしれない。怖いのよ」
「……お嬢様……」
フレルクは困ったように眉をひそめ、ため息をついた。
「そういうことなら、ご一緒しても、いいのかも、……しれません……」
「ああ! ありがとう、フレルク!」
私は嬉しくてフレルクに思い切り抱きついた。
「お、お嬢様!」
「よかったぁ、あの伯爵から、逃げられないかと思った……! 絶対に逃げる、結婚回避してみせる! 手伝ってね、フレルク!」
「……仕方のない方ですね」
フレルクは私の頭を軽くなでると、ふんわりと笑った。
「本当についてくるおつもりですか?」
「当たり前よ」
「……どうなっても知りませんよ」
そう言われると私は自信がなくなってきてしまった。からかうように私を見てくるフレルクの目が、鋭く光っている気がする。
「大丈夫よ……多分。フレルクの足手まといにならないように気をつけるわ」
「足手まといなんて……思いがけないことですが、嬉しいですよ」
「本当?」
「はい。見ているだけで満足だって、とっくに諦めていましたから」
「諦めなくてよかったわね。やっぱり、旅の道連れは必要でしょう?」
「そうですね」
言って、フレルクは覚悟を決めたように頷いた。
「ワレリー伯爵が見つかる前に、出たほうがいいですね」
「え、ええ! そうね!」
善は急げと言いたげに、さっさと私の荷物と自分の荷物を抱え、フレルクは使用人玄関へ向かって歩き出した。私は慌ててついていったが、荷物を持たせてはもらえなかった。
「新しい家までは、どうやっていくの? 乗合馬車?」
玄関を出たところで、私がようやく追いついて尋ねると、フレルクはしっかりした足取りで先を急いだ。
「いいえ。奮発して、馬車を予約しているんです」
「なんて好都合」
「俺もそう思いますよ」
あ。言葉遣い、ちょっとだけ気安くなった。
私はホッとして、フレルクの手を掴んで、グイと引っ張った。
「それなら、急ぎましょう。予約してる馬車に乗るのよ」
「うわ、……は、はい、お嬢様」
フレルクは私に引っ張られ、慌てて追いついてきた。
「いいえ、”ゲルダ”よ、フレルク。私のことはただのゲルダでいいわ。お嬢様なんて呼んでいたら、ばれてしまうじゃない」
私がたしなめると、フレルクはクスリと笑って頷いた。
「はい、ゲルダ」
呼ばれた名前に心が温かくなり、私は今日初めて、自然に笑顔になった。