雨音のなかの乾いた足
消灯されて真っ暗な廊下。
コツン コツン と反響する音。
秋葉将司はひとり杖をつきながら、一歩、また一歩と歩みを進めていた。どうやらこのか細い残響音は彼が杖を突く音だったらしい。
右足はギチギチにギプスでかためられており、両脇に杖をはさんで左足と交互に前へ投げ出して進んでいる。
廊下は薄緑色になまめかしく光っているだけで実に気味の悪い光景だ。
秋葉将司は中学校で野球部に所属していた。ポジションはキャッチャーだ。
右足の骨折は試合の最中、強引な相手からホームを阻止するためにおった名誉の負傷!・・・などではない。
一週間前のことである。彼は友人たちと川遊びにきていたのだが、調子に乗ってか低めの崖から川へ自ら身を投げたのだ。結果、右足骨折。これだけで済んだのは運がよかったともいえる。
つまるところは彼の右足は名誉の負傷どころか、馬鹿な行いを象徴する不名誉の塊だったのだ。
今は夜中の一時。午前一時だ。彼は尿意を催してバリアフリーのトイレに向かっていた。入院している彼だが、リハビリの成果もあって随分と松葉杖にも慣れていたようだ。少なくとも病院内では移動に困ることはない。
尿意は着々と限界に近づき、一刻でも早く決壊の前に到着したい思いでいっぱいだった。
コツン コツン コツン コツン
彼は何とか間に合った。まさにダム崩壊をぎりぎり免れたのだった。
コツン コツン と自室へ戻ろうと向かっているとき、彼の耳に自分の杖を突く音とは全く異なる快音が大きくなっているのに気が付いた。
コツン コツン カサッ コツン コツン カサッ
段々と奇妙に気持ち悪く思い、進むテンポを速めてもその音は撒き切るどころか近づいてくるような気さえする。
コツン コツン カサッ コツン コツン カサッ ゴトン!!!
突然、病院中を駆け巡る大きな音。
秋葉将司はその音が自分のすぐそば、真横に位置する扉の中から飛び出してきたことに気が付いた。彼に湧き出るのは恐怖と好奇心。それと少しばかりの憤りであった。
この奇妙な音は、自分に恐怖心を抱かせるこの音の正体は一体何だというのだろう。オレを怖がらせるこの音に文句でも言ってやり返してやろうと。
これは彼らしい独特な思考回路であった。
彼はスライド式のドアをゴゴゴとあけ放つとそこにおぞましい風景を見た。全身を黒い鎧に覆われぞっとするような長細い触角を頭から伸ばし、無数の細い足で部屋中を駆け巡る握り拳サイズの影が、部屋全てを覆いつくし、円を描くように動き回っている。円は何か紋様のようなものを描いているような気がする。
段ボール箱からはよく見えないが様々な食品らしきものが飛び出しているらしい。異形の生物はそれらに群がりあさっている。
秋葉将司は仰天する。これなら幽霊のほうが幾分かましだった気さえする。
カサカサと大量のゴキブリたちは彼に見られていることに気が付くと一斉に彼に迫りくる。それに慌てて彼は杖を投げ出し一目散に自室へ向かう。部屋からはもはやあふれかえるゴキブリたちが次々と飛び出している始末。もはや手遅れだ。
彼は必死に走ろうとするも走ることさえままならない。はいつくばってでもどうにか奴らから逃げ切ることに精一杯の限りを尽くす。
カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ
とうとう追い付かれ、ゴキブリたちに足、膝、胴、と順番に下から上に飲み込まれていく。振り払っても振り払っても奴らは全身にまとわりついてくる。絶叫をあげる口の中にも奴らは侵入しようとする。慌てて口を閉じようにももはや手遅れで、取り出すにしても両手はすでにお陀仏だ。全身からがりがりと音が聞こえる。まさか奴らは人すら食べるのか。心の中で絶叫する。
うわあああああああああああああああああ
目が覚めると彼は自室の床で倒れていた。なんとおぞましい夢なのだろう。目覚めてから呼吸が整わない。
ゴゴゴゴゴゴ
看護師たちがやってきた。扉を開ける音がやけに大きかったせいで一瞬心臓が止まるかと思った。だが彼女らの姿を見て彼は心から安堵する。昨日のあれは夢で間違いなかったのだと。
そして彼女らは彼の姿を一瞥すると彼をスリッパで叩き潰した。