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『私』であり〈私〉ではない


「すみません」

「お気になさらず」


 女性を振りほどく勇気を持ち合わせていなかったので、結局、彼女のほうから離れるのを待つしかなかった。

 その後、冷静さを取り戻した彼女を椅子に座らせ、向かい側に座った。


「それで、どうしてこの様な事を?」

「……やはり、ラクさんは私の事を忘れてしまったのですね」


 いまいち彼女との距離感がわからない。

 こちらはまるで彼女の事を知らない。対して彼女がとった行動は、とても見ず知らずの相手に、いや、見知った仲であってもやらないような事だ。

 今でこそ落ち着いているが、それでも時折、親しい相手に向ける視線を感じる。


『異世界に来て三日目』なのに、こんなにも人と深く関わる機会などあったのだろうか。


「それにしても、『やはり』?」

「はい。私が最後にラクさんと会った時、『もしかしたら、次会う時には、私は貴女の事を忘れているかも知れない』と言っていたので」

「『私』? おかしなことを訊いていると思うかもしれませんが、教えてください、その『ラクさん』は一人称に『私』を使っていたのですか?」

「は、はい。口数は少なかったですけど、確かに『私』をよく使っていました。まれに『オレ』とも言っていましたが、普段は『私』と」


 おかしい、『常山楽』はよほどのことがない限り一人称を使わない。

 彼女の言う『ラクさん』が他人であるとすれば、何もおかしい点はない。口調が違うのも、彼女と会った記憶がないのも、他人の空似で済むなら問題はない。


 ――だからこそ、非常に良くない状況を思い浮かべてしまう。


 自分は完全記憶能力を持っている。だが、それは『自身の記憶を消す能力』のおまけにすぎない。


 記憶についてこだわったのは事実だ。ただ忘れることよりも忘れられないことを危惧していただけのこと。

 誰しも忘れたいことを一つ二つ持っている。せっかく無限に等しい寿命を手に入れても、過去の後悔をいつまでも引きずっていては楽しくない。

 自殺はいけないこと、そう決めた以上、死ぬ以外の方法で苦痛を消し去れるように準備するのは当然だ。



 ――それをもう既に使っていたなら。

 当然、何事もなく暮らしていれば、記憶をすべて消そうなどとは考えもしないはずだ。しかし『常山楽』が一人称を固定するなど、それこそ何かあったとしか思えない。


「一応確認しますが、その人は自身のことを常山楽、あるいはラク・ツネヤマと名乗っていましたか?」

「はい、何度か」


 姓名が同じで、見た目が瓜二つの人間か。別人だと言い張るのは無理があるな。

 だとすれば……


「何も知らない身で、こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、……身勝手な行動で傷つけてしまい、申し訳ありません」

「そんな、謝られるようなことは何も!」

「いえ、あなたの様子をみる限り、事はそう単純ではないでしょう。謝るだけの理由はあるはずです」


 常山楽の本質が善じゃないことくらい、とうの昔に理解している。

 その上でまともな人間であるために、やってはいけないこと、やるべきことを明文化して心に刻んでいる。人殺しはいけないとか、最低限法律に従えとか、――自分のした事の後始末は自分でしろ、とか。


 心情としては『私』は見ず知らずの他人だし、『私』が何をしようが知ったことではない。

 だが、その考えを許すわけにはいかない。「過去の『自分』は自分じゃないから、責任を取る必要はない」などと言い始めれば、それを逆手に取って無責任な行動をするに違いない。

 だいたい、この決まりは社会的にまともであるための条件にすぎない。主観的な意見は要らないし、嫌でも客観的な視点で考えなければならない。


「とはいえ、何をすれば償いになるのか、見当もつきませんが」


 日本での『償い』はどういうものだっただろうか。

 まずはお金による解決。正直、彼女に対しての行動としては、最悪手だと思う。向こうから言ってくるのであればともかく、こちらから提案するのは日本でも非常識だ。

 次に自罰的な行動、懲役とかだろうか。これは個人的にやりたくない。自身で決めたルールを破ったのなら、そういう行為も視野に入れそうなものだが、人間関係でのミスにそこまでの責任は感じない。

 となると三つ目の手段、金銭以外での補填が望ましいか――


「ひとまず、知り得る限りの『私』のことを話しましょう。何も知らないままでは、話し合いをするにしても不平等でしょうから」


 そう前置きし、異世界転移や能力のこと、常山楽がもともとどういう人物だったのかを説明する。


 彼女や『ラクさん』のことを積極的に訊きはしなかった。時々彼女のほうから補足が入ったりするが、無理に話を聞き出そうとはしていない。

 話したくないことだってあるだろうし、何より『ラクさん』のことはいくら聞いても理解できるとは思えないからだ。『この人なら、ラクさんの思いを理解できるかもしれない』と思わせることさえ避けたい。


 それでも起きたことの大筋は見えてきた。

 この世界における暦がどう、という問題はあるが……彼女が七歳の頃、今からおよそ十年前に『ラクさん』は姿を消したらしい。

 それまでは、恵まれない境遇にある人を集めて隠れ里をつくっていたりと、利他的な行動が多かったようだ。日本にいた頃の常山楽とは似ても似つかないが、それはどうでもいい。

 その過程で助けたのが彼女、ミオさんというわけだ。


 恩人、しかも十年近く会っていない相手ともなれば、あの反応も無理ないか。


「――というのが、常山楽の持つ能力です。性格のほうは……まぁ、あんまり参考にならないでしょう」

「あの、記憶を消す力があるんですか?」

「えぇ、きっかりこの世界に来るまでの記憶しか残っていなかったので、自然に起きた物忘れではないかと」

「つまり、ラクさんは自分の意志で、すべてをなかったことにした……」

「そうなりますね」


 仮に事故で記憶を失っていたのなら、責任を感じることはなかったはずだ。いや、責任を感じているかと訊かれれば、やや反応に困るが。

 なにせ責任を持つと決めたのは「自分のしたこと」だけであって、事故はそれに含まれない。


 そういう意味では、逃げようのない状況をつくった『私』に憤りを感じる。

 できることなら殴りたい。到底叶わない願いだし、第一痛みを感じないから大した復讐にはならないけど。


「もともとが快楽主義者ですからね、常山楽という人間は。度合いにもよりますけど、嫌なことに耐えるくらいなら、記憶ぐらい平然と消してもおかしくないでしょう」

「確かにあのときのラクさんは、私ではどうにもできないほど、辛い思いをしていたように見えました。でも、すべてをなかったことにすることに、少しも抵抗がなかったとは思えません。そんな言い方はあんまりだと思います!」


 意外にも強い否定が返ってきた。


「そう言われても、かんたんには信じられませんね。現に記憶は消されていますし、根本的な部分までは変わっていなかったのでは?」

「そんなはずはありません! ラクさんはあなたみたいに心ないことを言うような人ではっ! ……すみません、突然失礼なことを」

「いえ、気にしないでください。あなたの出会った『ラクさん』という人物は、それほどのことを言わせる人物だったのですね」


 とりあえず、場を収めるためにも、当たり障りのないことを言っておく。挑発する意図は多少なりともあったわけだし。


 口に出しても言ったが、人格の根本的な部分は、そうかんたんに変わるとは思えない。

 戯れで人助けをすることはあるだろう。しかし、尊敬されるような振る舞いをするかといえば、怪しいところだ。

 自己中心的だからこそ、他人の目を気にしない人間だったはず。であれば他人の評価が欲しいと思うようになったか、素で尊敬できる人間になったのか、いずれにしても異常なほど性格が変わっていたのだろう。


 それを確かめるために、『ラクさん』は自己中心的な人間だった、と読み取れるような言い回しをした。

 ミオさんが『ラクさん』を強く尊敬しているのであれば、程度の差はあれど機嫌を悪くするはず。

 ただし、並大抵の尊敬であれば、こちらの発言がただの疑問だと理解したかもしれない。あるいは気にもとめないか、笑い飛ばす可能性も考えられた。


 要するに、『ラクさん』はあまりにも常山楽らしくない。ミオさんの反応を通してそれを理解した。

 ――それは希望になり得るだろうか。


「長話をしてしまいましたね。訊きたいことがあるのならば付き合いますが、どうですか?」

「何もありません」

「わかりました。とりあえず、今日のところはこのくらいで。聞きたいことがあればいつでも言ってください」


 そう言い残し、休憩室を出る。

 廊下を進み、階段を上りながら、先程の会話を思い返す。


「心象を悪くしてしまったか……」


 恩人を馬鹿にされれば、大半の人間は怒るはずだ。それに気づかず自身の好奇心を優先したのは、反省すべき点だろう。

 ただ、『私』についてのことに限れば、冷静な話し合いに意味はない。感情が揺さぶられてなお、迷うことなく発せられた言葉以外信用できない。


「だからこそ『私』に強い興味が湧いたんだけど、そのせいで話を聞くのが難しくなっては、意味がないような気もしないでもない」


 誰だって自分の限界を知りたいと思っているはずだ。

 限界がないに等しいなら希望が持てる、すぐに限界をむかえそうなら諦めがつく、いずれにしても自身を導く指標となるのであれば、知りたいと思うのが人情だ。

 普通ならそれを知る術はない。しかし、もともと自分だった人間が歩んだ人生は、今いる自分にも当てはめられるはず。


 いつの日か『私』のことを聞き出す。そのことを目標と定めつつ、今後の身の振り方を思い描いていた。


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