目を背ける者
「お客さん? 珍しいなぁどうぞどうぞ、中へ入って。ここは寒いからね」
僕にとっては涼しく過ごしやすい森の中だったが、見るからに痩せている家主にとっては寒いのかもしれない。
「どこの馬の骨かも分からないのに、ありがとうございます。お邪魔します」
家の中は異世界にとって異世界だった。普通の丸テーブル、普通の椅子、普通の棚。
どこから木材を手に入れたのだろうか? 栄えた都市でも、野宿した山の中でも、異世界には柔らかい植物しか見当たらなかったのに。
「どうしたの? な、何か変かな……?」
「いいえ、懐かしくなっただけですので、お気になさらず」
微笑みながら答える。家主も困ったような笑みを返した。
「そう、よく分からないけれど、好きなだけ郷愁に浸るといいよ」
「優しいですね。あなたは優しい。でも僕は少しだけ休憩したら、すぐ出発するつもりです」
「そんなぁ、……そんなぁ、せめてお茶菓子を食べて、あと布団敷いておくね。あ、お風呂も沸かそう。広いばっかりで寂しい家なんだ」
「えっと、では、お茶菓子だけ頂きます。お茶菓子だけ」
「そうぅ……」
そんなに人恋しいのなら、何故こんな山奥に住んでいるのだろうか。彼は不思議な人だ。
「飲み物は?」
「水がいいです。喉がカラカラで」
「えぇ大変! すぐ持ってくるね!」
彼は純粋なのかアホっぽいのか、何かをやるたびに”そのことだけ”で満たされているようだった。
ハムスターがわたわた食べ物を運ぶように、氷の入った水をテーブルへ置き、洋風の茶菓子を並べ、椅子をセッティングしていく。
「さぁ座って。私の方は……ずっとここで一人だから、あまり世間話は得意じゃなくて……お客さんの旅の話はない?」
どうして一人こんな所に? と、いきなり聞くのは何か違う気がしたので、それに喉が渇いていたので、水を一気に飲み干してから、僕は旅の話を始めた。
家主は空いたコップに水を注いでくれた。その後は、僕の話を楽しそうに、本当に楽しそうに、懐かしそうに聞いていた。
僕は口を湿らせながら、長旅の出来事を思い出し、長旅の疲れを忘れていった。
「?」
ふと、違和感を感じた。
氷が溶けるほどに炭酸が強くなっている。
彼は面白いものを普段飲んでいるようだ。
「どうしたの?」
「氷が溶けたら、炭酸が濃くなっている気がしまして」
「え?それって変なことなのかい?」
「僕は不思議だと思いました」
「え?え?もしここにあるもので珍しい物があるなら好きなだけ見ていってよ」
「あはは、それは楽しそうなのですが、一見するとこの部屋には見慣れた物しかないんです。なのに、違うんですね。あはは」
家主は少し不安そうな顔になった。
「私の家は……おかしい?」
「いいえ、いいえ、おかしいのは僕の方ですよ。あなたの家はきっとこれで正しい姿なんです」
「そうなのかな。いや、実は、時々すごく怖くなるんだ。怖い時は、薬を飲んで誤魔化している」
「薬?」
やや、間があって。
「骨が融ける薬を飲んでいるんだ。
たとえこれで骨が折れてしまっても、飲んでいなきゃ私はダメなんだ」
「あなたが感じる恐怖、とは、なんですか? 骨が融けるのは怖くないのですか?」
「それは怖くない。それは受け止められる気がするんだ。でも、自分が、もうどんなだったのか覚えていないけれど、昔に戻ってしまうのは怖い」
「失礼ですが、それはどんな薬で?」
「色んなことを誤魔化す薬さ。薬を飲んで、鈍感に穏やかに暮らせるのなら、私の元々の性格なんて変わってしまっていていいんだ。私の幸せはそうなんだ」
「そう……ですか。」
彼は微笑んでいる。きっとこれが正解なのだろう。ここで、一人でいることが一番幸せなのだろう。
僕は出発の前に、都市で買った猫的なキーホルダーをお礼に渡した。
これで10年前、異世界に失踪した友人を、永野 悠を訪ねるのは最後にしよう。
僕は地球へ戻った。