13
土曜日は半ドンで、マリたちは放課後のグラウンドに集まっていた。
一時間後、ここで私立N女学院初等部ソフトボールクラブと、地元の西小のソフトボールチームの練習試合が行われる。グラウンドにはマリたちを除いて、まだ誰もいなかった。
「姉さん」
じっとりとした目でみくがマリを見る。
「姉をそんな目で見ちゃだめよ」
「なんで小笠原先輩がここにいるんですか?」
みくはマリの隣を見つめながら言った。
「ごきげんよう、みくちゃん」
貴子は朗らかに笑った。
放課後、マリは貴子に捕まった。グラウンド行くんでしょ? あたしも行く、と言われてはマリには抵抗できることはなかった。
「というかみくちゃんも部活行かなくていいの? 陸上部のホープなんでしょ?」
「今日はお休みです」みくが短く言う。
「最近部活をサボりがちだって、顧問の先生が嘆いていたよ?」
「私にもいろいろと事情があるのです。先輩に心配されることじゃありません」
「それはユメちゃんのこと?」
「それも、理由の一つです」
「それ以外の理由は教えてくれないよね?」
「教える理由がありませんから。逆に聞きますけど、なぜそんなことが聞きたいのですか?」
「だって後輩が困ってるなら助けたいと思うのは、当然のことじゃない?」
貴子は裏表なさそうな柔らかな笑みを浮かべて言った。
(姉さん、どうして先輩を連れてきたのですか?)みくが小声でマリに問う。
(勝手についてきたのよ……わたしにどうしろって言うの?)
(追い払ってください)
(どうやって)
(ほうき持って追い掛け回せば逃げるんじゃないですか?)
(そんなカラスじゃないんだから)
マリは妹の適当さに頭を抱えた。
(でも実際どうするんですか? 先輩の前で堂々と撃つわけにはいかないでしょう?)
マリは言葉に詰まった。
二人が待ち合わせたのは、もちろん古葉史郎を撃つためである。
今日これから初等部のソフトボール部の練習試合が始まる。そこに来る顧問の古葉を隙を見て撃つ。細かいことは考えてないから臨機応変に行くしかない。まあ今までも大体それでやってきたから問題ないだろうとマリは思っていた。
けれど今回は少しだけ状況が違う。
貴子がいる。
(一応聞いておきますけど、先輩に銃のことは話してないんですよね?)
(当たり前でしょ?)マリは憮然として答えた。
(本当ですか? 姉さんは先輩には妙にガードが甘いことがあるから心配です)
「二人で何話してるの?」
「なんでもないわ」マリは貴子に向かって手をひらひらと振った。
「ところで二人は、なんで初等部のソフトボールの試合なんて見に来たの?」
貴子が聞いた。
「ユメが試合に出るかもしれないからよ」
マリはさらりとごまかした。
マリの言葉に嘘はない。ユメは古葉史郎がソフトボール部の顧問だと知ってすぐにソフトボール部に入部した。試合に出るかまではわからないが、ここまで来ることに嘘はない。
「ふーん、でもマリがあたしに古葉先生のことを聞いてきたのは、ユメちゃんが入学する前だったよね?」
鋭い、とマリは思った。マリはごまかすように貴子に尋ねた。
「あんたはなんでグラウンドに来たのよ?」
「それはもちろん初等部の対外試合を応援するためだよ……ねえ、暇だしなんかしない? グラウンド誰もいないし、少しくらい使っても構わないでしょ?」
そう言って、貴子はバックネットの横に放置されたバットとボールを指さした。
「いいでしょう。私の邪魔をしたことを後悔させてあげます!」みくが喜び勇んで話に乗る。
「こんな暑いのによく野球なんてする気になるわね」
「姉さんもするんですよ?」
「ええ……? わたしが体力ないのは知ってるでしょ?」
「二人じゃ野球にならないよ。せめて外野に一人いないと面倒だし」
「さあ姉さん。グラブの付け方は分かりますか?」
二人に引きずられるようにして、マリはグラウンドに連れ出された。仲悪そうに見えて、こういうときだけ仲がいいなとマリは思った。
30分後、中等部のグラウンドに来たユメはグラウンド横の木の影でぐったりとシートの上に横になっているマリを見つけた。その横ではみくがハンカチで風を送っている。
そばまで歩いて行ったユメが声をかけた。
「どうしたのですか?」
「ちょっと遊んでたら姉さんがダウンしちゃって」みくが答えた。
「ちょっとじゃないでしょ……」マリは荒い息の下から、かすれるような声で突っ込む。
「忘れてたわ……あんたたちが、体力お化けだってこと」
「私も姉さんが体弱いの忘れていました」
「わたしは別に弱くないの……ただあんたらがおかしいだけよ……」
「でも姉さん、せめて大リーグボール一号くらいは攻略してもらえないと張り合いがないですわ」
「見えないスイングは……無理……」マリは沈黙した
「飲み物買ってきたよ」
両手にスポーツ飲料のペットボトルを山ほど抱えて貴子が戻ってきた。マリに聞く。
「大丈夫? 水飲める?」
マリはペットボトルにふらふらと手を伸ばす。貴子は余ったペットボトルをマリの首筋に押し当てた。
「冷たい」マリは気持ちよさそうに喉を鳴らした。
ユメは別のペットボトルを服の上から脇にあて、これじゃああんまりですねと独りごちた。
「姉さん姉さん、服の下に突っ込んでいいですか?」
「おねがい」
「それではお言葉に甘えて」貴子の手から余ったペットボトルを抜き取ったみくはマリのシャツを裾からそれを突っ込んだ。体が冷える。マリは思わずつぶやいた。
「気持ちいい……」
「あら、姉さんおっぱい大きくなりました?」
「最悪のタイミングで、最悪の感想を言ったな! まるでわたしが胸いじられて感じてるみたいじゃない!」マリは思わず叫んだ。叫んで頭が痛くなり、ぐったりと倒れ伏す。
「でも前よりモミ心地がいいような……」
「モミ心地って、ひどい言葉ね」
「そんな! 私は姉さんの胸を褒めてるんですよ?」
「あんたは胸褒められてうれしいの!?」
「ぐへへ、姉さんのおっぱいは乳腺と脂肪のバランスが最高です!」
「わたしの妹は最高に気持ち悪いわね!」
「……そういうのを姉妹でやるのはどうかと思うよ?」
それまで薄目で二人の痴態を見ていた貴子が、ついに我慢できずに声をかける。
「ほら貴子にまで変な目で見られたじゃない。離れなさい」
「しょうがないですね……お楽しみは後に取っておくことにします」
「ええ……?」
「そろそろ試合が始まるのですか?」
みくは横で心配そうにマリを見ていたユメに声をかける。
「いえ。少しウォームアップをしてから始めるそうです」
「そうですか、頑張ってくださいね」
「みくさんも頑張ってください」
「頑張るって何、応援を?」横で貴子が不思議そうに首を傾げた。
N女と西小の試合は投手戦の様相を見せていた。
初回、いきなりのノーアウト満塁のチャンスを作ったN女だったが、5番に入った荒井はぼてぼてのセカンドゴロを打ち、併殺が完成する間に一点を取るのがやっとだった。次の打者は内野フライに倒れ、その後のN女は西小のエース、荒垣の前にほぼ完ぺきに抑えられていた。一方の西小も散発的に安打は出るものの、N女のエース笹岡の速球の前にチャンスを作れなかった。試合は1対0のままで終盤を迎えようとしていた。
N女の監督、古葉は笹岡に声をかけた。
「次、いけそうか?」
笹岡は額に浮かんだ汗をぬぐい答えた。
「いけます」
古葉は何も言わなかった。
5回の表、古葉はこの試合初めての連打を許した。そのあとも甘く入ったスライダーを痛打され危うく失点しかけていた。横っ跳びに打球に食らいついたセカンドのファインプレーがなければ間違いなく失点していただろう。無理もない、と古葉は考える。この炎天下で投げ続ければどんなピッチャーでも球威が落ちる。古葉はちらりとベンチを見た。ベンチには、最近入ったばかりの新人が無表情で試合を見ていた。
「危なかった。あの球が抜けてたらやられてたんじゃない?」
小学生の試合を見ながらエキサイトしていた貴子は、西小の攻撃が無得点に終わって胸をなでおろした。
「ええ、あのセカンドはいい守備してます」
みくが同調する。
「さあ攻撃よ! がんばれー!」
貴子が口に手を当てて応援する。マリはベンチに目を移した。ユメはベンチだった。ユニフォームは間に合わなかったので一人だけ体操服でたいそう目立つ。その横には古葉が難しい顔でグラウンドを見ていた。周りにはチームメイトが座っていて、とても撃つことはできそうになかった。マリは横に置いたカバンに手をやる。そこには例の拳銃が入っている。焦るつもりはないけれど、チャンスは本当に来るのだろうか。
「次の回からピッチャー交代でしょうか」
みくが声を上げる。
マリはブルペンに目をやった。
ブルペンに向かって行く一人の少女の姿が目に映った。
「え」
マリは驚いた。その少女は、一人だけ体操服を着ている女の子だった。
5回のN女の攻撃も無得点に抑えられた。
西小のナインは自信を取り戻していた。初回こそやられたが、それ以降は無失点に抑えている。そして相手のボールも目に見えて球威が落ちているのが分かった。次こそはいける。ベンチにはそういう気分がみなぎっていた。
「ピッチャー交代」
だからその言葉を聞いて、西小のベンチには残念な空気が流れた。いやこれから出てくるピッチャーも打ち崩せばいいだけの話だ。ナインはもう一度気合を入れ直した。
マウンドの上には見たこともないブルマの少女が立っていた。
「なんでユメがマウンドに?」
マリが呆然とつぶやいた。
「あれ、マリは知らないの? あの子ピッチャーで登録されてるよ」
「それは知ってるわよ」マリは貴子に振り返った。「昨日言ってたし、でもまだあの子4年生よ? 6年生もいるチームに勝てるわけないじゃない」
マリは叫んだ。
マウンドの上のユメはいかにも小さく見えた。先ほどまでたっていたピッチャーに比べて確実に一回りは小さい。高校生ならともかく、小学生で一歳の違いは絶対だ。体の大きさは体の強さに比例する。マリには監督が何を考えているのかわからなかった。
それは相手も同じようで、ネクストバッターサークルに立つ女の子も戸惑っているのがここからでも分かった。
「まあまあ、見てみましょう? 意外とすごいかもしれないですよ?」
みくがマリを抑える。
マリははらはらしながらグラウンドに目をやった。ユメは感覚を確かめるように何度かキャッチャーに向かってボールを投げた。次の打者が入ってくる。ユメはゆっくりと投球モーションに入った。
おかしなことが起こっていた。
西小のベンチは狐につままれたような顔をしてグラウンドを見ていた。
ユメは大したピッチャーだった。
妙に曲がる変化球も持っていてそれを決め球見せ球、変幻自在に操っていた。そして何よりコントロールは抜群にいい。けれどそれだけだった。球威はお世辞にもあるとは言えず、フィールディングも下手だった。4年生ということを考えれば十分だが、実際の試合に使うとなると物足りない。なのに点を取られなかったのは、バックの守備良かったこともあるが、それ以上に運が良かったということもあるだろう。もともとソフトボールのボールが飛びにくいということもあるが、それにしてもゴロが多すぎた。
それを見てみくは「西小のバッターが突然へぼになったみたいです」と評した。
次のバッターがバッターボックスに入る。
7回ワンアウト、同点のランナーが出た。女子ソフトの試合は7回が最終回なのでこれが最終回である。
マウンドのユメは額の汗をぬぐった。
一球目は大きく外に外れてボールとなった。
「ユメちゃんだいぶ疲れてるみたいね」貴子の言葉にマリはうなずいた。ユメは明らかに疲労していた。滴る汗がそれを物語っている。マリは心配でしようがなかった。
二球目はストライクゾーンに入った。相手のバッターはタイミングが合わずに、ファールした。
「打たれそう」
みくが不吉なことをぽつりとつぶやく。
言葉通り、三球目は明らかな失投だった。ど真ん中に投げ込まれたボールを、バッターは思い切り弾き飛ばした。打球が伸びていく、レフトが下がる。そのとき、またしても不思議なことが起こった。風が吹いた。強い風がレフトから吹いてきてそれがボールを押し戻した。レフトは揺れるボールを何とか捕球した。
飛び出していたセカンドランナーが慌てて塁に戻る。けれどそれより早く戻ってきたボールがセカンドのグラブに収まる。
併殺が完成した。
「やったー!」
貴子が歓声を上げる。
試合はN女が薄氷の勝利をつかんだのだった。
試合の後、ユメは気分が悪いと顧問の古葉に訴えた。
軽い熱中症を疑った古葉はユメを連れて手近な保健室へ連れて行った。一番近い保健室は、もちろん中等部の保健室だった。
マリとみくは貴子を残しは、そのあとをついて行った。
「失礼します」
そういいながらマリは保健室の扉を開けた。
「君たちは誰だい?」
ユメが横になるベッドの横で座っている男の姿が目に入った。短髪のスポーツ刈りの男、古葉だった。
「わたしは川村マリと言います。そこで寝ている川村ユメの従妹です。さっきまでの試合を見ていて、ユメが気分悪そうだったから心配になって見に来たんです」
「ああ、そういうことなら見ての通り、ユメ君は大丈夫だよ」
「心配かけてすみません」
ベッドの上のユメは顔を横に向けた。いつも通りの無表情だった。
マリはあたりを見回した。
「保健の先生はいないのですか?」
「今は出払っているみたいだ。まあ熱中症くらいなら僕でも世話できる」
「ありがとうございます……ユメ、今日はよくやったわね」
「はい」ユメは鷹揚にうなずいた。「今日は疲れました」
「正直あんたがここまでやるとは思わなかったわ。ソフトボールやってたの?」
「ええ、少し」ユメが答えた。
「僕もすごいピッチャーが入ってきたと驚いたよ。技術も一級品だけど、彼女のすごいところはピッチングの組み立てだ。まるで相手がどの球を待っているのかを分かるみたいだ。今年は全国狙えるかもしれないな!」
「なにを待っているかが、ね」マリはユメを見た。ユメはすました顔で賛辞を受けていた。
「予習が生きました」
「そうかそうか! 朝の予習と夕方の復讐こそがステップアップの最短ルートだからな」古葉は何もわかっていない顔で笑っていた。
ユメには実際に相手がどんな球を待っているのかがわかっていたのだろうか?
そう考えれば確かに理解はできる。でも――
マリは考えて、あきらめた。
「まあいいわ。今日はなにか好きな場所に連れてってあげる」
「いや実際ユメ君はよくやってくれたよ。お姉さんも今日ばかりはわがままを聞いてやってください」
古葉がユメを手放しでほめる。ユメは「ありがとうございます」と淡々と応えた。
「え」
背後から声が聞こえて古葉は振り返った。
古葉の背後には一人の女子生徒が立っていた。
「おや、君は……」
「あ、ごめんなさい。挨拶が遅れました。川村みくです。マリの妹の」
「ああ、君も試合を見に来てくれていたのかい?」
「はい」
みくがマリに目配せする。マリはうなずいた。
「……この子はわたしたちが面倒を見ますから監督はグラウンドに戻られても結構ですよ? ほかの子たちが心配すると思いますし」
マリの言葉に古葉は一瞬ためらう様子を見せたが、ユメが「大丈夫です」と背中を押すと、「わかった、ありがとう」と言って部屋を出て行った。
後には三人が残された。
「それで、どうだったの?」
マリがみくに聞く。みくは懐から拳銃を取り出した。先ほど古葉の後ろに回ったときみくはこっそりと親子判定機を撃っていた。ランプはまだ光っていた。
色は――紫色だった。
N女にいる男性教員、スタッフの中にはユメの父親はいなかった。




