11
土日をはさみ、月曜日。
朝ご飯のパンをもそもそと口に入れていたユメがおかしなことを言いだした。
「ふぉろふぉろふぁっほうにかよほうとおほうのですが」
「ちゃんと飲み込んでから話しなさいよ」マリが呆れる。
ユメは牛乳でパンを飲み込み、口を大きく開けはきはきと言った。
「ふぉろふぉろふぁっほうにかよほうとおほうのですが」
「滑舌がいいのに何言ってるのかさっぱりわからない……」
「わからないんですか? 冗談を言っているに決まっているじゃないですか」
ユメが淡々と答えた。みくはなぜか恨めしそうにマリを見つめた。
「で、本当は何が言いたかったのよ?」みくの視線を無視してマリが問う。
ユメはいつもの落ち着いた声で切り出した。
「そろそろ学校に通おうと思うのですが」
マリは首を傾げた。
別におかしなことを言っているわけではない。ユメは小学生であり、小学生が学校に通うのはごくごく当たり前のことである。ただ、言っている本人が特殊なだけで。
「……一応聞いとくけど、あんたどこの学校行くつもりなのよ?」
「もともとは落小の生徒でしたけれど、もちろんそこに行くつもりはありません。学籍があるはずないですから」
落小は地元の公立小学校で、マリもみくもそこに通っていた。
「じゃあどこに行くのですか?」みくが問う。
「N女に行きます」ユメは続けた。「N女の初等部に編入しようと思います」
マリはユメの顔をまじまじと見つめた。
その顔は真剣そのもので、まるで冗談を言っているようには見えなかった。
初等部から大学院まであるだけあって、N女は広大である。
N女のキャンパスは大きく三つに分かれており、それぞれ北部、中央、南部と呼ばれていた。その中でも中等部と高等部は南部に、初等部は中央に置かれていた。
みくと別れたマリはユメを連れて中央キャンパスに足を踏み入れた。
マリは初等部に入るのは初めてだった。初等部のキャンパスはマリの通った市の小学校に比べると全体的に豪華な感じがした。お嬢様学校だから当然かもしれないが、まず校舎が四角いワッフルみたいな鉄筋コンクリ建てじゃないことに軽いカルチャーショックである。
「確かこの辺って話だったけど」
待ち合わせ場所の来賓室は昇降口の横にあった。七時半の小学校にはまだ生徒の姿はほとんど見えなかった。ここに立っていたら目立つだろうなと思いながら人を待っていると、「あのぉ、あなたが川村さんですか?」と、いきなり後ろから声をかけられマリは肩を震わせた。
振り向くとそこには眼鏡をかけた一人の女性が立っていた。マリは先ほど見た写真を思い出す。
「あなたが屋敷先生ですか?」
「はーい」マリの問いに女性はみょうに間延びした声で答えた。
「よかったー人違いじゃなくて。でもこんな目立つ髪の色してたら間違いようがないよねぇ?」
女性は屋敷珠と名乗った。彼女は初等部の教師で麻衣子の中高での後輩らしかった。
「いきなり川村先輩から連絡が来たときは驚きました。しかも生徒を一人編入させろなんていきなり言ってくるから、先週からその準備で大変だったんですよー?」
「それは、母がご迷惑おかけしました」
「いいえ、それは私の仕事ですから。それに私の方こそ昔から先輩にはお世話になってばかりですし。修学旅行で迷子になったのを探してもらったり、南米のジャングルでジャガーから逃げ回るのを助けてもらったり……」
マリはあいまいに相槌を打つ。そんな面倒見のいい母の姿はにわかには想像しがたかった。というかなんで南米のジャングルでジャガーに追い掛け回されたんだろう……
「編入生の人相を妙に詳しく説明してくるからよほどわかりにくいのかと心配していたんですけどすぐわかってよかったですよ。でもそれならなんでメールに200メガも画像ファイルを添付してきたんでしょうか、画像は無圧縮で重いし、こんな目立つ子なら見間違いなんてあるわけないしー……あれ、なんであんなに事細かに説明する必要があったの? もしかしていじめ? これがいじめなの?」
「それは単にからかわれているだけだと思います」
マリが言うと珠は膝から崩れ落ちた。
思った以上に困った人かもしれないなとマリは思った。
「あの、大丈夫ですか?」マリが恐る恐る言葉をかける。
「いえー昔から川村先輩はそうでした、気にしてなんてないです。それで、その子がユメさんですか、確か川村先輩の従妹の娘さんですかー?」
母はそういう説明をしているらしかった。細かい嘘は聞いてないマリは曖昧にうなずいた。
「最近実家でごたごたがあって先輩の家に来てたんだけど、川村先輩の仕事が忙しくなって面倒を見れなくなったからできるだけ早く転入させてほしいって、そう聞いてますけど大丈夫ですかー?」
「だいたいそんな感じです」
ふむ、と珠は顎に手をやり、ユメを見た。
「なるほど、確かに似ていますね」
「……そう?」
「ええ、お二人とも川村先輩によく似ています」
マリは居心地が悪げに体を揺らした。
「でも本当のところはどうなんですかー?」珠が聞く。
「……本当のところ?」マリは意味が分からず聞き返す。
「だって面倒を見てもらうために転入させたいだけなら地元の公立小学校に転入させればいいですよねぇ? わざわざN女に転入させる理由がないです」
「……」
「それに書類の方もとこどころ変でしたし。一応おかしいところはこっちで修正しておきましたけど、ちょっと怪しい部分があったなあと、思いました」
マリは絶句した。麻衣子はどんな無茶を通そうとしているのだろう。もっとも無理は仕方がないのだ。ユメはそもそも戸籍すらない。そんな子供を小学校に転入させようというのだから、かなりの無茶は当然と言えた。
麻衣子にその無茶を少なくともユメを連れてくるところまで実現する力があることにすでにマリにとっては驚きなのだが。
「まあその辺はどうでもいいんですけど」
「どうでもいいの!?」
珠はあっさりと話を変えた。
「ええ、まあもう済んだ話なので」
すごいな、母さんどうやったの? マリは母に聞きたくなった。
「問題なのは編入試験と時間です。うちの編入試験は自慢じゃないですが、ひどいです。ぶっちゃけ編入させる気なんてさらさらないです」
「それならなぜそんなシステムを残しているのよ」
「学校としてあるためには必要だという点が一点、それからもう一つは、かつて一人の伝説の生徒がそれをパスしてしまったということがもう一つの理由です。まあ、難しいのはしょうがないという一面もあります。うちのカリキュラムは特殊ですから。もしかしたらあなたが解いても解けないかもしれません」
「それともう一つは時間ですねぇ。試験受けて手続き済ませて、普通にやるとあと一週間くらいはかかります。でも川村先輩は急いでいるようでした。一週間も待ってはいられませんよねー?」
この問いにはユメがうなずいた。
「でもー」と珠は続けた。「川村先輩の影をちらつかせれば無理も通るかもしれません」
「え?」
「とりあえず進んでみましょぉ」珠が元気に間延びした声を上げる。
「進むってどこにですか?」
マリの問いに珠は指先で答えた。指さした先は『校長室』と書かれていた。
「失礼します」珠はノックの返事も聞かずに扉を開けた。
「屋敷先生ですか。今日はどうしたんですか? あら、その後ろの子たちは?」
部屋の中では白髪の女性が一人、椅子に座って何かの書類を読んでいた。校長室にいたのだから、たぶん校長先生なのだろう。
「この子たちは川村麻衣子教授の娘さんと従妹さんたちですー」
「あら、川村教授の?」
「初めまして、川村マリと言います」マリは頭を下げた。
「それから、そちらの方は?」校長がユメを見る。
「川村ユメです。よろしくお願いします」ユメは如才なく頭を下げた。
「こちらこそよろしく。あなたのおばさんには私たちもずいぶんお世話になっているわ」
「そうですー川村教授にはうちはずいぶんとお世話になっています。N女の大学院はK大学と共同研究をさせてもらっている研究室がごまんとありますし、教師だって川村先生の紹介でK大の優秀な卒業生にたくさん入ってきてもらっていますぅ」
「ええそうね」
「その川村教授から頼みがあるそうなんですー」
「頼み? 何ですか?」
「それが、川村教授は今忙しくてこの子のこと世話を見れなくなってしまっているそうですぅ、それで少しの間、その従妹の子をうちで面倒見れないでしょうか?」
「それはつまり、このユメという子を転入させるということですか」白髪の女性が問う。
「そうともいいますー」
「それならそれ相応の書類と様式を準備してあるのですか?」
「書類は先週私がもらいましたー。不備はないと思います。事務の方にもまわしてもらってますし、あとは試験をパスしてもらって臨時の編入委員会を開いて承認貰って校長先生と理事長のハンコをもらうだけですー」
「それならそうしてください」
「時間がかかりすぎます。川村教授は今すぐに世話を見てくれるものを必要としているんですよー?」
「……あのですね、うちは小学校で保育園じゃないんですよ?」
「保育園に入れる年齢ならたぶんそうしていたんだと思います。でも、そうじゃないですよね?」
「それはそうですけど」
「それに試験も難し過ぎます。あんなんじゃあ誰も解けないじゃないですか」
「屋敷先生、結局あなたはなにを言いたいのですか?」
「試験も手続きもぶっ飛ばして、この子を編入できませんか?」
珠は、すごいことを言い出した。
「できるわけないじゃないですか」校長は至極当然なことを言った。
「いいんですか? 川村教授の頼み断ったら、どんな風にいじめられるかわかりませんよー?」
白髪の女性は言葉に詰まった。
その時、外からノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼します」
扉が開く。そこにいたのは、マリと同じ中等部のセーラー服を着た女子生徒だった。マリを見て、その女子生徒はおや、とかすかな驚きに目を見開いた。
「小笠原貴子さん!?」白髪の老女がなぜかフルネームでその名を呼んだ。
入ってきたのは貴子だった。
でもなんで貴子が初等部の校長室にいるのだろう。
マリの疑問には珠が答えた。
「貴子、遅いですよー?」珠が呼んだらしかった。どうやら二人は知り合いらしい。二人は親密に挨拶を交わし、「それで、私を呼んだ要件って何?」と貴子は尋ねた。
「別に大したことじゃないんです。ただ一つ聞きたいんですけど、もしも生徒が困っていたら教育者はどうするべきだと思いますかー?」
「できる限りその子を助けるべきだと思う、当たり前です」
貴子は間髪入れずに答えた。
正論だけどそれ以上に忘れちゃいけないのが、貴子がこのN女の理事長の娘で、彼女の家はK市の教育をほとんど牛耳っているということだ。もちろん貴子自身に何らかの権力があるわけではない。ただ、貴子の周りには権力者がたくさんいる。その影響は無視できない。
実際校長は聞いたことがあった。小笠原家の不興を買って、閑職に追いやられてた教師の話というものを。もちろんどこまで噂である。本当かどうかは分からない。けれど、わからないからこそ恐ろしい。
「そーですよね? ちなみにマリさんはユメさんの世話を見なくちゃいけなくなったら困りますかー?」
「まあ困るけど……」
「ちなみに小笠原さんと川村さんは友達なんですよねえ?」
「え、ええ」
「だそうですよー?」珠は白髪の女性に向き直った。
「しかし、そんな簡単には転入なんて」
「別に手続きを完全になくすなんてことはしなくていいんです。例えばそうですねー、手続きが終わるまでは、一応クラスにあずかっておいて、正式なものが済んだら正式に転入させる、それくらいの融通は聞きますよね? 試験だって完全になくす必要はありません。ただ、少し簡単にしたものを後で受けてもらってパスしてもらう。それなら編入が遅れるだけの話です。少しの間、書類上は存在しないけど、一緒に授業受けている生徒がいても問題はないですよねー?」
いや大問題だろ、とマリは思ったが黙っていた。
校長の頭の中で打算のそろばんがパチパチとはじかれているのが分かった。
彼女が今の地位を得るまでには30年にも及ぶつらい教育者としての歴史があった。言うことを聞かない生徒、職員室での陰湿なバトル、予算会議、予算の申請、各種の委員会……顧問を押し付けられた英語研究会には、なぜか中等部や高等部の生徒と一緒に古語でシェイクスピアを読まされた。生徒の前で間違えるわけにはいかない輪読は、大学のゼミの時以上につらかった。
しかし、それらもすべて過去の話だ。今、彼女は頂点にいる。
その地位を捨て去るのはつらいことだった。
けれど、問題を抱えるのも嫌だった。彼女の官僚的な魂がそれを拒絶していた。
「いざとなったら責任は私が取りますー」
耳元で珠がささやく。
マリはそこに甘い言葉で人の魂を堕落させる悪魔の姿を見たような気がした。
「一つだけ、条件があります」老女が口を開く。
「何ですか?」
「手続きはすっ飛ばしてもいいです。ですが、転入試験は受けてもらいます」
「ですがー」
「これはそちらのユメさんのことも思って言っているんです。N女のカリキュラムは独特です。ついていけない授業はつらいものです」
「……」
「わかりました」
今まで黙り込んでことの推移を見守っていたユメが口を開いた。
「試験を受けさせてください」
「N女の試験は本当に難しいんですよぉ? たぶん中学生でも解けませんー」
「屋敷先生、めったなことは言わないでください。それまでの過程で手を抜かず熱意をもって学習していれば誰でも解けるはずの問題です」
「それが誰にもできないんですー」
「それでも大丈夫です」
ユメは堂々と告げた。
「ですがー」珠が言い淀む。
「本人が言っているのだからいいじゃないですか。お姉さんもそう思いませんか?」
老女はすがるような表情でマリを見た。
「ユメ」
マリはユメを見た。
「できるのね?」
ユメははっきりとうなずいた。
「この子に試験を受けさせてください。お願いします」
マリは校長に向かって頭を下げた。
校長はほっと胸をなでおろした。
「そこまで言うなら、わかりましたー……それじゃあ、試験はいつごろにしましょうかー?」
「できるだけ早い方が川村教授はいいのでしょう? 明日はどうでしょう」
その提案にユメは首を横に振った。
「いえ、今日がいいです」
「えぇ?」
「今日、今からでも試験にしましょう」
白髪の老女は勝利を確信し、大きなガッツポーズを決めた。もちろん心の中で。
試験はその日の10時からということになった。
それじゃあ必要な書類をでっち上げますからーと言って珠は校長室を出た。それは公文書偽造になるのではとマリは思ったがやっぱり黙っていた。珠の後に続いてマリたちも出た。
「でも本当に大丈夫なのですかー?」珠はまだ心配そうだった。
「校長はもう勝った気になってますよー? 絶対ユメちゃんがパスすることなんてないと思っているから、こんなにあっさりと容認したんです」
「問題ありません」ユメはマリを見た。「私はお母さんの娘ですよ?」
「そういう問題じゃないと思うんですがー……まあ今更言っても仕方ないです。できる限りのことは私もしますから、頑張りましょー。お姉さんはもう行っても大丈夫です。そろそろでないと中等部の授業に間に合いませんよー?」
中等部の校舎まではここからだと歩いて10分以上はかかる。時計を見るとまだ余裕はあったが、ぎりぎりになるのはマリも嫌だった。
「それから貴子もありがとうございましたー」
珠はマリたちと一緒に歩いていた女子生徒に声をかける。
「結局、私は何のために呼ばれたの?」
貴子は不思議そうに三人を見て言った。
「それにあの子は一体何だったの?」
「後で説明してあげるわ……」
マリはどっと疲れた顔で貴子を見た。
家の電話に「ユメちゃんがN女の仮想的な生徒になりましたー」という知らせが届いたのはその日の夜のことだった。
「でもユメちゃんすごいですねえ」電話の向こうの珠はしきりに感心して言った。
「あのテストで満点取れるなんて、本当に頭がいいんですねー?」
「それはたぶん、問題を事前に知っていたんだと思います」
「えぇーどういうことですかー?」
「なんでもないです……ユメのこと、よろしくお願いします」
「はいー」
数秒の後、珠は気の抜ける声で返事をした。
「実際のところどうだったの?」
通話を終えたマリがユメに聞く。ユメは「なにがですか?」と逆に聞き返した。
「試験よ。なんで満点が取れたの?」
「そうですよ。この試験、かなり難しいですよ?」
ユメの隣に座ったみくも口をそろえる。ちなみに彼女は先ほどまでユメが持って帰った試験問題相手にうんうん唸り声をあげて、「これどう解くのでしょうか? というか拡散方程式をこんな変な境界条件で解くなんてほんとにできるの?」と、最初の問題から文句を言っていた。
みくが解けないということは本当に難しいのだろう。それをユメがすらすら解けるとはマリには思えなかった。
「心外ですね。私が空前絶後の天才少女という可能性だってあるじゃないですか?」
「空前絶後なのは認めてもいいけど」
「まあお察しの通りですが」
「つまり事前に試験問題を知っていたの?」
「はい」ユメは一枚のプリントを取り出した。それはまるで十年以上日に焼かれ、痛んで茶色く変色した、古ぼけたプリントだった。
「これ、私がさっき解いた問題と同じ問題です」
二つのプリントを見比べたみくが声を上げる。
「20年後から持ってきた過去問です」ユメは淡々と告げた。
「それはもう過去問でも何でもないわね」
「でもこれで初等部の先生に対するアプローチができるようになりますね」
みくの言葉に、マリは渋々うなずいた。
確かにそうだ。ユメが初等部に編入したのだから、初等部の容疑者はユメに撃たせればいい。
翌日からユメはN女の初等部に通いだした。
数日のうちに、ユメは初等部の用務員の狙撃に成功した。
またマリたちも中等部の生物教師、喜多川の狙撃を行った。
結果は初等部の用務員が黒に近い紫。
喜多川もほとんど同じだった。
二人ともユメの父親ではなかった。
残る容疑者は、初等部の体育教師、古葉史郎だけとなった。




