10
次の日は朝から雨が降っていた。
マリはその日、幾何の瀬戸と中高の用務員を撃った。できればトイレで待ち伏せ以外の方法を使いたかったのだけれど、結局瀬戸を撃つのに同じ方法を使ってしまった。ほかのいいタイミングがなかったのだ。ただしトイレの中に入るのはやめることにした。前の時も結局撃ったのは外だったし、それほど意味があるとは思えなかった。みくと二人で近くを見張り、教師が一人きりになったタイミングを狙い撃った。
用務員の方は二人で直接用務員室に向かい、マリが注意を引いている間にみくが撃った。用務員室は生徒もめったに立ち寄らないし、大丈夫だろうという判断だった。
二人に出た色は、瀬戸は濃い藍色、用務員はほとんど黒だった。
二人ともはずれ。マリは人知れず安堵の息をついた。
「しかし姉さんもすっかり男子トイレの常連ですね」夕食後のお茶を飲みながら、みくは的外れな感想を述べた。「ほとんど男子と言っても過言ではないんじゃないですか?」
ユメが驚愕に目を見開きマリを見た。
「つまりお母さんはお父さんだった……?」
「いや過言よ。今世紀最大の過言と言っても過言じゃないわ。全然違うじゃない」
マリは額を押さえた。
「でも残ってるのは、喜多川とよく知らない初等部の先生――一番若い二人が残るなんて、普通すぎて面白くないです。もっとひねりを入れたほうがいいんじゃないですか?」
「わたしの人生にひねりとかいらないから」マリが疲れたように言う。
「ひねりは大事ですよ? ひねりを入れることで横からの力に強くなります」
「人生に横からかかる力ってなによ?」
「横やりとか横車とか、いろいろあるじゃないですか。でも、そうなると喜多川かその初等部の教師か、どちらかは生徒に手を出すような変態ってことになりますね」
みくは辛辣に教師を評する。確かに生徒に手を出すような奴は変態だとマリも思うし、犯人は間違いなく変態だと思うが、事実は微妙に違う。
「でも、別にロリコンとは限らないわ。だってユメは十年後のわたしが生んだ子供なんでしょう? だったら子供を作ったのはざっくり十年後よ。その時にはわたしはN女の生徒であったはずがないわ」
だからみくの言葉は少し間違っている。もし仮にその二人のうち一人がユメの父だったとしても、それは生徒に手を出した、ではなくて元生徒に手を出した、である。
「言われてみればそうですね。でもそうなると少し不思議です。なんで十年後の姉さんはN女の教師なんかと縁があったのでしょうか?」
「さあ……ユメは何か知らない? って、知ってたら父親捜しなんてしないわよね。質問を変えるわ。十年後から二十年後のわたしって何をしてたの?」
「何、と言いますと」ユメは問い返した。
「例えば、そうね、仕事とか」
「仕事ですか」
ユメは迷わずに答えた。
「お母さんは大学で働いていました」
大学で働く。といっても色々ある。研究室の秘書や大学の部局の事務職員、工場の技術職員に用務員から講師、教授に至るまで。
「お母さんはK大学で助教授をしていました」
みくは意味深にマリを見た。
「なによ?」マリが問う。
「いえ、なんだかんだ言って、姉さんもそういう道に進むんだなと思っただけです」
みくは意味深な笑みを浮かべながら言った。
「だからなにが言いたいのよ?」
「別に何も……私も一つ聞いていいですか? 私は二十年後何をやっていたのですか?」みくは話をユメに振った。
「みくさんはよくわかりません」ユメが答える。
「私とはあまり会わなかったのですか?」
「いえ、良く会いました。私が家にいるときは、大体一緒にお昼ご飯食べていましたから」
「平日のお昼ご飯に暇な職業? 自営業か何かでしょうか?」みくが首をひねる。
そこでユメはぽんと手打った。何か思い出したようだった。
「ああ、そういえばみくさんは自分のことをニートと言っていましたね」
「に、にーと……」みくは真顔で繰り返した。どうやら衝撃を受けすぎて表情筋が追いついていないらしい。
「ところで、お母さん」ユメはみくにとどめを刺した。「ニートってなんですか?」
無邪気なことは時に残酷なことだ。冷たい風が吹き抜ける。これが世間の冷たさだろうかと、マリはいたたましく思った。
「……もちろん冗談ですが」
それを聞いてみくの顔がにわかに明るくなる。
「そ、そうですよね! 私がニートになるなんてあるわけないです」
「ニートの意味くらい知っています」
みくはもう一度固まり。今度はマリに抱き着いてめそめそと泣き出した。マリは妹の背中をなでながらユメを問いただす。
「あんまり人の妹をからかわないで。結局どうなのよ?」
「全部冗談です」みくは表情を変えずに言った。ひどいな、とマリは思った。
マリは話を戻した。
「そういえば、今日トイレで変なことがあったわ」
「変なこと?」ユメが繰り返す。
「ええ。実は今日男子トイレで待ち伏せをしていたら、変な人がいたのよ」
「それは姉さんのことじゃないのですか?」みくの口調は妙にとげとげしい。
「誰が変な人よ」
「だって変な人じゃないですか。休憩時間ごとに男子トイレに向かう女子なんて。間違いなく変です」
「それをよりによってあんたが言うの? 言い出しっぺはあんたじゃない?」というかあんたもそばにいたじゃない、とマリが言うとみくは、そんな昔のこと忘れましたとうそぶいた。ずいぶんと都合のいい脳をしている。
「そうやって責任を転嫁しないでください」
「責任転嫁ではないわよ……とにかくわたし以外にいたでしょ? ほら昼休み」
「あの先輩のことですか?」みくが確認する。
「先輩?」ユメは興味深そうにマリを見た。
「ええ、男子トイレに入る生徒がいたのよ」
マリは言いながらその時のことを思い出していた。
あれは確か、昼休憩の待ち伏せを初めて十分くらいだっただろうか。
一人の女子生徒がマリたちの見張るお手洗いに近づいてきた。
それだけだったら別に珍しい話ではない。男子トイレのそばには女子トイレもあるし、階段の影になっているとはいえ、人通りが全くないわけではない。女子生徒が近づいてくるのに気が付いた二人はそのまま何食わぬ顔でその場を離れた。人に見られて噂になったら面倒だ。
女子生徒はあたりを見回してから、男子トイレへと入っていった。
その人物は髪は短かった。といっても女子にしてはという意味で、そのショートヘアは間違いなく女子のそれだった。それにN女のセーラー服着ていたし間違いない。トイレに入っていたのは、女子生徒だったのだ。
「やっぱり姉さんの見間違えじゃないでしょうか?」みくが疑わしそうにマリを見る。
「あんたは気が付かなかったんだっけ?」
みくはうなずいた。みくが言うには、ちょうどそのとき目を話していて気が付かなかったらしい。
「それにもし仮に本当にそんな生徒がいたといても別にそれほどおかしな話じゃないんじゃないですか? 学生がトイレで隠れてすることなんて昔から決まっています」
「トイレですること……お弁当を食べるとかですか?」ユメがピントの外れたことを言う。
といか20年後の未来にもボッチ飯という概念はあるらしい。政府と教育委員会には速やかな対策をおねがいしたいとマリは切に願った。
「そうじゃなくて煙草です。男子トイレなら滅多に人来ないだろうって思った人がいてもおかしくありません」
「でも、煙草の匂いはしなかったわ……それに最近のトイレは火をつけると警報が鳴るんじゃないの?」
「じゃあ禁煙中で電子煙草でもやっていたんじゃないですか」
みくが投げやりに言う。マリはわざわざトイレにこもって電子煙草を吸う不良を想像した。なんだろう。ただの馬鹿なのになんだかすごくいい人っぽく感じる。
「でもそうじゃなかったとしたら他に何か思いつきます?」
みくが問う。
女子なのに男子トイレに入る理由。
「近くにトイレがなかったから、とか」
「職員室前のトイレって、男子トイレと女子トイレ並んでいるのでそれはないと思います」
「女子トイレが埋まっていたとかどう?」
「職員用のトイレが埋まるとは考えづらいです。それに仮に埋まっていたとしても入る前にそれがわかりますか? その女子生徒は迷う様子もなくすぐにお手洗いに入ったのでしょう?」
確かにそうだった。マリは唸った。
「それじゃあ、趣味とか?」
「それは姉さんだけじゃないかしら?」
「だから、わたしは変態じゃないわ!」
「じゃあなんで男子トイレに入った話を嬉々として妹に話すのですか」
「それをお前が聞くか!?」マリは憤慨した。
「で、ほかに何かないのですか?」みくは話を戻した。
「そうねぇ」マリは少し考える。男子トイレに入るなんて普通嫌なはずだ。それなのに入るということは何かよほどの用事があったか、あるいは――
「もしかして、その女子生徒は実は男子だったとか」
みくは目をぱちくりと瞬いた。
「あ、ごめん、うそうそ、いくらなんでもそんなわけないわよね」
「……さすが姉さんです」
みくは感嘆していた。
「信じた!?」マリは驚愕した。
「その発想はありませんでした」
「なくて正解だと思うのだけど」マリが突っ込む。
「目からうろこがなだれ落ちました」
「あんたは爬虫類かなんかなの?」
「じゃあ目から水晶体がポロリと落ちた感じで」
「失明するわ!」ていうか怖い! 妹が謎の生物になったみたいで怖い! マリは恐怖した。
「え、というかマジで信じてるの? 冗談じゃなくて?」マリが問う。
「半信半疑、といったところです」
「半分も信じてるんだ……」マリは妹の将来が不安になった。
「確かにN女に男子生徒がいるなんて荒唐無稽な話です。でも全く根拠がないわけではありません。姉さんはN女の七不思議ってご存知ですか?」
みくは突然話を変えた。
「N女の七不思議?」マリはそのまま聞き返した。「それは動く骨格標本とかその類のアレのこと?」
「ええ、まあそういうやつです。N女にあるんです。なくて七不思議っていうのは正しいですね」
「どんなことわざよ」マリが呆れる。
「世の中自明に見えることでも七つくらいはおかしなことがあるってことです」
「なんか無理やりいい話にしようとした!」
「まあそんな古臭い言葉はどうでもいいです」
みくは自分から振ったにも関わらず、あっさりといった。マリは妹にもう少し話の流れというものを大事に扱ってもらいたいと思った。
「大事なのはN女に七不思議が存在すること。そして、その七不思議にその話が含まれることですわ」
「その話?」マリは意味が分からなくて問い返した。
「N女に通う男子生徒、という話です」
「……それは怪談というよりスキャンダルの類だわ」
というか本当にあったら大問題である。忘れがちだけど、N女はお嬢様学校なのだ。もしもその中に男子生徒が混じっていたら……考えるだけで恐ろしい。自分のやっていることが男子に見られていると思うと、もうお嫁にはいけないかもしれない。
いやそれ以上にそんなスキャンダルが明らかになったら、学校が潰れるかもしれない。その場合最終学歴はどうなるんだろう? 高校中退?
マリは恐怖に身震いした。でも、確かに恐ろしいが、この恐怖はホラーではないだろう。
「というか、本当にそんな話あるの? わたし聞いたことないんだけど」
「姉さんは友達が少ないですから……」
「勝手に決めつけないでよ!」
もっともマリはそんなに友達が多くないことは確かである。部活もやっていないし、あまり遊びに行かないのでしょうがいないとも言えた。その一方、みくは顔が広い。部活の先輩なんかにもかわいがられているようで、そういう意味では確かに友達が多い方だった。
「だいたい、そんなのただの噂でしょ? 嘘に決まってるじゃない」
「でも火のない所に煙は立たないって言いますよ?」
「平時に乱をおこすって言葉は知らないの?」
あるいは火に油を注ぐとか。
「姉さんはごちゃごちゃうるさい。それにこれが正しければ一つの疑問に答えが得られます」
「疑問?」
「ええ、私はずっと不思議でした。もしも本当にユメの父親がN女にいるならN女の男性が一番怪しい、でもN女の男性には客観的にも主観的にもあまり魅力があるとはいいがたいと思います。姉さん、実はすごいおじ専だったりします?」
「わたしはそんな奇特な趣味してないわ……」
「それならやっぱりN女の教師がユメの父親であるという説にはどこか無理があります。ここにN女に実は男子生徒がいるとしましょう。するとどうなります? とても簡単で魅力的な答えが浮かび上がるじゃないですか!」
「その男子生徒がユメの父親だって言いたいの?」
みくは自信満々にうなずいた。
「その自信はどこから来るのよ……」
「ドルジ体からです」
「何その横綱みたいな名前の器官は」
「私だけに備わった自信を生み出す器官です」
「あんたの体なんか全体的におかしくない!?」
妹がどんどん人外になっていく。マリには本当に妹の将来が心配だった。
「で、どう思います?」みくが話を戻す。
「いやそっちの方が無理あるでしょ」マリは呆れた。
「どこがですか?」
「どこもかしこもよ。N女に男子がいたらすぐばれるわよ。女子校なんだから……それにまだ喜多川が残ってるじゃない」
「そんなに喜多川とヤりたいのですか?」
妹は姉を汚物でも見るかのような目で見た。
なんでわたしは妹から汚物を見るような目で見られているのだろうか。
マリは空しくなった。
「それにユメだって40過ぎのおじさんが父親よりも、若くてかわいい父親の方がいいでしょう?」みくが話をユメに振る。
「私は別にどちらでも構いませんが」ユメは泰然自若として答えた。
「あんた神経太いわね……」
マリだったらどっちもいやである。
「大体、N女のおっさんは確かに魅力は感じないけど、女子校にこっそり通ってる男子だって大概じゃない。わたしそんな変態に恋したりしないと思うわ」
「もう、わがままですね! それなら一体誰とヤりたいのですか!」
みくは果てしなくヒートアップしていくようだった。
というかヤるとかヤらないとか、なんて会話をしているのだろう。おかしいなあ、一週間くらい前まではもう少し落ち着いた感じだったのに。マリは自分がどこで間違ったのか、いぶかしんだ。
「とにかく、私の説はこうです。喜多川も初等部の教師もユメの父親ではありません。そして、その代わりの存在がN女にはいます。言ってみればこういうことです。『この中に一人、男子がいる!』」
色々アウトだと、マリは思った。
「そういえばそろそろ初等部の教師を狙う方法を考えないといけませんね」
話が一段落ついてから、みくはそう切り出した。一段落と言っても何か結論めいたものが出たわけでなく、平行線を平行線と確認して終わっただけなのだが、とにかく、マリとみくは言い争いをやめた。
「あーそれも考えないといけないわね……正直あんまり思いつかないんだけど」
「姉さんの友達に頼んだら何とかなりませんか? ほら、姉さんの友達に初等部からN女の方がいましたよね?」
「貴子のこと?」
「そうです。私の友達にはあまりいなくて」
「初等部組は少ないものね」
マリはうなずく。N女の初等部は一学年で60人ほど、30人クラスが二つ分しかない。一方で中等部は一学年200人、6クラスである。N女の生徒の中でも初等部から通っているのはよっぽどのお嬢様か、よほど教育熱心な家庭の子供だけだ。そもそもN女の初等部はカリキュラムが特殊らしく、よほど頭がいい子か、よほど根気のある子じゃないと置いて行かれるとも聞いた。貴子はそれを称して『小学校版虎の穴』と呼んでいた。悪人レスラーでも作っているのだろうか。
「まあ一回貴子には聞いたんだけどね。そういえばなんか考えてくれるって言ってたわね」
「じゃあ何か思いついているかもしれません」
「わかった。今度聞いてみるわ」
「お願いします」みくがうなずいた。
「そういえばそのことに関連することで、私にできることがあるかもしれません」
マリはユメを見た。それまで黙っていたユメが口を開いた。
「できること?」
「はい。まだ確定ではありませんが、少し考えがあります。そちらはそちらで準備を進めて欲しいのですが、一応言っておこうと思って」
「わかった。その結果っていつくらいにわかる?」
マリの質問に、ユメはカレンダーをちらりと見た。
「たぶん、来週には」
今日は金曜だった。




