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車に揺られること一時間、あたりはすっかり暗くなっていた。
その間に少女の乗るグレーのセダンはバイパスを降り、国道を抜け、今ではすっかり山の中に入っている。白いライトに照らし出された先には、真新しいアスファルトで覆われた山道が黒々と伸びていた。時折照らし出される交通標識が心配するのは、子供ではなくてシカやタヌキの飛び出しである。
「いきなりのことですまないね」
運転席でハンドルを握る男が声を上げた。年齢は30過ぎと言ったところだろうか。突き出た腹をハンドルとシートの間の狭い空間に押し込んだ小太りの男は、汗をかきながらバックミラー越しに後部座席に目をやった。
「明日も学校はあるのだろう?」
男の問いに、少女はこくりとうなずいた。
後部座席には一人の少女が座っている。年のころは中学生くらい、ゆるく巻いた栗色の髪に、透き通るような白い肌。細長い手足を惜しげもなく晒した少女の日本人離れした容姿は、男に彼女の父親のことを思い起こさせた。と言っても、男が彼女の父親について詳しく知っているわけではない。それどころか男は(そして彼女自身も)彼女の父親の顔を見たことすらなかった。
ただ彼女の母から聞いた話によると、彼女の父親はアメリカ人らしい。もちろんアメリカ人がすべて白人と言うわけではないがし、遺伝がそれほど絶対かというとそういうわけではないが、しかし――
男は自分の思考に沈んでいく。
男がぼんやりと自分の方を見ているのに気が付いて、少女は思わず声を上げた。
「吉田さん、前」
「え、前、わっ」
少女の声に運転席の男、吉田ははっと視線を戻した。目の前に白いガードレールが迫っている。吉田は慌ててハンドルを切った。車は車線をはみ出す大きく膨らんだカーブを描いて左に曲がった。対向車がいれば事故は免れなかっただろう。
「ちゃんと運転してよ」慌ててドアの手すりを握りしめた少女が唇を尖らせる。
「ごめん」
「よろしい」少女は尊大にうなずいた。それからすぐに表情を引き締めた少女は続けた。
「でも、本当に謝るべきは吉田さんじゃない。一番悪いのは母さんよ」
「川村さん?」
吉田は意味が分からないというように、2、3度目を瞬いた。
「どうしてだい?」
「だってこんな時間にこんな場所にわたしを呼び出したのは、母さんでしょ?」
「それはまあそうだが」
「それなら悪いのは母さん」
「そうかな」吉田が考え込む。それを見て、少女は憐れむような表情を浮かべて吉田を見た。
「吉田さんも大変ね。あのひとの無茶苦茶に振り回されて」
吉田は思わず苦笑いを浮かべた。
「川村さんは、マリちゃんが思ってる以上にすごい人だよ」
そういうあなたはきっと、人並み以上に我慢強い人だろうと後部座席に座った少女、川村マリは思った。
でなければ、あんな母親と一緒に仕事ができるはずがない。
マリが吉田と出会ったのは彼女がまだ幼かったころ、母に連れていかれた職場の懇親会でのことだった。テーブルの上の料理が取れずに困っているマリを助けてくれたのが吉田だったのだ。吉田は当時の母の学生で、今では母と一緒に仕事をしている。
母の名前は川村麻衣子という。麻衣子は地元の大学で物理学の教授をやっていた。
その母からマリに電話がかかってきたのはその日の午後、ちょうどマリが自分と中学1年生の妹のために食事を作り終えるころのことだった。
もしもしとマリが言い終わるより早く、電話の向こうの母は告げた。
緊急の用事がある。迎えを寄こしたから早く来てくれ、と。
だからマリは今、こうして吉田の車の中で座っている。
「で、この山の先に大学の研究施設があるの?」マリがもう一度吉田に確認すると、吉田は黙ってうなずいた。
マリはつい先ほど聞いた話を思い出す。
母からすぐに来いと言われたとき、マリはてっきり母の職場であるK市内のキャンパスに来いと言われたのだと思っていた。けれど迎えに来た吉田は市内には向かわずに市の南を走るバイパスに乗った。驚いたマリが一体自分をどこに連れていくのかと問うと、吉田は逆に驚いた。川村さんは何も言っていなかったのかい? と尋ねる吉田に、マリは首を横に振った。
麻衣子はただ早く来いとしか言わなかった。
「そうかそれはとても、なんというか、その川村さんらしい話だね。そうか、じゃあなんのために呼ばれたのかも知らないのかい?」
「ええ、緊急の用事があるとしか聞いてない。母さんの用事は何なの?」
「これは僕から言っていいのか……というかいまいちうまく説明する自信がないんだが、簡単に言うとだね」
吉田は慎重に言葉を選び告げた。
「会ってほしい人がいるんだよ」
「会ってほしい人?」
マリが頭に疑問符を浮かべる。人に会うことと緊急の用事という言葉がいまいち結びつかない。それに今いる場所を考えると、とても人に会うのに適した場所とは言い難い。
「それに探してほしい人も」
マリはますますわけがわからなくなった。
「ああ、そうそう、それでこれから向かう場所の名前だけど――」
吉田が言ったその施設の名前をマリが思い出すより先に、車は森を抜け、開けた場所に出た。
ヘッドライトの向こう側に赤茶けたレンガ造りの、豆腐みたいな四角い建物が見えた。
建物の窓にはまだ明かりがぽつぽつとついていた。
車は建物の玄関の目の前で止まった。自動ドアの横にその施設の名前が書いてあった。
「ついたよ、H山天文台にようこそ」
吉田の言った通り、そこにはK大学理学研究科H山天文台と、そう書かれていた。




