8 後日談
その後の私の記憶はぼんやりしている。必死で誰かにしがみついた。優しい言葉をかけてもらった。そういうことが途切れ途切れに浮かんでくる。
気がつくと私は毛布にくるまって横になっていた。そばに岡田奈々似の霊能者の彼女がいて、私を見るとほっとしたように微笑んだ。夢かと思ったが、どうもそうじゃないらしい。彼女が、どこかで見たことのある男に何度も礼を言い、タクシーに乗せて、私をアパートに連れて帰ってきた。翌日は昼の三時すぎまで寝ていた。目を覚ますと、彼女がいてくれた。
「この貸しは、高くつくわよ」
そう言う彼女を、私はぼんやりと見つめた。
「お口がなくなっちゃったみたいね。無理してしゃべらなくていいわ。いまはまだね」
彼女はそうして、昨夜から今日までの流れをひとりで話した。それによると、私を助けてくれたのは、同じ階の、私が事前に挨拶をしておいた男の住人だった。防犯ベルの音を聞きつけ、気が変になって泣いてばかりいる私をなだめなだめ自分の部屋に運び、寝かしつけてくれていた。言葉で言うのは簡単だが、かなり難儀したらしい。その間に私の携帯が鳴り、彼が出るとそれが彼女からだった。彼女は彼女で、メールを送ったものの返信がないので、心配して電話をしたのだった。そして彼から事情を聞いた彼女が、駆けつけてくれたわけだ。アパートに帰ってからの私も大変だったらしい。私は覚えていないのだが、横になったものの、何度も声を上げて起きては、彼女に迷惑をかけていた。
「その度に、怖い夢を見た子供みたいに泣くの」彼女は顔をしかめ、私の髪を撫でつけた。「それもやっと落ち着いたみたい。ひと安心ね」
左の手が包帯で巻かれていて、なにがあったのか咄嗟に思い出せなかったが、じっと見ているうちに自分で切ったのがわかった。私があの部屋に置きっぱなしにした私物などは、昼間のうちに『アブロイド』の編集補佐が取りにいってくれ、鍵も不動産屋に返してくれていた。
夜が近づくと、私は怖くてたまらなくなった。なにが怖いのか自分でもわからないのだが、とにかく夜が、夜の闇が恐ろしかった。一人でいるなどできやしない。誰かがいてくれないと震えが止まらない。そんな私を見ながら、彼女がおかゆを作ってくれた。明日彼女は仕事だし、昨夜の看病疲れもあるので今夜は帰ることになった。しかしおびえる私を一人にしておくわけにもいかず、補佐が私についてくれた。私にしてみれば、一緒にいてくれさえすれば誰でもよかった。その夜は、二度悪夢で目を覚ました。血の涙を流しながら、骨と皮のミイラに変貌していく子供たちが、つぎつぎと私に群がってくる夢だった。子供たちは、悪臭のする、干からび、変色した腕を伸ばして私にすがりつこうとしていた。金切り声を上げて目を覚ます私に、補佐は目をむいて驚いていた。それでも、それなりに責任を感じているらしく、恐怖で汗びっしょりの私の身体をタオルで拭いたりと、かいがいしく世話をしてくれた。二度目の際には、私は失禁すらしてしまっていた。
つぎの日、彼女と補佐が相談し、私が落ち着くまで、兄の家のほうに私を預けることに話が決まった。連絡を受けた兄が迎えにき、私は、母親のいる兄の家にやっかいになることになった。そこには家庭があった。母を目にすると、私はたまらなくなってしがみついた。そんな子供に戻ったみたいな私を、母は、戸惑いとくすぐったさが入り混じったような笑みで受け止めた。七十すぎの母に、四十の私は甘えた。母に会うことで気が抜けたのか、私は原因不明の熱を発し、それから三日寝込んだ。熱が引くと、それが幸いしたかのように、私は気持ちも体調もすっきりし、常態に戻りつつあった。
そうやって療養につとめ、兄の家にきて五日目ごろには、ほとんど私は自分を取り戻していた。悪夢は相変わらず続いているが、恐ろしさで目を覚ますようなことはなくなっていた。七日目に近くのファミレスで彼女と会い、そこで初めて、取り乱すことなく、あの夜あの部屋で私が体験したことを彼女に話すことができた。話を聞いた彼女は、
「大丈夫だと思うけど。念のために除霊しとく?」
コーヒーを飲みながら、ごく日常会話のような感じで提案し、翌日の夜に、彼女に連れられて、彼女の知り合いの高レベルの霊能者を訪ねた。霊能者は私を見つめ、それから表情を柔らかくした。
「悪いもんや霊が憑いていることはありません。その点でのご心配は無用です。お話をお聞きしたところ、心霊体験による精神的傷害があるようですけど、それは傷みたいなもんですから、それがある程度、後遺症みたいに残るのは仕方ないでしょう。ま、そこんところは自然治癒力とやらに任すしかありませんね」
そして、除霊というより霊障を癒しておきましょうと、簡単なお祓いみたいなものをしてくれた。
帰り道で、私は改めて彼女に礼を述べた。ほんとうに感謝していた。しかし私の悪い癖は、そんな際にも一言多いことである。私は言った。
「もしかして、少し俺に気があるのかい?」
彼女は、右手の人差し指を私の胸に突き立てた。
「二度とそんなことを口にしたら、あなたのその口を針と糸で縫いつけてやるわよ。この貸しは、一生かかっても返してもらうから、そのつもりでいてよね。タダのわけないじゃない」頬をふくらませて憤慨し、肩で大きく息を吐いた。「そんなバカなことが言えるようになったのなら、もうオーケイね」
彼女は笑んだ。
十日目になって、私は兄の家からアパートに戻ることにした。「遠慮せず、まだ居てもいいんだぞ。お袋も心配しているし」。そう言ってくれる兄に私は感謝し、それでも帰るつもりであるのを告げた。これ以上迷惑をかけたくないという気持ちもあったが、同時に、居ずらさを感じ始めてもいた。家庭は私を落ち着かなくさせる。それが私の性分だった。自分が困ったときは頼り、そうでなくなるとすぐに立ち去ろうとする。私は、嫌になるほど身勝手な人間である。
アパートに戻り一息つくと、私はさっそく記事をまとめだした。思った以上に手強い作業だった。まず思い出すままに私の体験を、箇条書きに、順序や整合性など気にせずに、手書きで文章に置き換えるのだが、それには苦痛がともなった。早い話が思い出したくないものを、思い出そうとしているからだ。霊能者が指摘した精神的な後遺症は、思いのほかに根深いものがあった。一度など、あの部屋の腐った臭いが鼻腔に甦り、トイレに駆け込んだ私は、便器に顔を突っ込んで、その日に食べたものをありったけ嘔吐したほどだ。ちょっとした物音に神経を尖らせたり、子供の声や足音が聞こえたような気がするのは度々だった。夜になるのは、相変わらず怖い。むやみに不安になる。ただそれも、自分で制御できないほどではなくなっていた。睡眠導入剤を服用して夜は早めに床につき、朝焼けとともに一日を始めるという、自分でも信じられない朝方の生活に変えてもいた。
あの時の写真は全部で九枚あった。フレーミングもアングルもあったものでなく、ただの空き部屋が意味なく写っているものばかりだった。一枚だけ、見ようによってはそれっぽく見えないこともない、怪しげな光をとらえているものがあるにはあった。火の玉みたいな形の光で、それがリビングの右端に、垂直というか、突っ立っているように見える。大きさは、かなり小さい。言われなかったら気づかないぐらいだ。
レコーダーのほうは、私の悲鳴や大騒ぎする音はしっかり録音されていたが、子供たちの声や足音は、いくら再生しても私には確認できなかった。専門家に預け、音を細部まで分析してもらえばなにか見つかるかもしれない。それなりの手間と予算がかかるだろうから、それは『アブロイド』次第ということになる。
そこまで終わらせるのに丸三日を要した。その後、二日ほど作業を中断した。その間に、バイト先のコンビニと宅配便にいき、休んだことを謝り、また使ってもらえるよう頼んだ。あと、借りてきたDVDを見たり、本を読んだりしてすごした。
二日の冷却期間を経て、私はふたたび記事に取り組んだ。作っておいた体験文を元にして、ひとまとまりの、整った文章を作成していく作業だ。自分の体験を、他人になって見直すような感じだ。体験文作りで苦労したぶん、わりと作業はスムーズに進んだ。ここにきて私は、ようやく自分の体験を客観的に捉えることができるようになった。それは、これから先の私のためにも必要なことであった。
そんなこんなで私は記事を完成させた。補佐から手直しを言われるだろうが、とりあえず完成は完成である。たかが心霊ものの記事に、すごく時間がかかっていた。カメどころかカタツムリなみのスローテンポだ。ガチの心霊ものは、手間と時間がかかりすぎて割に合わないと、つくづく思い知らされた。おまけに、精神的後遺症まであるのだ。補佐が今回の件にはえらくはりきっていて、私の体験記事とはべつに、検証記事をいくつかのせ、霊能者による霊視記事も掲載しての、特集を組むらしい。読者の反応や売り上げによっては、特別手当を出すからいい記事を書いてくれと私は言われていた。だから、私もそれなりに頑張っていた。
コピーを三部とり、原文を「アブロイド」に渡し、コピーの一部を持参して、私は家主を訪ねた。あの部屋で私が体験したことを、直接話す約束だった。
「不動産屋から少し聞いたが、大変な目にあったらしいな」
前回と同じ黄色のスエットの上下の家主は、目に愉快そうな色を浮かべた。今回私は客扱いで、お茶を出してもらえたなら、籠に菓子パンを盛ったものも出された。
記事のコピーを差し出し、それとはべつに、私が体験したことをつまびらかに話した。
「なるほど。俺ん時となんも変わっとらん。そうか、あの子らはやはり、あのまま同じようにしとるわけか。細かいとこでは違うところもあるが、大筋では、あんたが体験したことと俺も同じやった」話を聞いた家主は、顎に手をかけてうなずき「あんたもご苦労やったな」と笑った。
経験した者でないとわからないみたいな、同じ心霊体験をした者同士の、妙な連帯感があった。
「それにしても、四年経っても同じままと思うとつらいもんがある。そう思わんかい。しかしどんなに不憫に思っても、俺たちにはなんもしてやれん」
私は家主に聞いてみたいことがあった。
「その四年の間、一度として、祈祷師なり霊能者に頼んで、あの部屋を浄霊しようとか思われなかったのですか。ご自分で体験されていますし、霊の存在を疑われているわけではないですよね」
「あんたの言うように、浄霊せないかんという話はあった。幽霊がおるんやから、当然や。ただなあ。浄霊したからいうて、あん子らは成仏できるんやろうか。それに、たとえ成仏できたとしても、じゃあ、あの子らはそのあとどうすればいい。行き場はあるんかい。あっちに行っても、あっちには親も誰もおらんやろう。そう思うと、なんやら気持ちがしるしうなって、年端のいかん子供を、だいの大人が追い出すみたいで。だけん、それなら俺が引き受けちゃらな、しょんなかとなったわけよ、誰にも貸さず、浄霊もせんであのままにしとる。経営者としては失格やがな」
「それじゃあ、ずっとこのままにしておくつもりですか」
家主は鼻梁を縮め、顔の表情を一度、中央に寄せるようにした。
「そういうわけやない。あんたがどう思うか知らんが、あん子らを、あの部屋から出せて救うことができるのは、呪い師や祈祷師やなくて、あん子らの母親だけや。ああやって、あん子らはあそこでずうっと母親が帰ってくるのを待っとる。恨みもせんと、帰ってくることを疑ごうこともなく、ずうっとや。その気持ちを、俺は叶えてやりたいんよ。あん子らはそれしか救えん。そればっかは俺たちもできん、母親しかできん。何年かかるかわからんが、あの女が出てきたら、首に縄つけても俺はあの部屋に引っ張っていくつもりや。それが、子供を産んだ女のけじめや。それは通さんとな。そうせんと浮かばれん。それなら俺もしてやれるしな。――なんか言いたそうな顔やな」
私は言った。
「見かけによらずいい人だと思ってですね」
「やかましか。ほっとかんかい」家主は破顔した。「あんた、あの部屋でもう一度夜をすごす気はあるかい?」
「二度とごめんですね」
母親に見放された子供の悲しみや怖さを身に受けたり、それを前になにもできない思いをするなんて、金輪際もうしたくなかった。
「そうよな。俺もごめんだ。恥ずかしい話やけど、あれ以来、いまでも年に二、三度夢にうなされる夜がある。子供みたいにな。悲しゅうて恐ろしゅうて、おびえて泣いているわ。あんたも同じやろうけん覚悟しといたがいい。完全には忘れられん。この先も、それはずっと続いていて、思い出したように夢に出てくる」
家主はそう言うと、目を伏せてため息をついた。
それからひと月ほど経って、刷り上った『アブロイド 34号』を持って、私は不動産屋を訪ねた。『アブロイド』は不定期刊行で、三十四番目の号ということだ。不動産屋は鍵を預かった日以来、一度も訪れたことがなかった。記事が掲載された『アブロイド』が出来上がってからがいいだろうと、今日までのびのびになってしまっていた。
挨拶というかお礼というか、そういうのをすませてないところとして、あと、あの夜の私を助けてくれた三階の男の住人が残っていた。行かなくてはいけないと思っているのだが、まだ私は、昼間といえども、あのマンションへ行くことができないでいた。怖いのだ。男に会いに行くには、もう少し時間がかかりそうだった。
不動産屋では、初日に訪れた際の男性社員が対応してくれた。手にして、おざなりにページをペラペラとめくる。
「へええ、こんな雑誌なんですね。あとでじっくり読ませてもらいます」
『アブロイド』よりも、手土産にと、駅前で買ったドーナツのほうが喜ばれているみたいだ。
店内を見渡すと、やはり今日も休みなのか、話を聞かせてくれた彼女の姿はなかった。秘密にと言われていたものの残念な気がし、それとなく男性社員に尋ねると、彼は妙な表情をした。
「女子社員で今日休みの者はいませんけど。それといま全員ここにいますし、そのような女性はうちにはいないはずですよ」
私は呆気にとられた。
「初めてここに来た時、コーヒーを出してくれた女性のことですが」
「え? コーヒーはお断りになったので、お出ししませんでしたけど」
言葉につまり、つぎの瞬間私は――大げさに相好をくずした。
「あああ、そうでしたね。わ、私が誤解していたみたいです」
腑に落ちなさそうな男性社員に礼をもう一度述べて、私は慌ただしく不動産屋をあとにした。外は昼の光があふれている。
心霊関係の取材をしていると、説明のつかない現象に出会うことなど日常茶飯事のことだ。そういう時は、深追いせずそうっとしておくことだ。
そう、深追いは禁物だ。
<了>
この小説はこれで完結です。
残りの一話は、関連してはいますがべつもので、それでお願いします。




