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7 三階の部屋

 数時間が経過していた。私はひとりでダイニングルームにいた。なにも変化はない。ランタンが照らす部屋の周辺は暗く、洋間には闇が落ちていた。静かだった。ひっそりと静まり返っている。洋間のほうに体の正面を向け、背中を壁にもたせかけた姿勢で私は座っていた。カーテンをつけていない窓から夜光が差し込んでいるので真っ暗というわけではないが、洋間は闇で覆われている。

「午後九時三十三分。室温は二十二度。依然としてなにも変わった様子はない。二百十二ページまで読む」

 スイッチを入れっぱなしのレコーダーにそう吹き込む。もちろんどこからも返事はない。ひとりで言葉を発し、ひとりで聞いている。

 八時すぎにコンビニ弁当での食事をすませていた。することがないので、ランタンの明かりでずっと本を読んでいる。なかなか先が進まない。面白くないわけではなく、集中できないのだ。物音がするわけでもない。気配みたいなものも感じない。実際にこれからなにか起こるのか、それもわからない。が、私はずっと緊張していた。いつなんどき、なにか起こるかもしれないと気が張りつめていた。それが続いている。


 ……レコーダーでの記録を始めて、あと十五分ほどで五時間になろうとしていた。もうすぐ零時だ。時間が経過するにつれ、まわりが気になって仕方がなかった。なにもおかしな点はない。それはわかっている。が、闇が濃くなり、私の気づかないうちに徐々に広がっているような気がしてならない。もちろん気のせいだ。懐中電灯を照射する。光の線が走り、出現した丸く縁取られた光を、私は動かしていく。最前から何度もこれを繰り返していた。洋間からダイニングへと、壁を這わすようにゆっくりと光を移動させる。丸い光が、怪しいものを照らしだすことはない。同じことだ。同じことを、わかっていながら何度も繰り返している。

 確認し終わって懐中電灯を切ると、闇がいっそう濃さを増したように見えた。それまであった光が消えたせいで、そう見えるのだろう。異変はなにもない。私がいるだけだ。恐れるようなものはなにもない。私は洋間の闇をじっと見つめた。


 マーリアは、十月末に、おにぎり四個とジュース四本、それに菓子パン二個を、子供たちに与えたのを最後に、玄関に通じるドアを粘着テープで塞いで……その後知人の家を転々としていた。一度も戻ることなく……臭いがするとの通報で緊急隊員が部屋に入ったのは十二月二日のことである。室内は、空になったカップ麺の容器、スナック菓子の袋、ペットボトルの空容器、スーパー、コンビニのビニール袋などで、足の踏み場がないほどの乱雑さを呈し、悪臭に満ちていた。ドアが塞がれてトイレにもいけない状態だったために、浴室や流し台に排泄の跡があり……ベランダに通じる窓が数センチ開いていたが……ゴミが山のように積まれ、三歳の子供の力では……できなければ、助けを求めることも困難であった。死因は餓死とされた。実の母親に一か月以上も閉じ込められ、放置されての死であった。


 ――その部屋に、いま私はいた。


 四年前、ここで二人の子供が悲惨な死を迎えた。泊まり込んだ三人の男たちは、逃げ出していた。不動産屋の女は言った。あの部屋は、以前のままなにも変わっていません。家主は言った。やめといたがいい。悪いことは言わんから、あそこに泊まろうなんて思わんがいい。思わんがいい、思わんがいい、思わんがいい。

 さむけがし、唐突に、自分が取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという念がわいた。ここは、二人の幼い子供が、一ヶ月以上も閉じ込められ、飢えと衰弱で死を迎えた部屋なのだ。普通じゃないのだ!

 冷たい手で胃袋をぎゅっとつかまれ、私は瞼を閉じてそれに耐えた。ランタンの明かりの届かない向こうでは闇がうずくまっている。なにかが起き上がり、それが私のほうへそろりと近づいてくる。いや、なにも起こってはいない。恐れるものはなにもない。

 緊張が長く続いているせいで、首や肩がこわばっている。本を枕に、少しばかり横になろう。厚手の本を選んだのは、そのためだった。休息を私は必要としていた。毛布を体にかけて横になった。寝入るつもりはなかったが、身体を横にすると、そうなってもかまわないように思えた。このまま眠ってしまい、なにごともなく朝を迎えれたらどんなに幸せだろう。

 ドンッ。

 私の眠気は一瞬にして消え去った。髪が逆立ち、神経が尖がった。ドンッ。またしても音がし、私は毛布をはねのけ上体を起こした。聞き違いではない。洋間のほうからだった。ドンッ。窓だ。鳥が窓にぶつかったのだろうか。ドンッ。響き渡る。鈍い音だ。なにかが窓を叩いている。出ようとしている。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンドンドンドンドン……。

 音が激しく小刻みになり――そしてぴたりとやんだ。

 私はじっとしていた。身動きもできずに、耳をすまし、目を見開き、息をひそめていた。空気が張り詰めたように、あたりは静まり返っている。

 間が生じた。いまのが嘘だったみたいに、なにも起こらない。

 ゆっくりと首を動かして、温度計を見た。五度ほど室温が下がっていた。急激な温度変化は心霊現象のひとつとされている。逃げたほうがいいのか。私は考えた。

 と、洋間から、ピタピタと小さな足音がした。ピタピタピタピタ。せわしない足音は洋間から抜け出し、ダイニングルームをさまよい始めた。音は聞こえるものの、私の目にはなにも映らない。ピタピタピタ、ピタピタピタ。苛立ち混じりの泣き声が聞こえ、いきなり、タタッタタと子供がたどたどしく駆けるような足音が別な方向から湧き上がった。二人いた。音は二人だった。それは次第に大きくなり、私はたまらずうめき声を上げた。

 両手で口を押さえたがおそかった。足音がやみ、まるで、そこにいるなにかが、私がいることに気がついたかのようだった。見えないなにかが、私のほうを見つめていた。

「だああれ」

 幼い声が私に問いかけてきた。なにもないところから、声だけが、浮いたようにする。それは生きているものの声色ではなかった。

 限界だった。それでも仕事意識が働いたのか、私はカメラを手にすると、立ち上がり、やみくもにあたりに向かってシャッターを切った。数度にわたりフラッシュの閃光が闇を照らす。そして急にカメラは動かなくなった。シャッターも切れないなら、うんともすんともいわなくなった。不意に、電池切れしたみたいにランタンの明かりが消え、あたりが闇に呑まれる。異臭が湧き出した。腐敗したゴミの臭い。糞便の臭いが混じっている。死臭もする。あまりの不快さに、胃がでんぐり返り、私はくの字に体を折ってその場に膝から崩れ落ちた。とうにカメラは、私の手からどこかへいっていた。強烈な吐き気がし、喉元まできたものを、私はなんとか押しとどめた。口中が酸っぱくなり、鼻がちぎれそうな悪臭はそのままだった。足音がし、ゴミを掻き分けるようにカサカサガサガサし、壁を打つ音がし、カタコトの子供の声と泣き声が聞こえてくる。少しは闇に慣れてきたはずの私の目には、依然としてなにも映らない。目に見えない、やせ細った、冷たく小さな二対の手と腕が、後ろと前から私の首にからみついてき、私はぞぞっと恐怖に襲われた。

 私がいまいるのは、二人の子供がひと月以上閉じ込められた部屋だった。その思いが充満した部屋だった。子供たちの遺体は、毛布につつまれ、骨と皮だけのミイラ化した状態だった。二体の小さなミイラは、互いを抱き合うように、折り重なるようにしていた。

 逃げないといけないと思いながらそれができないでいた。二人の子供の霊がすがりついてくる。悲鳴を上げ、頬をよせてくる。腐った臭いと甘い乳の臭いがする。眉間とうなじに、鋭い痛みが走った。うなじの毛がびりびりと震えた。そして、どっと思いが私の中に流れ込んできた。私はおびえていた。母親が帰ってこなくて、どうしていいのかと不安だった。恐怖、どうしようもない恐怖。ママはどこにいったの。どうして戻ってこないの。外に出れない。トイレにもいけない。ママ、ママ、ママ、ママママママ……。私は泣き出していた。怖くてたまらなかった。怖くて怖くて、つぶれそうだった。悲しくて、死にそうだった。私はあまりに小さすぎた。ママが戻ってこないと二人ともなにもできない。空腹があった。飢えがあった。寒い、とても寒い。からだが冷たくなってくる。ママ、ママ、ママ、ママ……。早く帰ってきて、早く。ママに会いたい、ママに。ママ、ママ、ママ……。ママに会いたい。ママに会いたい。ママ、ママ、ママ、ママ、ママ、マママママママママ……。

 悪臭のこもるゴミの山の部屋で、両膝を抱え、胎児のように丸くなって私は泣きじゃくっていた。悲しかった。ママがいなくて、ただひたすら怖かった。ママに会いたい。私にはそれしかなかった。体が冷たくなってきている。ずっとなにも食べていないので、体温が失われていく。寒い、内側からのどうしようもない寒さだ。毛布を何枚重ねてもどうしようもない寒さだ。だから、ママ早く帰ってきて。いい子でいるから帰ってきて。ママに会いたい、会いたい。ママ……。ママ……。意識がかすんでいく。このまま、ママを待っている。ずっと、ずうっと。

 闇の中で音がした。上着の内ポケットの携帯の、メールの着信音だ。なに? 携帯? 寝ちゃいけないので、零時すぎごろにでもメールをくれるように、彼女に返信メールで頼んでおいた。運よく、それが私を正気に返らせた。まず恐怖があり、次にすぐにここから逃げなくてはいけないと悟った。私は素早く動いた。左のポケットに入れていた棒つきキャンディーを、床にばらまく。瞬間なにかが私から離れるのを、感じることができた。暗闇の中、私は、玄関へ通じるドア目指してダッシュした。はっきりと見えないが、この闇でも位置や方向は判別できる。そして、必死の思いでドアのレバーを握った私は、とんでもないことになっていることに気づいた。レバーが動かない。レバーはあちら側で固定されていた。出れないようになっていた。絶望が私に襲いかかった。力任せにしても、レバーがガチャガチャ音を立てるだけで、ドアは開こうとしない。拳で叩き、助けを呼ぶが誰も助けにはきてくれない。出れなくなった子供たちと同じ状況だった。こうして、子供たちは死んでいったのだ。アアと私は声を出して、その場に泣き崩れた。こうやって死んでいったんだ。それがわかるのはたまらなかった。恐怖と悲しみで私は気が変になりそうだった。頭髪を掻きむしり、床を両手で叩きながら泣き喚いた。私は無力な子供だった。心が張り裂けんばかりに、母親を欲していた。その胸に抱かれ、そのぬくもりに触れ、笑顔に見守られたかった。それ以外なにも欲しくはなかった。母に会いたい、ただそれだけだった。

 私の背後でなにかが動くのが、見ずともわかった。それが、冷たい両手を伸ばして近づいてくる。それは、私にすがり、私に助けてもらおうとしていた。悲しいものだった。母親に放置され、救いようのない悲しみを抱えていた。私は恐怖した。その悲しみに触れるのは恐怖以外のなにものでもなかった。同情はできる、しかしその悲しみを共有するのは、想像しただけで恐ろしいことだった。喉の奥で悲鳴が出そうになり、開いた口に拳を押し込んだ。拳に歯が立ち、彼女が頭の中で声を上げた。

 ――カッター。

 そうだ。憑かれそうになったら、カッターを使えと彼女がアドバイスしてくれたじゃないか。胸ポケットにカッターを用意してきた。いまがそれを使う時だ。私はカッターを取り出すと、それを右手に持ち、闇の中で、開いた左手の掌を切りつけた。痛みが走った。それが私を現実の世界に呼び戻した。切った掌を握りしめると、痛みが増悪した。掌の中を血が流れるのがわかる。そう、私は生きている。この痛みこそ本物だ。悪臭がふっとしなくなった。背後の気配も弱まった。落ち着け、落ち着け。冷静に考えろ。わ、私は、私は、いま……この部屋に閉じ込められて、ドアが開かないから――。そんなはずがあるか。たんなる思い込みだ。私は、頭の中で自分自身に叫んだ。


 最初からドアは閉まってはいない。ノブはいつでも動く。


 私は立ち上がると、右手でノブを掴んだ。頭の中で言葉を念じた。また臭いが立ち込めだし、なにかが追いすがろうとする。

「ノブは動く、ドアは開く!」

 そう大声を出して、私はノブを動かした。ドアが開き、私はすべるようにしてそこから飛び出ると、急いでドアを閉じた。間一髪。向こう側でドアを叩く音がした。ここから出してくれと、それは言っていた。出して、出して。泣き声がする。聞いていられないほどに悲しい声だ。

 助かったと思った。安堵すると同時に、ずるずるとドアにもたれかかったまましゃがみ込み、両手で顔を覆って私は嗚咽した。やり切れなかった。助かってホッとしていながら、なにもできずに、なにもしてやれない自分がいた。私に子供たちを救うことはできなかった。私はあの子たちを見放したのだ。ドアはまだ叩かれている。向こう側から、子供たちの霊が悲しい声を上げている。出して、出して。聞くのがつらかった。しかし私にはなにもできない。声を聞いてやることすら、堪えがたかった。あの子供たちを救えるのは、母親である那珂里マーリア以外に誰もいない。いまの私にできることは、耳を塞いで、そこから逃げ出すことだけだった。私はそうした。そうやって逃げた。

 部屋を飛び出して通路に出た私はそのまま座り込んだ。声は、もう追ってはこない。このあとどうしたらいいのか、さっぱりわからない。なにをしたいのかもわからない。さめざめと私は泣き出していた。母親を待ちわびる子供特有の悲しみが心を覆い、そんな子供を救ってやれない大人の悲しみがあった。私は子供であり、大人だった。大人であっても子供であっても、助けてもらいたい時がある。私はぼろぼろで、ただただ救いが欲しかった。防犯ベルを取り出して、ピンを引き抜いた。耳障りな大音響がし、こりゃ迷惑もいいとこだと頭の隅で思い、そのまま通路に横になった。涙は止まらず、泣いていた。怖かった。

 そして誰かそばにいて欲しかった。


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