6 事件
翌日は、資料漁りと準備に費やした。これまでの情報を整理しまとめたりした。それらを読み返しては考えた。
その後不動産屋に出向き、部屋の鍵を預かる。家主が電話を入れてくれていたので、ことはスムーズに運んだ。鍵を手にする時、私は少しためらいをおぼえた。泊まり込むにあたっての、いくつか注意を受け、くれぐれもほかの住民には迷惑をかけないように言われた。先日私を接客した男の社員に謝罪すると、妙だなとは思っていましたと、彼は苦笑いを浮かべた。話を聞かせてくれた女子社員の姿は、休みなのか見えなかったので、そのまま店を出た。
『アブロイド』にいって、明日泊まり込むつもりであるのを伝えておいた。同行する気はないかと言うと、大きな声を立てて笑い、背中をバンバン叩かれた。
そして私はいま、マンションの入り口にいた。入るのは初めてだった。土曜の午前中である。今夜に備え、中の下見をしておくつもりだった。
エレベーターに乗り、三階のボタンを押した。
扉が開き、通路に沿って四つ部屋が一列に並び、正面に非常口が見えた。階段はエレベーターの近くだ。壁面の色はクリーム色、ドアは白で塗られ、天井は高い。一番奥の部屋が事件現場だ。
エレベーターを降り、私はとりあえず、その部屋の前までいってみた。白い鉄製のドアをじっと見た。ここであの事件があったのだ。そう思うと胸がふさいでしまう。
顔を上げた私は、気を取り直して一部屋おいた部屋のチャイムを鳴らした。間をおいてもう一度鳴らしたが、留守らしく反応はない。つぎに、その隣の、もっともエレベータと階段に近い部屋のチャイムを鳴らす。三階の入居者は、いまの部屋とこの部屋の二つのはずだった。
ドアが開いて、三十歳くらいの男が出てきた。紺色の室内着で、メガネをかけた顔に、休日らしく無精髭が伸びている。真面目そうで、見た目は、学校の先生か大学の助手という感じのタイプだった。
私は名刺を渡し、取材のために今夜あの部屋に泊まることを伝えた。菓子箱を差し出して、迷惑をかけるかもしれませんとしておいた。
男は曖昧に笑み、入居したのは半年前で、事件があったのは知っているが、直接知っているわけではないと言った。奥の部屋でなにかあるんですかと私に尋ね、幽霊のことは知らないようだった。それには答えず、隣の部屋のことを聞くと、外国人の方が三人ほどで住んでいて、気にすることはないと思いますよ、自分もおつき合いはありませんと教えた。
「わざわざこんなものいただいて申しわけありません」
男は菓子箱の礼を述べ、軽く頭を下げ、室内に戻った。
挨拶をすませた私は、覚悟を決めて再び問題の部屋のドアの前に戻った。いよいよ中に入る時だった。
まず手を合わせて黙祷する。それから鍵を差し込んで解錠し、レバー型のノブでドアを開いた。室内にこもった空気が私の両側から外に流れ出し、広めの靴脱ぎ場が現れ、左手に折れるようになっていた。そこに立つと、半畳ほどの通路があり、右側にトイレがあって、正面に中へと続くドアがあった。
問題となったドアだった。事件当時ドアは、玄関側から粘着テープで塞がれ、開閉ができないようになっていた。レバーも、動かないようにテープで固定されていた。
靴を脱いで上がり、塞がれていたドアから、私は、四年前に那加里マーリアと二人の子供たちが住んでいた部屋へと足を踏み入れた。
八畳ほどのダイニングキッチンがあって、その奥に洋間がある。1DKで、脱衣場と風呂はキッチン側に面していた。生活家具がないせいで、がらんとして見える。ダイニングに、低い、小さな折り畳み式のテーブルがあった。白い布が敷かれ、ろうそくと線香立てがその上に置かれていた。テーブルのそばには、造花、キャンディの袋と缶入りドロップなどの菓子、絵本と、スケッチブックにクレヨン、掌サイズのビニールボールに、女の子用の人形と怪獣のぬいぐるみ、それに赤いランドセルがあった。三歳だった長女は、生きていれば去年小学校に入学する年齢に達していた。
洋間にいき、窓辺に立って外を眺めた。数日前私が下から見た窓だった。上からだと、平穏な街の風景が見える。窓を開けて空気を入れ替えた。外の音が飛び込んでくる。ベランダには出ず、洋間の中央に立って床を眺めた。ゴミひとつ落ちていない、ただの床がそこにあるだけだった。子供たちの遺体は、この洋間で発見されていた。
顔を上げて部屋全体を改めて眺めてみるが、事件があったのを示すようなものは、線香と供え物を除けばなにもない。
四年前、三階のこの部屋で、二十四歳の那加里マーリアは、三歳の長女と二歳の長男を一か月以上放置したあげく死に至らしめていた。
マーリアは、十月末に、おにぎり四個とジュース四本、それに菓子パン二個を、子供たちに与えたのを最後に、玄関に通じるドアを粘着テープで塞いで外に出られないようにし、その後知人の家を転々としていた。一度も戻ることなく、人には、子供は預かってもらっていると話していた。その後、臭いがするとの通報で緊急隊員が部屋に入ったのは十二月二日のことである。室内は、空になったカップ麺の容器、スナック菓子の袋、ペットボトルの空容器、スーパー、コンビニのビニール袋などで、足の踏み場がないほどの乱雑さを呈し、悪臭に満ちていた。ドアが塞がれてトイレにもいけない状態だったために、浴室や流し台に排泄の跡があり、冷蔵庫は空っぽで、壁には手形と思える汚れがいたるところに付着していた。ベランダに通じる窓が数センチ開いていたが、当時のベランダは不燃物のゴミが山のように積まれ、三歳の子供の力では、それ以上開くこともできなければ、助けを求めることも困難であった。死因は餓死とされた。実の母親に一か月以上も閉じ込められ、放置されての死であった。
逮捕されたマーリアは、ドアを粘着テープで塞いだことから殺意があったと見なされ、裁判で二十年の実刑判決を言い渡された。あってはならない事件だった。ネグレクト、育児放棄ではすますことのできない事件だった。そして
――この部屋には、いまもその子供たちがいるという。
私には、社会的側面から事件に関して述べるような資格はない。どうしてそんな悲劇がおこったのか。どうすれば子供たちは救えたのか。それは、私には手に余る事柄だった。私はえらい人間ではない。三流以下のライターだ。そこはわきまえている。誰も責めることもできないなら、救済することもできない。ただ私にできるのは、この部屋にいるとされる子供たちの幽霊を記事にすることだけだった。それが私の仕事だった。やるせない気持ちを、そうやって投げつけることぐらいしか私にはできないのだ。
窓から室内へ風が流れ込んできた。風は部屋を舞い、淀んだ空気を一掃するかのようだった。気持ちを解き放ち、いつでもそこから出ることを可能にした。
メールの着信音が鳴り響き、携帯を取り出すと霊能者の彼女からのメールだった。今夜泊まる旨のメールを、私は彼女に送っていた。『好きにすれば』とあり、数行空けて『気をつけて』とあるのを読んで、私は少し考えてから、再度メールを送信して携帯をしまった。
風呂場や脱衣場などをデジタルカメラで撮影しながら一通り見て、私は洋間の窓を閉め、部屋を退出した。いまのところ不穏なものはなにも感じなかった。部屋には、お札一枚すら貼られていない。腕時計を見ると、午前十時を十分ほどすぎていた。
アパートで仮眠をとり、シャワーと軽い食事をすませ、準備をして、その日の五時すぎに私はふたたび部屋に入った。日はまだ暮れておらず、日のあるうちにやるべきことをしておかなくてはいけなかった。部屋の電気は使えないのだ。
最初に線香に火をつけて手を合わせると、内部を再度確認してまわった。午前中に私が訪れた時となにも変わった様子はなく、事件当時開閉できなくされていた、玄関とトイレに通じるドアの、玄関側のほうに盛り塩をする。それから床に座り込み、カバンから道具を出した。懐中電灯が二つと、乾電池式のランタン。懐中電灯を二つ用意しているのは、こういう心霊スポットではなぜか点灯しなくなることがよくあるので、その用心のためだ。ランタンが今夜の光源の主体で、懐中電灯は、ランタンでは光の届かないところを見るためのものだ。録音用の小型のレコーダーと、同じく小型のカメラに室内温度計。カメラはデジタルでなく、フイルムを使うものだ。銀塩タイプのほうが霊が写りやすい。温度計はランタンのそばに置く。温度変化は、霊の出現を示す目安となるので、すぐに、いつでも見られるようにしておく必要があった。護符やお守りなどは用意しておらず、塩と誕生石を入れたヒモつきの袋を首から下げた。このへんの按配が難しい。身を守りすぎてもいけないし、かといって完全な無防備というのも不安になる。それで護符などはやめ、塩と誕生石だけにしておいた。それぐらいの防備は私にも許されるだろう。棒付きキャンディーを数本上衣の左のポケットに入れ、防犯ブザーを右ポケットに入れておく。それらは、万一の用心のためだった。胸ポケットにカッターナイフも忍ばせた。あとは、コンビニ弁当とサンドイッチに、スナック菓子とチョコレートバー、濃いめのコーヒーを入れたポットに仁丹、厚手の小説本と薄手の毛布に筆記用具とノートというのが、私の今夜の装備だった。長い夜になる可能性があったが、できるだけ喫煙はしないつもりだ。菓子と仁丹はそのためで、本は退屈をまぎらわすためだ。
いまのうちに一本だけ吸っておくかと、私はタバコに火をつけた。吸うまいとしておきながらつい手を伸ばす、それが私の悪いとこだ。夕闇がたちこめた部屋を紫煙が立ちのぼる。平然をよそおいながらも、ほんとうのところ私は怖がっていた。不動産屋で鍵を受け取る際に、一瞬ためらいをおぼえたのは恐怖心からだった。
タバコを消し、ランタンを灯した。暖色系の光源が私をやや安堵させた。レコーダーのスイッチを入れて記録する。広範囲の音を拾える、マイクの必要のないタイプのものだ。
「×月×日土曜日、現在午後六時二十分。室温は、二十三度――――」