5 家主との対話
応接室に通されて七、八分待たされてから、黄色のスエットの上下を着た、五十前後に見える背の高い男が、菓子パンを食べながら入ってきた。一八〇は越えているだろう。痩せてみえるが、スエットの下で筋肉が引きしまっているのがうかがえた。
男は、立ち上がった私に座るように顎先でうながし、正面のソファにどさりと腰をおろした。さきほどの女が入ってきて、男の前に緑茶の入ったマグカップを置いて立ち去った。
私にお茶が出されることはないようだった。
話しかけようとした私を、パンを食べ終わるまで待てないのかという目つきで、男は諌めた。体に比べて頭が小さかった。薄い唇の下の歯が、すべて糸切り歯みたいな印象の顔つきをしていた。強面というより残忍そうだった。それが年齢とともに、いくぶん丸くなったような顔だった。鼻が高く、頬はこけていた。
家主がパンを食べ終え、緑茶をひと口飲んだところで、私は持参した菓子箱と名刺を差し出した。
家主は菓子箱をソファの脇に放ると、私の名刺をじっと見つめた。
「あんた家族は?」
独り者であるのを告げると、家主は鼻で笑った。
「パンがお好きなんですか」
そう言うと、家主は名刺から、面白そうに私へと視線を移した。
「子供みたいに菓子パンが好物でな。貧乏しとって子供の時に食べれんかったせいかもしれん。大きゅうなったら、腹いっぱい菓子パンを食べてやると思うとった」
家主は名刺をテーブルに置いた。
「まさか、パンの話をしにきたんやないやろう」
私はマンションの部屋の話をし、取材をさせて欲しいと頼んだ。
右腕をソファの背もたれの上辺にかけ、後方に身を引いて、家主は尊大にかまえた。
「いくら出すと」
「いくらならよろしいでしょうか」
そういうこともあると思って、先日編集長補佐と私は携帯で打ち合わせをすませていた。しかし上限でも、微々たる金額だ。
「見ての通り、金には困っとらん」
家主はつまらなそうに口にすると、取材の謝礼金に興味がないことを示した。鼻を一度つまんで言う。
「あんた、どこまで知ってるんや?」
返答に困っている私を見て、家主は大げさに笑い声を立てた。
「どうやら、俺のみっともないざまも知っとるみたいやな」
家主は笑いをやめると、体を前に乗り出して私を見据えた。
「そんなんを書かれて俺が喜ぶと思うかい」
鋭い眼差しに、私の首が縮んだ。
「いえ、それを記事にするつもりはありません。あの部屋で、一晩すごさせてもらう許可をいただきにきました」
家主の目つきが変わった。初めて私に興味を持ったというふうだった。
「ほう、あそこで夜明かしをしたいという料簡かい」
「ええ、私自身の体験を元に記事にしたいんです。なるべくご迷惑をかけるつもりはありませんので、ご協力をお願いできませんか」
「やめといたがいい。悪いことは言わんから、あそこに泊まろうなんて思わんがいい」
家主は首を横に振り、右手で目の前の空間をさっと薙いでみせた。
「俺も最初は、幽霊なんてバカ抜かせと思っとった。それがあのざまだ。これまで何度も修羅場はくぐりぬけてきた俺でさえ、あんな怖い思いをしたのは初めてやった。二度とごめんだ」
「なにがあったんですか」
「部屋を飛び出した俺は、怖くて泣いとった」
ニッと笑み、テーブルの上の煙草入れからタバコを取り出すと、家主は口にくわえた。火をつけてやるべきかと考えているうちに、家主は卓上ライターで自分で火をつけた。
「あんたタバコは?」
いまはけっこうですと私は答えた。家主の態度が柔らかくなっていた。
なんとかそこを曲げてお願いできませんかと、何度か私は頼んだ。
「どうしてそんなに泊まりたいと」
家主は、私を眺めながらゆったりと紫煙をくゆらした。
「仕事ですから」
「仕事――?」
「記事にするからには、やはり責任がいります。あの部屋で夜を迎えて、なにが起こるのかを自分自身で知る必要があります。そうでないと、書いてはいけません」
「たかが幽霊の話やないか。面白可笑しゅう書いときゃ、よかろうもん」
家主は笑った。
「そうかもしれません。しかしあそこはちがうような気もします。たかが幽霊にしてはいけないと思うんです。そのためにもあの部屋ですごす必要があります。そうでないと、私は記事にできません。それに、あの部屋がいまどうなっているのか、私はそれを人に伝えたいんです。一人でも多くの人に知ってもらいたいんです」
家主はタバコを灰皿で押し潰した。
「知らんほうがいいこともある」
「そうでしょうか」
「そりゃそうさ。知らずにすむならそれがいい。忘れたほうがいいこともある」
家主は私を見やった。
「が、忘れてはいかんこともある」
苦虫を噛み潰したような表情が家主の顔に浮かんだ。家主は続けた。
「あんなことがあった部屋や、あそこに泊まるには覚悟がいるぞ。それでもいいんかい。どうなっても俺は知らんぞ」
「かまいません」
家主は私を値踏みするようにした。そして息を吐いた。
「そこまで言うんなら、考えんでもないな」唇を右手で拭う。「記事のことはべつにしても、あの部屋がいまどうなっているのか知りたい気もするんよ。あんたが泊まりたい言うなら、俺も有難いと思うとこもある。ただそれには条件がある。あんたがあそこに泊まり、そこでなにがあったかを、ここにきて逐一話してくれるなら俺も手を貸そう。電話じゃだめだ。必ずここで、俺の前でだ。記事に書くかどうかは好きにしたらいい。といっても、営業妨害にならん程度にはしてもらわんといかんがな」
私はもちろんですと答えた。
泊まる際の日程などを私は家主に説明し、家主は鷹揚にそれを聞いていた。こちらから不動産会社に連絡をしておくから、訪ねたらいいと家主は請け合った。
「人には貸さんようにしているが、月に一度は掃除させているから中はきれいだし、俺もあっちにいった時は寄って、線香をあげるようにしとる」
「四年前泊まられた時になにがあったのですか」
私の問いに、家主は唇だけで笑んだ。
「泊まるつもりやったら、俺に聞く必要はない。それに、無様なさまを話すつもりもない」
ほかに聞きたいこともあったが、私はそれを遠慮しておいた。
立ち去りがけに、「この部屋んことを一言も誉めんかったのはあんたが初めてだ」と、家主はトラの剥製を撫でてみせた。
外に出ると、まだ雨はふり続けていた。車に乗り、デブの編集長補佐に携帯で連絡を入れた。
「いよいよだな。あとは本丸へ突撃取材を開始するだけだ。なにが出るか楽しみじゃないか」
他人事だと思って嬉しそうにしていやがる。
私は雨の中、車を発進させた。不動産屋の女性と家主に会って、私はプレシャーを感じていた。フロントガラスを雨が叩きつけている。
帰路の半分ほど走らせたところで携帯が鳴った。雨音がうるさい。車を道路に横付けし、湿り気のこもった車内で携帯を出した。
霊能者の彼女からだった。
「いまどうしているの」
私は、家主に会い、あの部屋に泊まり込む手筈が整ったことを話した。
「あのね、よく聞いて。あなたに話を聞いてから気になったものだから、昨日仕事を終えてあのマンションの下までいってみたの」
彼女は言葉を切った。携帯を耳にあてたままで、私は待った。外では雨がふり続け、雨音がひっきりなしに聞こえている。
「いるわ」彼女は言い切った。「三階の窓になにかがいたわ」
どうやら、私には見えなかったものが、彼女には見えたらしい。
「私にどうしろと言うんだい」
彼女の口調が苛立った。
「心配してあげているのがわからないの。もういい。勝手にしたらいいんだわ。バーカ」
携帯は切れた。
雨音が神経を苛立たせる。が、私のことを気にかけてくれる人が一人でもいてくれるのは、私には嬉しいことだった。