表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

3 線路沿い

 八時になる十分前に、私は不動産屋が見える位置に待機していた。客はいなかったらしく、ほぼ時間通りに、男の社員によって表のシャッターが音を立てて閉じられた。それから五分ほどして、裏口のドアが開いて社員たちが数人出てきた。シャッターの上の隙間から明かりが洩れ、残業組もいるようだった。

 出てきた数人の中に私の目当てとする人物はいた。最後に出てきて、駅のほうへ歩いていく女のあとを追う。店から二十メートルほど歩いたところで、私は声をかけた。

 女は足を止めて振り返った。視力が弱いのか目を細めて私の顔を見つめ、表情が、私のことを、昼すぎにきた客の一人だとわかったものに変わった。

 断ったはずのコーヒーを運んできたのが彼女だった。訪ねておいたのは、情報を仕入れるよりも、顔を見せておくためだった。まったく知らないより、そちらのほうが人は安心する。私のような仕事をしている者には、それが大切だった。情報収取のターゲットを彼女にしたのは、たんに直感であった。

 私は名刺を渡して自分の素性を明らかにすると、迷惑はかけないので話を聞かせてもらえないかと頼んだ。名刺と私の顔を見比べ、あっさりと彼女は、承諾の返事をくれた。私のほうがためらいをおぼえるほどだった。

 子供のように小柄で、二十代に見える。細い顎をし、染めていない髪はショートだ。肌の色が白く、歯切れのいい聞き取りやすい声をしていた。

「歩きながら話しませんか。気持ちのいい夜ですし、歩いて帰ろうかと思っていたところです」

 どこかへ誘おうと思っていた私に、彼女は微笑んで言った。

「あの部屋に幽霊が出るという噂があるのはご存知ですか」

 どちらに向かうのか見当がつかないまま、私は彼女の横に並んで歩いた。

 彼女はうなずいた。

 話を録音させてもらえないかと尋ねると、首を横に振る。

「具体的になにがあったのか、ご存じの範囲でかまいませんから教えてください」

 丸めた右手を唇にあてて、どう話したらいいのか考えたようにしてから、彼女は口を開いた。

「事件のことはすでにご存じなんですよね。ではそのあとですけど……」

 私が想像していた通りだった。神主が清めの祓いをし、ひと月後に、本社の独身の若い男性社員が住む手筈になっていた。実家から通勤しており、事件のことには無頓着で、一人暮らしを満喫しますよと周囲に言っていたらしい。しかし、それは一夜ももたなかった。初めて泊まった日の翌日に、彼は出社してこなかった。心配した上司が彼の携帯に連絡を入れると、彼は実家に帰っていて、「出たんです……まだいるんですよ、あの部屋に……」と泣きじゃくるばかりであった。

 それを聞いた課長の一人が、そんな馬鹿なことがあるか、幽霊なんていてたまるかと、一晩すごすことになったが、その課長も、その夜のうちに逃げ帰ってしまっていた。剣道の段を有していた課長だけに、社員たちは震え上がった。

「私たちの支店にはその連絡が入っただけなので、社員と課長が誰なのかも、その後二人がどうなったのかも、詳しいことはわかりません。ただそれで、あの部屋に泊まり込んでもいいと言いだす者は、会社には誰もいなくなりました」

 彼女は歩きながら、私のほうを見ることもなく話し、私は黙ってそれを聞いていた。駅から離れ、だんだんと線路沿いの道は淋しさを増していっていた。

 どう処理をしたらいいのか困った支店長は、けっきょく家主に相談をする。家主は呆れ返り、それなら自分の目で確かめると、その部屋で一晩をすごすことになった。

「それでどうなったんですか」

「同じことでした」

 彼女は私のほうに白い顔を向けた。

「二度あることは三度ある。家主も一夜を明かすことはできませんでした」

 ぞくりとした。

 見たこともないはずの家主が、部屋から転がり出るさまが見えたような気がした。

「なにがあったんでしょう」

「さすがにそこまでは聞いていません。やはりみな口にしようとはしませんから。私が知っているのは、それ以来あの部屋は封印されているということです」

「ずっとですか」

「ええ。昼間は大丈夫らしいです。しかし夜になると、誰も近づかないそうです」

「マンションのほかの住人からなにか出ていませんか。同じ階の住人から、苦情とか」

「それはないと思います。耳にしたおぼえもありません」

 彼女の話によると、少なくとも大の男が三人恐怖体験をしたことになる。しかも、三人とも泡を食ったようにして逃げ出している。一人は家主だ。

「それから四年間ほど封印されているのはわかりましたが、その間に霊媒師による浄霊とかはしなかったのですか」

「わたしの知るかぎりではないですね。どうしてかはわかりませんけど、家主さんの考えじゃないかと思います。するとしたら家主さんでしょうから」

 確かにその点は不思議だった。家主自身が体験をしているのだから、してよさそうに思える。

 もう少しなにか引き出せないかと、私はあといくつか質問をしたが、彼女もそれ以上のことは知らないようだった。

 道の途中で彼女は足を止めた。

「知っていることはすべて話しましたので、このへんで」

 私としては、ここまできたからには彼女を家まで送るつもりだった。

「家はその踏切を越えてすぐですから、ここでいいです」彼女は言いにくそうにした。「ほんとうは家を知られたくないんです。だから、一人で帰らせてください」

 私としては気がとがめる思いだったが、そこまで言われては、どうすることもできない。上着の内ポケットから、事前に用意しておいた謝礼の入った封筒を取り出すと、彼女はそれも断った。

「そんなつもりで話したのではありませんから」

 それでは私の気がすまないと言ったが、彼女はかたくなに受け取ろうとはしなかった。自分のできることをしただけだという感じだった。

 封筒を手にしたまま弱り切った私に彼女は言った。

「その代わり、わたしのことは一切出さないでください。わたしと会ったこともです。仮名でも困ります。それは約束してください」

 私はうなずいた。

「どうして話してくれたんですか」

 彼女は首を傾げ、目蓋を閉じた。夜の声に耳を澄ましているかのような仕草だった。そして目を開いて言った。

「あの部屋であったことを忘れてはいけないと思うんです。だから、それを伝えて欲しいと思ったんです」

「わかりました。いい記事にしてみせます。その時は読んでもらえますね」

 白い顔で彼女は微笑んだ。

 先の踏切を渡って、彼女の姿が見えなくなるのを、私はその場に立ったまま見つめていた。それぐらいはしておきたかった。あたりは街灯と人家の明かりしかない。

 ひとりになると、私はいまきた道を引き返した。彼女の帰るほうとちがい、道の先は駅ビルや商店の明かりで満ちている。その光を目指しながら私は歩を進めた。

 彼女の言ったように気持ちのいい夜である。しかし、どこか切なかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ