3 線路沿い
八時になる十分前に、私は不動産屋が見える位置に待機していた。客はいなかったらしく、ほぼ時間通りに、男の社員によって表のシャッターが音を立てて閉じられた。それから五分ほどして、裏口のドアが開いて社員たちが数人出てきた。シャッターの上の隙間から明かりが洩れ、残業組もいるようだった。
出てきた数人の中に私の目当てとする人物はいた。最後に出てきて、駅のほうへ歩いていく女のあとを追う。店から二十メートルほど歩いたところで、私は声をかけた。
女は足を止めて振り返った。視力が弱いのか目を細めて私の顔を見つめ、表情が、私のことを、昼すぎにきた客の一人だとわかったものに変わった。
断ったはずのコーヒーを運んできたのが彼女だった。訪ねておいたのは、情報を仕入れるよりも、顔を見せておくためだった。まったく知らないより、そちらのほうが人は安心する。私のような仕事をしている者には、それが大切だった。情報収取のターゲットを彼女にしたのは、たんに直感であった。
私は名刺を渡して自分の素性を明らかにすると、迷惑はかけないので話を聞かせてもらえないかと頼んだ。名刺と私の顔を見比べ、あっさりと彼女は、承諾の返事をくれた。私のほうがためらいをおぼえるほどだった。
子供のように小柄で、二十代に見える。細い顎をし、染めていない髪はショートだ。肌の色が白く、歯切れのいい聞き取りやすい声をしていた。
「歩きながら話しませんか。気持ちのいい夜ですし、歩いて帰ろうかと思っていたところです」
どこかへ誘おうと思っていた私に、彼女は微笑んで言った。
「あの部屋に幽霊が出るという噂があるのはご存知ですか」
どちらに向かうのか見当がつかないまま、私は彼女の横に並んで歩いた。
彼女はうなずいた。
話を録音させてもらえないかと尋ねると、首を横に振る。
「具体的になにがあったのか、ご存じの範囲でかまいませんから教えてください」
丸めた右手を唇にあてて、どう話したらいいのか考えたようにしてから、彼女は口を開いた。
「事件のことはすでにご存じなんですよね。ではそのあとですけど……」
私が想像していた通りだった。神主が清めの祓いをし、ひと月後に、本社の独身の若い男性社員が住む手筈になっていた。実家から通勤しており、事件のことには無頓着で、一人暮らしを満喫しますよと周囲に言っていたらしい。しかし、それは一夜ももたなかった。初めて泊まった日の翌日に、彼は出社してこなかった。心配した上司が彼の携帯に連絡を入れると、彼は実家に帰っていて、「出たんです……まだいるんですよ、あの部屋に……」と泣きじゃくるばかりであった。
それを聞いた課長の一人が、そんな馬鹿なことがあるか、幽霊なんていてたまるかと、一晩すごすことになったが、その課長も、その夜のうちに逃げ帰ってしまっていた。剣道の段を有していた課長だけに、社員たちは震え上がった。
「私たちの支店にはその連絡が入っただけなので、社員と課長が誰なのかも、その後二人がどうなったのかも、詳しいことはわかりません。ただそれで、あの部屋に泊まり込んでもいいと言いだす者は、会社には誰もいなくなりました」
彼女は歩きながら、私のほうを見ることもなく話し、私は黙ってそれを聞いていた。駅から離れ、だんだんと線路沿いの道は淋しさを増していっていた。
どう処理をしたらいいのか困った支店長は、けっきょく家主に相談をする。家主は呆れ返り、それなら自分の目で確かめると、その部屋で一晩をすごすことになった。
「それでどうなったんですか」
「同じことでした」
彼女は私のほうに白い顔を向けた。
「二度あることは三度ある。家主も一夜を明かすことはできませんでした」
ぞくりとした。
見たこともないはずの家主が、部屋から転がり出るさまが見えたような気がした。
「なにがあったんでしょう」
「さすがにそこまでは聞いていません。やはりみな口にしようとはしませんから。私が知っているのは、それ以来あの部屋は封印されているということです」
「ずっとですか」
「ええ。昼間は大丈夫らしいです。しかし夜になると、誰も近づかないそうです」
「マンションのほかの住人からなにか出ていませんか。同じ階の住人から、苦情とか」
「それはないと思います。耳にしたおぼえもありません」
彼女の話によると、少なくとも大の男が三人恐怖体験をしたことになる。しかも、三人とも泡を食ったようにして逃げ出している。一人は家主だ。
「それから四年間ほど封印されているのはわかりましたが、その間に霊媒師による浄霊とかはしなかったのですか」
「わたしの知るかぎりではないですね。どうしてかはわかりませんけど、家主さんの考えじゃないかと思います。するとしたら家主さんでしょうから」
確かにその点は不思議だった。家主自身が体験をしているのだから、してよさそうに思える。
もう少しなにか引き出せないかと、私はあといくつか質問をしたが、彼女もそれ以上のことは知らないようだった。
道の途中で彼女は足を止めた。
「知っていることはすべて話しましたので、このへんで」
私としては、ここまできたからには彼女を家まで送るつもりだった。
「家はその踏切を越えてすぐですから、ここでいいです」彼女は言いにくそうにした。「ほんとうは家を知られたくないんです。だから、一人で帰らせてください」
私としては気がとがめる思いだったが、そこまで言われては、どうすることもできない。上着の内ポケットから、事前に用意しておいた謝礼の入った封筒を取り出すと、彼女はそれも断った。
「そんなつもりで話したのではありませんから」
それでは私の気がすまないと言ったが、彼女はかたくなに受け取ろうとはしなかった。自分のできることをしただけだという感じだった。
封筒を手にしたまま弱り切った私に彼女は言った。
「その代わり、わたしのことは一切出さないでください。わたしと会ったこともです。仮名でも困ります。それは約束してください」
私はうなずいた。
「どうして話してくれたんですか」
彼女は首を傾げ、目蓋を閉じた。夜の声に耳を澄ましているかのような仕草だった。そして目を開いて言った。
「あの部屋であったことを忘れてはいけないと思うんです。だから、それを伝えて欲しいと思ったんです」
「わかりました。いい記事にしてみせます。その時は読んでもらえますね」
白い顔で彼女は微笑んだ。
先の踏切を渡って、彼女の姿が見えなくなるのを、私はその場に立ったまま見つめていた。それぐらいはしておきたかった。あたりは街灯と人家の明かりしかない。
ひとりになると、私はいまきた道を引き返した。彼女の帰るほうとちがい、道の先は駅ビルや商店の明かりで満ちている。その光を目指しながら私は歩を進めた。
彼女の言ったように気持ちのいい夜である。しかし、どこか切なかった。