とある女史の絶望
御年五十九歳の篠山は、帝国科学研究所にある最も奥まった喫煙室で、一番強くて安いフィルターなしの煙草を燻らせながら、日がな一日、28型のテレビの前に陣取っていた。
埃まみれの画面には、ひっきりなしに昨日行われた二つの記者会見の様子が交互に映し出されていた。
「Trigger細胞はあります!」
白衣姿の、若く可愛らしい女史が叫ぶ。
画面が切り替わり、
「当研究所としましては、Trigger細胞の論文取り消しを勧告しております」
年老いたスーツ姿の男、この研究所の所長が淡々とメモ書きを読み上げる。
次の番組が始まる。
「Trigger細胞はあります!」
「当研究所としましては、Trigger細胞の論文取り消しを勧告しております」
チャンネルを変える。
「Trigger細胞はあります!」
「当研究所としましては、Trigger細胞の論文取り消しを勧告しております」
篠山は無精ひげを掻きながら、かわいそうにと独りごちる。
かわいそうに。
会見が流れるたびに篠山はぶつぶつ言う。
かわいそうに。
かわいそうに。
口先だけの言葉ではない。心からの同情だった。だからといって、かわいそうに、と言ってやる以上の何かをするわけでもない。する気もない。
篠山がいつものように夕刻までダラダラと時間を潰しそろそろ帰宅しようかと思案していると、カツンカツンと足音が近づいてきた。
「お、珍しいなあ。お客さんか」
共用の施設に来客というのもおかしいが、事実、この喫煙室は篠山専用となっている。仕事の合間に気分転換するには遠すぎるうえに、古くて陰気臭い。長年の脂と黴がしみ込んだ匂いは掃除してどうにかなるものではなく、とてもリフレッシュできるような環境とはいえないのだ。
それになんと言ってもこの喫煙室には、棲みついているかのような篠山がいる。来月定年を迎える篠山は、既に研究から手を引いていた。だから何をするでもなく、定年までの時間をここで無益に費やしているのだ。金食い爺さん。それなりの給与を受け取りながらダラダラと喫煙室に籠る篠山を、熱心な若手や中堅の研究者は、陰でそう揶揄して虫のように嫌っていた。
グギィィィ、バタン。
無粋な音を立てて鉄製の錆びた扉が開き、汚い空間に似つかわしくない華やかなフローラルの香りが広がる。
「いらっしゃい、大田女史。遅かったじゃないの」
篠山はテレビを見たまま来訪者を迎え入れる。振り向いて確認するまでもない。この研究所で花の香りを振りまくのは渦中の若く可愛らしい研究者ぐらいなものだから。
篠山が見ていたのは夕刻のワイドショー。メインの話題は当然のように昨日の記者会見である。大田女史は思いっきり顔をしかめる。
「大田さんはちょっとカメラ映りよくないね。お化粧変えてみたら?」
「ふざけないでください」
大田女史は声を荒げる。
「どうして、どうしてあんなことを言ったんですか?」
「まあまあ、お掛けなさいよ。ええ? 椅子いらないの? 元気だねぇ、若いっていいねぇ」
篠山は大田女史に勧めたパイプ椅子にどかりと腰かけると、白衣の胸ポケットから紺色の小さな箱を取り出した。
「気付いた? 僕、煙草変えたんですよ。PEACEっていうんですけどね、これが強烈なのはいいんだけどなんせ短くてね。一日中火を着けたり消したりしてますよ」
「私の研究チームにいらしたときもしょっちゅう煙草休憩などと言って離席されてましたよ。煙草の銘柄は関係ないんじゃありませんか」
篠山は大田女史の非難など馬耳東風。呑気に安物のタバコに着火し、口をつぼめて真上に煙を吐いている。
「大田さん、輪っかの作り方知らない? 朝から挑戦しているんだけどね、これがなかなか上手くいかない」
「喫煙なんてしたことがありませんので」
大田女史はピシリと言い放つと、篠山を睨みつけた。
本気で怒っているのだろうが、いかんせん大田女史の幼い顔つきが迫力を鈍らせている。ぷんすか!という古典的な擬音があまりにもしっくりきて、篠山は思わず吹き出しそうになった。
「どうしてあんなことを?」
「あんなことって?」
篠山は口を尖らせて煙の具合を微調整した。
「Trigger細胞の存在を否定したことです」
大田女史の声は怒りで震えていた。
「Trigger細胞を見たことがないなんて、何度も実験に携わったあなたが、よくもそんな」
「あのね。僕はただ、ないことになったから、ないよって言っただけ」
「ないことになったって、そんなわけないでしょう! 三年前から、篠山さんは何度も実験をご覧になられて!」
「あのね、ないものを見ることはできないんだよ。だから僕は見ていないの。そういうことになってるの」
篠山はちびたタバコを灰皿にぐりぐり押し付けると、大田女史を見上げて言う。
「証拠、出せる?」
「──証拠」
「ないでしょ?」
大田女史は唇をかんだ。
Trigger細胞研究の正式記録は都度提出することになっていた。手元には一切残してはいけない。
また関係者以外へ口外することは当然厳しく禁止されていたし、限られた研究室のメンバー、つまり篠山以外の実験への関与も禁止されていた。
それが実験を公費で賄う条件だったのだ。
「ね。ないでしょ?」
篠山は重ねて問う。
「個人的な、メモなら」
「ああ、あの落書きね」
篠山はせせら笑った。
「あんなの世間様に出してご覧なさいよ。あなた、それこそ信頼を失いますよ」
「じゃあ、私はどうしたらいいんですか!」
甲高い声が静かな喫煙室の空気を揺らす。
篠山は紺色の箱から新たな煙草を出すと、しばらく黙ってそれを弄んでいた。
「どうしたら……」
再び問う大田女史の声に涙が交じる。
やがて、篠山は静かに口を開いた。
「上の言うことを聞いて、いいこにしていなさいな」
喫煙室に大田女史の静かな慟哭が響く。
篠山はとぎらすことなく煙草をプカプカやる。
しばらくして落ち着いたのか、大田女史は顔を上げた。
「篠山さん、お話、してもいいですか?」
「どうぞどうぞ。でもあれですよ。僕はこんな汚い所に引きこもっているような男ですから、なんにもね、分からないんですがね」
「私の研究チーム、篠山さん以外に何人いたか知っていますか? 12人ですよ。だから私は、少なくとも12人の人間が私の味方なんだと思ってました」
「違った、でしょ?」
「ええ。誰も私と話してくれない。目も合わせてくれない。人望があるタイプではないと自分でもわかっていたんですけれどね、ここまでとは」
大田女史は苦笑いを浮かべて続ける。
「正直、人間という存在に絶望してます。Trigger細胞なんて見つけておきながらなんですけれど、人類なんて滅びてしまえばいいんです」
「その点に関しては、僕も同意見だな」
篠山は笑って頷く。
大田女史は篠山に向き直ると、意を決したように問いただした。
「篠山さん、質問します。裏切り者は誰ですか?」
「さぁ? そんな方いるんですかね?」
篠山は白衣の胸ポケットの煙草を取り出し、またのらりくらりやり出す。
「篠山さん!」
篠山は特大の煙を吐いた。表情ははっきりと、めんどくせぇなあ、と言っている。
だからだよ、と篠山は思う。あの研究に携わるには大田女史は普通すぎる。マジメでストレート。努力を惜しまず、取る方法はいつも正攻法。平凡に生きていくのならば、それは素晴らしい資質だろう。しかしこの研究に携わるのであれば彼女は中途半端。はっきり言ってしまえば邪魔でしかない。
「クソ畜生でなくちゃあね」
「は?」
大田女史は怪訝そうに首をかしげた。
「わかりました、じゃあ、教えてあげましょうか」
篠山は煙草を灰皿にグリグリと押しあてると、大田女史をまっすぐに見つめた。大田女史は怯む自分を鼓舞するように身体の前で組んでいた両の手をグッと握り締める。
「そのかわりに、抱かせてくれますか?」
「……は」
「僕と寝てくれますかね?」
大田女史は何が起ったのか理解できないようで、目を見開いて篠山を凝視している。
ほうら中途半端だ、篠山は笑う。ここでハイお願いしますとおっぱい出すくらいの畜生じゃないとね、ダメなんですよ──。
と、目をそらした瞬間。
大田女史の強烈な右フックが篠山のテンプルを捉えた。篠山は椅子ごと背後に吹っ飛んだ。長テーブルの角で派手に後頭部をやり、固いコンクリの床と椅子のパイプに腰をしたたか打ちつけた。
あはははは。
意識を失う中、篠山は大田女史の朗らかな笑い声に包まれている。
あはははは。
篠山が気付いたとき、外は既に真っ暗だった。少なくとも3時間はぶっ倒れていたらしい。机も椅子も綺麗に並べなおされていて、篠山は床に気をつけの姿勢で転がされていた。
足元を見るとすぐそばで大田女史が壁に寄りかかり、床に座り込んでいる。
「お尻、冷たくない?」
「開口一番、それですか」
大田女史は笑った。
篠山も一緒に笑ったが、その笑いはすぐに腰に走る激痛にかき消されてしまった。
「医務室にも連れていってくれないなんて、あれだね、君も図太いというか──」
「楽観的なんです」
澄まし顔で大田女史は続ける。
「それに、篠山さんが死んでも構いませんしね」
篠山は苦笑するしかない。
大田女史は大きく息を吸い、ゆったりと問う。
「篠山さんにTrigger細胞を否定させたのは、誰ですか?」
篠山は降参だという風に、頭を振り振り答えて問う。
「あなたにTrigger細胞の研究をさせたのは誰ですか?」
「やっぱりね」
大田女史はけらけらと笑った。すべて予定調和だ。研究が成功した時点で自分は用無し。それは大田女史は最初から予感していたけれど必死で否定してきた事実だった。
捨てられた事実を突き付けられた割には大田女史の心は軽い。裏切られたことよりも、やっと嘘っぱちの世界から解放された明るさが勝ったのだ。
「もし私が男だったら、こんな目にはあわなかったのでしょうか?」
大田女史は長い髪を指で梳かして見せた。ふわりと花の香が漂う。
「そうでもないでしょう。でもあれだね、ここまで世間の玩具にはされなかったかもね」
さらにちょっと考えて付けくわえた。
「せめてもうちょっとブスだったらね」
「──親を怨むことにします」
大田女史の笑顔に、もはや一点の曇りもない。
一礼して扉に手をかけた大田女史を篠山は呼びとめた。
「ねえ、Trigger細胞の研究、もう一度参加してみます?」
「丁重にお断りさせていただきます」
「君の半生をかけた研究なんでしょ?」
「だからこそ、です。残りの半生は、もっとマトモな方々と過ごしたいわ」
「さようなら」
眩しい笑顔を残し、大田女史は喫煙室の扉を閉じた。
しばし呆然と扉を眺めていた篠山は、やがて煙草が入っていない方の胸ポケットから携帯電話を取り出し”上”に連絡した。
「あ、もしもし。来ましたよ、彼女。──うん、うん。フン、諦めたも何も、捨てられたのは僕らの方みたいですよ。ええ? 分からないなら分からないでいいんです。ええ、とにかく問題ないですから。ええ、ええ、では」
そそくさと通話を終了した篠山は深く溜息をついた。
Trigger細胞は身体中のすべての細胞に代用できるとされている。目が悪い患者の新しい目となり、古くなった心臓に代わる新たな心臓となる。身体のすべての器官が交換可能となるのだ。
もし上手く交換し続けることが出来たなら。理論上その人間は無限に生き続けられるだろう。
Trigger細胞の培養の成功が一般社会でも話題となったのはこのためだ。夢物語でしかなかった不老不死が可能になる。永遠に生きることを望んでいなくても、誰もが少なからず興味引かれるだろう。
これはもちろん机上の空論、馬鹿話でしかない。日々老化する身体の交換手術など、それこそ週に一回メスをいれたとしても追い付けるものではないし、そもそも全身くまなく移植されて耐えられる人間など存在しない。
結局はTrigger細胞から不老不死に到達するなど夢のまた夢。移植用臓器の培養に利用されるのが実際の利用方法だ。そしてそれすら実用化にはほど遠い。──というのが表向きのお話である。
実は、古今東西今昔問わずあらゆる権力者が欲してやまなかった決して死なないという夢に、篠山は20年も前に到達していた。
篠山の編み出した方法もTrigger細胞を利用するが、メスは必要ない。代わりに毎日の筋肉注射と週に一度の透析のみでほぼ永遠に生き続けられる。もちろん若い身体を維持したままだ。既にマウスを使った実験では成功している。現在は人間により近い猿での実験が行われているが、目下のところ問題は見受けられない。多少の紆余曲折があっても数年で実用化されるだろう。
人間は死から解放された。そしてたぶん人間に寵愛されている一部の動物達も。
ただし実現にはちょっとした問題があって、この地球には70億もの死なずにただ増え続ける人間を養う余力はない、ということだ。
つまりほとんどの人間には、今まで通り死んでもらわなくてはこの世界は成り立たない。
もし不老不死が公然の事実になってしまったとしたら。地球のために人類のために死んでください、と言われて納得するようなお人好しは果たして存在するだろうか。
だから、時々人類の夢はぶち壊される必要があるのだ。実現可能と思わせておいて、それが絵空事であると知らしめる。そして人々は絵空事を繰り広げた”嘘つき”の糾弾に夢中になりながら記憶に切り刻むのだ。
不老不死は不可能である、と。
篠山は長机に腰掛けて目を閉じ、10年後の世界を想像する。
生まれ死んでいく真っ当な人間に密かに交じりこむ、死とも老化とも疾病とも縁切りした、やんごとなきゾンビ共。真っ当な人間はゾンビ共の尻拭いに短い生を費やす。何にも知らずに法に振り回され、税を払い、損ばかりして死んで行く。
今だって似たようなものかもしれない。だが少なくともやんごとなき方々だって、死ぬ。唯一公平に訪れていた死すらなくなってしまったら、これほど胸糞悪いことはないだろう。
僕ぁそんな世の中ごめんだね、と篠山は煙草に火をつける。
多量のタールとニコチンが、なるべく早めに命を奪ってくれることを願いながら。