「聖女を虐げたお前とは婚約破棄だ!」と殿下が叫んだので、聖女様ご本人に伺いました。三年前まで、うちの侍女でしたので
「フィオナ・アルトハイム! 聖女を虐げたお前とは、婚約破棄だ!」
王立学院の卒業夜会。大広間の楽団は弓を弦に置いたまま硬直した。
叫んだのは王太子のアルフォンス殿下で、叫ばれたのは六年前から殿下の婚約者を務めている侯爵家の娘、つまり私である。
来た。本当に今夜。
昨日の夕方、聖女様の護衛隊長がわざわざ屋敷の裏口まで知らせに来てくれたとおりの筋書きだ。
「聖女ペトラ、前へ! この女に何をされたか、皆の前で話すんだ!」
殿下が振り向いた先、人垣の向こうから白い礼装の少女が飛び出してきた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、ものすごい速さでこちらに走ってくる。
ちょっと、ペトラ。走らないで。裾! 裾を踏む!
殿下が両腕を広げた。
聖女様はその脇をするりとすり抜けて、私の胸に飛び込んだ。
「お嬢様をいじめる人は、殿下でも許しません!」
大広間は完全に沈黙した。
私は聖女様の背中を軽く叩きながら、殿下に向かって淑女の微笑みを作った。
「承知いたしました、殿下。では、聖女様ご本人に伺いましょうか」
「お、お嬢様……?」
殿下の声が裏返った。明らかに動揺していらっしゃる。
ええ、そうですよね。そこが気になりますよね。
「三年前まで、うちの侍女でしたの」
ざわめきが波のように広がっていく。
最前列の伯爵夫人は扇を取り落とし、楽団の誰かが弦を一本間違えて弾いた。
「……は?」
殿下の口は開きっぱなしで閉じない。
六年も婚約者をしていれば分かる。殿下の頭の中ではいま、必死の再構築が始まっている。成功する見込みは薄い。
ペトラは十歳の冬、厨房の料理番ヒルデの娘として屋敷に来た。
十二歳で私付きの侍女になり、十五歳の春、階段から転げ落ちた私を抱き起こした手が光った。
あの時の光景は今も鮮明だ。
額から血を流している私の上で、ペトラは「痛いの痛いの、飛んでけぇ」と半泣きで唱えていて、本当に痛みが飛んでいった。嘘でしょう、と思ったのを覚えている。
それが聖女の目覚めで、ペトラはその月のうちに神殿に迎えられた。誇らしかった。それと同じくらい、寂しかった。
神殿の名簿には「王都の平民、ペトラ」としか記録されていない。
侯爵家が聖女を囲っている、などと噂されたら、この子の立場が悪くなる。だから私も父も、誰にも口外しなかった。
ただ、殿下が一度でも「聖女様はどこから来たの?」と尋ねてくださったなら、その時は正直に答えるつもりでいたのだ。三年間、一度も尋ねられなかったけれど。
「せ、聖女! こっちに来るんだ。その女から離れろ!」
「やです!」
ペトラは私の腰にしがみつく腕にますます力をこめた。
ぐえ。ペトラ、苦しい。コルセットの上からそれは苦しいの。
「ペトラ、鼻。鼻をかみなさい」
「はいぃ……」
手巾を渡すと、聖女様は国中の信仰を集める顔で盛大に鼻をかんだ。
殿下の頬がひくりと引きつる。
「だ、騙されないぞ! 昔の主人だからといって、聖女を脅して庇わせているんだろう!」
「脅されてません!」
「ペトラ、殿下のお話の途中よ」
「だって、お嬢様ぁ」
大丈夫、この子は私が守る。そう決めて、聖女様の肩を抱いたまま殿下に向き直った。
心臓がさっきから少しうるさい。怖いのではない。この子が次に何を言い出すか分からないのが怖いのだ。
「殿下、罪状をお聞かせくださいませ。一つずつ、聖女様ご本人にお答えいただきますわ」
「……いいだろう」
殿下は懐から羊皮紙を取り出して、大仰な仕草で広げた。
準備していらしたのね。インクの滲みが数か所。ご自作の文面にご自分で感動なさった痕跡と見た。
「一つ! 昨年の秋、学院の中庭で、お前は聖女の教本を奪い、皆の前で破り捨てた! 見ていた者は大勢いるぞ!」
人垣のあちこちで頷く顔があった。
確かに、あの日の中庭は昼休みの生徒で混雑していた。分厚い冊子を両手で引き裂く音を、皆が聞いたはずである。
「ねえペトラ、あれは教本だった?」
「違います! あれは殿下がくださった詩集です! 『君の瞳に捧ぐ百篇』!」
ペトラ、題名まで言わなくていいの。
殿下の顔は首の下から順番に赤く染まっていった。
「神殿の決まりで、聖女は殿方からの贈り物を受け取っちゃいけないんです。でも殿下のお品をわたしが捨てたら、王族のお品を粗末にしたって神殿長様に叱られます。返そうとしても、殿下は受け取ってくださらないし!」
「だから、私がお引き受けしたのよね」
私は殿下に一礼した。
「殿下のお品は婚約者の私が処分いたします、と。聖女様は受け取っていない、と皆様の前ではっきりさせるには、あの場で破るのが一番早うございましょう?」
「ぼ、僕の詩を……! あの装丁には金の箔押しで、金貨八十枚もかけたんだぞ!」
「ええ、表紙が硬くて大変でしたわ」
本当に頑丈な表紙で、翌日は手のひらに豆ができた。
殿下が言い返そうと口を開いた時、ペトラが私の腕の中から顔を上げた。
「お嬢様、わたし一篇だけ覚えてます」
「え、待って。覚えなくていいのよ?」
「『君の瞳は聖水の池。僕はそこに落ちた一匹の蛙』」
大広間のあちこちで、同時に吹き出す音。
扇の陰で肩を震わせる令嬢がいて、柱の陰で咳払いをごまかす令息がいる。
楽団の打楽器の奏者は、とうとう太鼓に突っ伏した。
「や、やめろっ! 笑うな! それは聖女の瞳の清らかさを讃えた詩だ!」
「蛙なのに?」
「ペトラ」
私は聖女様の口を手のひらでそっと塞いだ。
お願いだから、これ以上殿下の傷口に塩を塗らないで。笑いをこらえるこっちの身にもなってほしい。
正直な感想を言えば、殿下の詩は上手ではない。百篇のうち九十九篇は、破りながら読んでも頭に残らなかった。
でも一行だけ、破る手が止まった行がある。
『君が笑うと、朝の鐘が少し遅れて聞こえる』。
悪くない、と思ってしまったのだ。悔しいことに。あの一行を書いた人が、どうしてこんなふうになってしまうのだろう。
殿下は羊皮紙を握りしめて、二本目の指を立てた。
「二つ! お前はこの三年、毎週木曜に聖女を屋敷に呼びつけ、泣かせていた! 聖女が赤い目で侯爵邸から出てくるのを、何人もが目撃している!」
今度は頷く顔が少なかった。
だが、それを聞いたペトラは私の手をそっと外した。
「……泣いてました」
「ほら見ろ!」
「毎週、泣いてました。だって……」
聖女様の唇が震えている。
大広間の全員が次の言葉を待って身を乗り出し、楽団の指揮者まで指揮棒を宙で停止した。
◇
「だって、お母さんのシチューが、おいしすぎるんですぅ!」
沈黙。
誰かの持っていた葡萄酒の杯が、かちりと鳴った。
「神殿のご飯、塩がないんです! お祈りの前は薄いお粥で、お祈りの後も薄いお粥で、お祭りの日だけ、ちょっと濃いお粥なんですよ!?」
「ペトラ」
「木曜にお屋敷の厨房に行くと、お母さんがシチュー作って待っててくれて、一口食べたら、もう駄目で……」
言いながら、また目が潤んでいる。思い出しただけで込み上げるらしい。
私は二枚目の手巾を渡した。こうなると予想していたので、今夜は三枚用意してある。
人垣の後ろで、学院の料理長が深々と頷く。完全に共感した顔だ。
分かるのね。あの方も神殿の粥を召し上がったことがおありなのかしら。
「シ、シチューごときで聖女が泣くものか!」
「ごときって何ですか!? お母さんのシチューは、王都で一番なんです!」
聖女様が噛みつくように言い返すと、殿下はたじろいで半歩下がった。
それでも羊皮紙は離さない。そこだけは立派だと思う。
「くっ……だとしても、だ。なぜ毎週、木曜なんだ。木曜だけ聖女が神殿にいないのは、お前が呼びつけているからだろう!」
ああ。
殿下、それは聞かないほうがよろしかったのに。
私が答えるより先に、人垣の端で靴音が一つ鳴った。
濃紺の騎士服の青年が、静かな足取りで前に進み出る。王国騎士団、聖女護衛隊の隊長、セオドア・ローエン様。
三年間、毎週木曜に聖女様を屋敷まで送り届けてくれた方だ。
「恐れながら、殿下。木曜の件は、護衛隊の判断でございます」
「なっ、ローエン? お前、何を……」
「護衛日誌をお持ちしました。聖女様の身辺に関わることは、すべて記録する決まりです。……もちろん、殿下のご来訪も」
セオドア様は革表紙の帳面を開いた。
低音である。声量は控えめなのに、大広間の隅々まで届く。
「三年前の夏から昨日までに、殿下が木曜に神殿を訪問された回数は九十一回。うち花束持参が四十回、竪琴持参が十二回。木曜は殿下の公務のない日です。殿下は毎回、聖女様のお部屋の前まで来られて、扉を叩かれました」
「そ、それは、聖女を見舞って……」
「神殿長と相談のうえ、木曜は聖女様を『外出中』とし、殿下が決してお出でにならない場所に避難していただくことにしました。アルトハイム侯爵邸です。殿下はこの六年、婚約者のお屋敷を一度もお訪ねになっていない。侯爵家の門番に確認済みです。違いますか?」
ざわめきの質が変わった。
さっきまで面白がっていた顔の数々が、いまは殿下に向く。少し引いた目で。
殿下は反論しようとして、言葉を探していらっしゃる。
探しても無いと思いますよ、殿下。
セオドア様は帳面の頁をめくった。
「昨年の春、木曜の夜。殿下は竪琴を抱えて神殿の東の塀を乗り越えようとされ、足を滑らせて、塀の内側の聖水の池に落ちられました。聖女様をお送りして戻ったところで、引き上げたのは私です。……ずいぶん重い竪琴でした」
今度は誰も吹き出さなかった。
全員、必死の我慢である。大広間の空気がぴんと張りつめて、小刻みに震える。
聖水の池。
君の瞳は聖水の池。僕はそこに落ちた一匹の蛙。
……殿下、あれ、実話だったんですか?
「け、蛙は比喩だ! あれは、聖女の瞳の深さを――」
詩集をいただいたのは昨年の秋。
池に落ちたのは昨年の春。
……順番からすると、比喩ではなく体験談である。
同じ計算をした人は、私の他にも大勢存在したらしい。
誰かが「春のほうが先……」と小声で言い、その一言で、とうとう堪えきれなくなった笑いが大広間の後ろから崩れてきた。
ごめんなさい、殿下。私も正直、危なかった。
ペトラが私の袖を引いた。
「お嬢様。隊長ね、殿下を池から引き上げた次の木曜、くしゃみしながら厨房の窓を直してたんですよ。お嬢様の席の後ろの、割れてたとこ!」
「え……そうだったの?」
記憶にある。春先の木曜、私の席の後ろで、セオドア様が鼻をすすりながら窓の硝子を交換していた。
おっしゃったのは「隙間風が入りますので」の一言だけで、風邪のことなど何も。
思い返せば、この方の木曜は毎回こうだった。
私が肩をすくめて本を読んでいると、何も言わずに廊下から肩掛けを取ってきてくださった。雨の日の帰りぎわには、玄関の泥除けの板がいつの間にか修理してあった。
聖女様への差し入れだという王都の菓子店の林檎の焼き菓子は、いつの頃からか、毎週、聖女様と料理番と私の分を足した数より一つ多かった。
余った一つは、いつも私の皿に乗った。「数え間違えました」と、三年間、毎週同じことをおっしゃって。
去年の誕生日もそうだ。
殿下から何の便りもない誕生日がこれで三年続いて、私は厨房の隅で平気な顔をして本を開いていた。そこに湯気の立つ杯が一つ。蜂蜜入りの温かい牛乳。
あの時も、この方は「聖女様の分を淹れたら、余りました」とおっしゃった。嘘が下手すぎる。
任務の一環。そう解釈していた。
聖女様の身辺の者に気を配るのも、護衛のお仕事なのだと。
……任務、よね?
「フィオナ様」
気づくと、セオドア様がすぐ横に立っていた。
帳面を小脇に抱え、視線は私の右手。
「手袋の釦が外れています」
「え?」
確認すると、手首の小さな真珠の釦が一つ外れていた。
セオドア様は大きな指で、驚くほど器用な手つきでそれを留めた。手袋越しに指の温かさが一瞬だけ伝わってくる。
「……あ、ありがとう、ございます」
「いいえ」
短く答えて、半歩下がる。
ちょっと待って。いま婚約破棄の最中ですのよ? なぜ私の釦なの?
顔が熱い。どうして私が照れているの?
ペトラが私の顔を見上げて、なぜか満足そうに頷いた。何よ、その顔。
「み、三つ目だ!」
殿下の声が大広間の笑いを切り裂いた。
もう羊皮紙は見ない。握りつぶされた紙が、指の間からはみ出す。自分で感動した文面なのに、いいの?
「三つ目は言い逃れできないぞ。お前はこの半年、王都の商会を回って、聖女の悪口を言いふらしていた! 僕の友人がはっきり聞いているんだ!」
殿下の後ろで、取り巻きの伯爵令息が青い顔をして頷いた。
「ぼ、僕は確かに聞きました! フィオナ嬢が宝飾店で『聖女様のお名前は、決して信用なさらないで』と……!」
……前後を全部切り落とすと、そう聞こえるのね。逆に感心してしまう。
大広間の視線が今度は私に集中する。
ペトラが私を見上げて、「お嬢様はそんなこと」と言いかけた。いいの、ペトラ。私は肩に置いた手でそれを止めた。
これは、この子に答えさせる罪状ではない。
「ええ、申しました」
「お嬢様!?」
「王都の商会、十七軒すべてに。私が自分の足で回って、申し上げましたわ」
◇
大広間が今夜一番大きくざわめいた。
殿下の顔に、やっと勝ち誇った色が戻ってくる。
「は、ははっ、聞いたか! 自分で認めたぞ!」
「あら。何を申し上げたかは、お聞きにならないのですか?」
殿下が口をつぐんだ。
この方はいつもそうだ。始まりだけ聞いて終わりを聞かない。詩集も、手紙も、私の話も。
私は人垣に向き直った。
「グラナート商会のコルネリア様。いらしていますわね?」
人垣が割れて、葡萄色のドレスの年配の女性が杖をつきながら前に出てきた。
王都で一番古い両替商、グラナート商会の女主人だ。お孫さんが今年の卒業生なので、今夜は祖母として招待されている。
……ということにして、私がお願いして来ていただいた。
「ええ、おりますよ、フィオナ様。あなたがうちの店先で言ったこと、一字一句覚えておりますとも」
コルネリア様はにこやかに殿下を見上げた。
「『聖女様のお名前で殿下がお金を借りにいらしても、決して貸さないでください』。そうおっしゃいましたね?」
「……っ」
「他の十六軒も同じことを聞いたそうですよ。あたしたちの寄り合いで、ずいぶん話題になりましてねえ。悪口と言えば、まあ、悪口かしら。殿下の、ですけれど」
殿下の顔から、血の気が音を立てて引いていった。
本当に音がした気がする。
半年で十七軒。父の馬車では目立つので、辻馬車を乗り継いで移動した。
三軒目の宝飾店では、店主が満面の笑みで婚約指輪の箱を並べ始めて、用件を説明したら露骨に落胆された。
五軒目の菓子店では、おかみさんに「あら、もしかして木曜の騎士様の、『焼き菓子を割って分けちゃうお嬢様』?」と聞かれた。何のことか分からなくて、曖昧に会釈して帰ってきたのだけれど。
コルネリア様は手提げから、折り畳んだ紙を一枚取り出した。
「これは一年前、殿下がうちで金貨五百枚をお借りになった時の借用書です。ほら、ご覧になって。担保の欄を」
私は紙を受け取り、殿下によく見えるように高く掲げた。
担保の欄には、殿下の癖のある字でこう書いてある。
『フィオナ・アルトハイムの持参金』
その上に横線が二本。
そして、その横に同じ字で書き足してある。
『聖女ペトラとの婚姻に伴い、神殿より王家に納められる寄進金』
「三月前に、殿下がご自分で書き換えにいらしたんですよ。前の担保が使えなくなったから、とおっしゃってね」
コルネリア様の口調は終始にこやかだ。
にこやかなまま、一切容赦しない。
「前の担保が使えなくなったのは、半年前にフィオナ様がこの借用書のことをお知りになって、お父上に、持参金をご本人の名義のまま、夫となる方でも手を付けられないようにしていただいたからです。ねえ、フィオナ様?」
「ええ。私の知らないところで、私の持参金が質に入っていたんですもの」
半年前、コルネリア様から「念のため」と問い合わせの手紙が届いた夜のことは忘れようがない。
腹が立った。だが、それより先に悲しかった。
殿下は私と結婚するつもりでいらした。私の持参金で借金を返すつもりで。
それが使えないと分かった途端に、婚約者を替えることにしたのだ。次の財布として。
そこまで考えると、胸の奥がしんと冷えた。怒りとは違う。六年間、私は殿下にとって何だったのだろう、と。
持参金に手が付けられなくなれば、殿下が次に誰の名前を持ち出すか。毎朝聖女様を追いかけ回す姿を見ていれば、想像するのは難しくなかった。だから十七軒を回ったのだ。
「ちなみに、五百枚の使い道も控えてございますよ」
コルネリア様が帳面をめくった。
「名工の竪琴が一台、金貨二百枚。前のお品では音が足りないとかで、二台目だそうですよ。詩集の装丁が八十枚。聖女様への贈り物が、首飾りに耳飾りに絹の靴に、しめて百九十枚。こちらは全部突き返されて、うちの系列の質屋に流れてまいりました。それと、縄梯子が一本。銀貨三枚」
「縄梯子……」
誰かが呟いた。
神殿の塀。竪琴。聖水の池。大広間の全員の頭の中で、一枚の絵が完成する音がした。
「な、縄梯子は、星を見るために……!」
「神殿の塀の上で、でございますか?」
セオドア様の淡々とした確認に、殿下は今度こそ口を閉じた。
「……わたしを」
腕の中で、ペトラが低い声を出した。
まずい。この声には聞き覚えがある。十歳の冬、厨房で料理番見習いの男の子に「平民のちび」と言われた時の声だ。
「わたしを、質に入れたんですか?」
「ペトラ、落ち着いて」
「冗談じゃねえです! わたし、殿下と結婚するなんて、一回も言ってねえです!」
聖女様の下町言葉が大広間の高い天井にこだました。
最前列の神殿の司祭様が両手で顔を覆う。
殿下は二歩下がり、すがるように声を張り上げた。
「ち、違う! 借金は婚姻すれば返せるんだ! それに、聖女は僕を愛している!」
「愛してません!」
「毎朝! 学院の廊下で、聖女は僕に微笑んでくれる! あんなに美しい笑顔を、他の誰にも向けていないじゃないか!」
殿下の声には本気の熱がこもる。
この方は本当にそう信じているのだ。そこだけは嘘ではない。
毎朝の微笑み。
……あ。
嫌な予感しかしない。恐る恐る、腕の中の聖女様を見下ろす。
聖女様も私を見上げた。そして、ものすごく良い笑顔で、こっくりと頷いた。
待って。ペトラ、待ちなさい。
それは。
◇
「あれは、お嬢様に教わった『嫌な人ほど、にっこり会釈』です!」
大広間の空気が底まで沈んだ。
もう誰も笑わなかった。笑えなかった、が正しいと思う。
「十歳の時、厨房で意地悪されて泣いてたら、お嬢様が教えてくれたんです! 『嫌な人にこそ、一番綺麗に笑って会釈なさい。そうすれば、向こうはもう何も言えなくなるから』って!」
「ペトラ、もういいわ」
「それからわたし、嫌な人には毎朝にっこりしてるんです! 神殿長様のお説教が長い時も、にっこりです!」
最前列の司祭様の肩がびくりと跳ねた。
神殿長様は今夜いらしていない。良かった。本当に良かった。
殿下は口を開けたまま硬直していた。
やがて、錆びた蝶番みたいな動きで首を回し、私を見た。
私は毎朝そうしているように、殿下に微笑んでしまった。
淑女の礼儀として。というより、ただの癖で。
殿下の目が大きく見開かれた。
何かに気づいた顔。
「……お前も、毎朝……?」
「お嬢様が一番お上手なんです! お屋敷で一番!」
ペトラ。お願い。
もう何も言わないで。
殿下はよろめいて、近くの柱に手をついた。
大広間の誰も手を貸さない。取り巻きの伯爵令息は、いつの間にか人垣の後ろに退散している。
気の毒だ、と思った。爪の先ほどの量だが。
六年前の婚約の日、十二歳の殿下は押し花の栞をくださった。紫の菫に、拙い字で一行。『きみのえがおがすきです』。
あの頃の殿下の詩は、百篇の詩集よりはるかにましだった。
あの栞は、いまも私の机の引き出しにある。
捨てられなかった。捨てなくてよかったとも、捨てればよかったとも思う。両方とも本心で、両方とも胸に刺さる。
「――もうよい」
大広間の奥、壇の上から低い声が落ちてきた。
国王陛下だった。卒業夜会には毎年陛下がお出ましになって、今夜も最初から壇上の椅子で一部始終を観覧なさっていた。
陛下は椅子から立ち上がり、一段ずつ壇を降りてこられた。
人垣が音もなく割れる。私はペトラを離して深く腰を落とし、ペトラも慌てて、少しずれた礼をした。
「グラナートの。その借用書を余に」
「はい、陛下」
私が手渡した紙を、コルネリア様が恭しく陛下に差し出す。陛下はそれを長い時間をかけて読んだ。
陛下の視線は担保の欄、二本の横線の上で停止した。
長い沈黙のあと、陛下は借用書から目を上げて、私をご覧になった。
「……アルトハイムの娘。今宵のことは、若気の至りとして余に預けてはくれぬか。借金は王家が肩代わりする。婚約のことは、日を改めて両家で――」
胃の底が冷たくなった。待って、陛下まで?
陛下のお顔は、王の顔というより、息子をかばう父親の顔だった。
ここで頷けば、何もかも丸く収まる。父の立場も、侯爵家の体面も守れる。王家に恩を売ったことにさえなる。
十八年、私はそうやって収めることを教わってきた。毎朝のにっこり会釈も、その延長だ。
でも、それで収めたら。
次に横線を引かれて書き足されるのは、誰の名前?
「恐れながら、陛下。お受けいたしかねます」
大広間の空気が、今度こそ凍りついた。
国王陛下のお言葉を、正面から断る令嬢。私だって、昨日までの自分なら卒倒している。
膝が震えているのが、裾の中で自分でも分かった。
「殿下が質に入れたのは、私の持参金だけではございません。聖女様もです。……私がここで収めてしまえば、次に質に入るのは、また別の誰かですわ」
隣で、ペトラが息を呑む音がした。ごめんね、怖がらせて。でも、ここは引けないの。
「……アルトハイムの娘。王家の頼みを退けるということが、どういう意味か分かっておるのか」
「承知のうえでございます」
声が裏返らなかったのは奇跡だと思う。
陛下の眉間の皺が深くなった、その時だった。
「陛下!」
ペトラが私の前に飛び出した。
少しずれた礼のまま、聖女様は国王陛下をまっすぐ見上げる。
「わたし、わたしを質に入れた人のお嫁さんには、絶対になりません! 神殿長様にもそう言います! お嬢様を困らせるなら、わたし、王家の方にはもう誰にも、にっこりしません!」
最後のはどういう脅しなの、ペトラ。
けれど司祭様の顔色が変わり、大広間がざわりと揺れた。聖女の「否」は、神殿の否だ。それを王家が押し切れば、どうなるか。分からない人はこの場にいない。
陛下は私とペトラを交互に見て、長い、長い息を吐いた。
「……そうか。そうであったな。余が収めようとしたのは、愚息の体面だけであった」
陛下は殿下に向き直った。
「アルフォンス」
「ち、父上、これは、その……!」
「聖女は誰の物だ」
殿下の唇が動いて、何の音も出なかった。
陛下の声は大きくない。だが、大広間の誰もが息を止めていた。
「答えよ。聖女は、誰の物だ」
「……そ、それは……」
「答えられぬか。ならば、そなたに王太子の位は重すぎる」
陛下は借用書を畳んで懐に入れた。
「婚約の破棄は認める。言い出したのはそなただ。王太子の位は余が預かる。借金はそなたの私財から返せ。足りぬ分は働いて返すがよい」
「は、働いて……?」
「神殿で下働きの人手が足りぬと、神殿長がこぼしておったわ。ちょうどよい。聖水の池の掃除から始めよ。落ちたことがあるなら、深さは分かっておろう?」
どこかでまた誰かが吹き出しかけて、慌てて咳でごまかした。
殿下は膝から崩れ落ちた。竪琴を抱えて塀を越えた方の膝は、意外と簡単に折れるものらしい。
それから殿下は這うようにして、私の裾に手を伸ばした。
「フィ、フィオナ……君は僕の婚約者だろう? 助けてくれ、父上に何か言ってくれよ……!」
「殿下。元、でございます」
私は裾を引いて、一歩下がった。
冷たい言い方だったかしら。でも、これ以上やさしい言い方を、私はもう持っていない。
言い終えた途端、胸の奥で何かがことりと落ちた。六年分の重さだったのかもしれない。軽くなったのに、どこか寂しい。
ペトラが勢いよく手を挙げた。
「陛下! 池の掃除なら、わたしが監督します!」
「……聖女殿に任せる」
「はいっ! お昼のお粥も、殿下の分をちゃんと用意しておきますね! 塩抜きで!」
床の上の殿下が小さく呻いた。
陛下の肩が一度だけ揺れたように見えたのは、きっと気のせいである。
陛下は小さく息をついて、私に向き直った。
私はもう一度腰を落とした。
「アルトハイムの娘。愚息が迷惑をかけたな」
「もったいないお言葉にございます」
「一つ聞く。聖女の出自を、そなたはずっと知っていたな。なぜ黙っていた? 侯爵家の者だと言えば、そなたの家の誉れになったであろうに」
答えは、三年前から決まっていた。
「聖女様は、誰の物でもございません。侯爵家の物でも、殿下の物でも」
今度は、陛下の目が短く私の上を通り過ぎた。
やがて、髭の下の口の端がかすかに持ち上がり、「そうか」とおっしゃった。
◇
夜会の終わる頃、月はもう高い。
私は大広間を抜け出して学院の中庭に出た。去年の秋、金の箔押しの詩集を破った、あの中庭だ。
石の腰掛けに座った途端、裾の中で震えていた膝が、とうとう隠せないほどがくがくし始めた。
私、陛下に「お受けいたしかねます」って言ったのよね? 国王陛下に?
今ごろ実感が追いついてくるなんて。遅い。私の膝より、私の頭のほうが遅い。
「フィオナ様」
振り向くと、セオドア様が立っていた。
腕に私の肩掛けを持っている。控えの間に置いてきたはずの品である。
「冷えますよ」
「……どうして、それがここに?」
「控えの間の侍女に、フィオナ様の物はどれかと聞きました」
セオドア様は私の肩に肩掛けをかけると、腰掛けの端に、ずいぶん距離をあけて座った。
騎士の礼儀なのだろう。おそらく。
「今夜は、ありがとうございました。護衛日誌まで持ってきてくださって」
「職務ですから」
「昨日、屋敷まで知らせに来てくださったのも?」
「……あれは、職務ではありません」
風が植え込みを揺らした。
セオドア様は膝の上で両手を組み、月を見上げた。
「殿下の取り巻きが酒場で今夜の段取りを相談しているのを、部下が耳にして報告してきました。聞いた瞬間に、あなたが一人で大広間に立つのは嫌だと思った。それだけです」
それだけ、の中身が大きすぎませんか。
私が何か言う前に、セオドア様は続けた。
「三年前の夏の終わり、初めて聖女様を侯爵邸にお送りした日。厨房でフィオナ様は、聖女様に林檎の焼き菓子を半分に割って渡していました。ご自分の分を」
「まあ……覚えていませんわ」
「でしょうね。最初の一月、毎週そうしていましたから」
え。
毎週?
「だから、一つ多く買うことにしました。フィオナ様が割らずに済むように。……一度だけ本当に数え間違えて二つ多く買って、二つとも聖女様に食べられましたが」
あの週ね。覚えている。ペトラが両手に一つずつ持って、幸せそうに頬張っていた週だ。
五軒目の菓子店のおかみさんの声が、耳の奥で鳴った。焼き菓子を割って分けちゃうお嬢様。
あれ、私のことだったの?
数え間違えました、と三年間言い続けた人が、月に向かってそう告白した。
どうしよう。私は肩掛けの端を握りしめた。指先が熱い。顔も熱い。夜風はちっとも冷たくないのに、肩掛けを返す気にはなれなかった。
うそ。
待って。それは、任務の一環ではないの?
「二年前に一度、侯爵閣下にお目通りを願ったことがあります。『娘には王命の婚約者がいる。帰れ』と、一言で追い返されました」
「えっ、お父様が?」
「その翌週から、聖女様をお送りした後に、毎週木曜、閣下の剣の稽古の相手をさせられています。……あれが何だったのか、私にもまだ分かりません」
稽古なら知っている。木曜の夕方、裏庭で父とセオドア様が打ち合っているのは、厨房の窓から毎週見ていた。父のいつもの剣術道楽に付き合わされて、お気の毒に、とばかり思っていたのだ。
でも、目通りの話は知らない。一度も聞いていない。
追い返した翌週から、毎週呼びつけていたのね。お父様、それ、娘としてどう受け取ればいいの?
「婚約者のいる方に、言うべきことではないと思っていました。ですが」
セオドア様がこちらを向いた。
いつもは聖女様の背中ばかり追っている灰色の目が、今夜は私の顔から動かない。
「今夜から、あなたに婚約者はいない。……来週の木曜も、あの厨房に行ってもいいですか?」
「それは、ペトラの護衛ですもの。当然……」
「聖女様の護衛としてではなく」
セオドア様は勢いよく立ち上がり、私の前に膝をつこうとして、腰の剣の鞘を石の腰掛けにがつんとぶつけた。静かな中庭に、ひどく間の抜けた音が響く。
セオドア様は一瞬目を閉じて、何事もなかった顔で膝をつき直した。耳まで真っ赤である。
……大広間ではあんなに落ち着いていたのに?
大きな手が膝の上で固く握られている。この人でも緊張するのだ、と思ったら、なぜか胸が苦しくなった。
「できれば、一生」
返事をしようとして、声が出なかった。嬉しすぎると喉が詰まるなんて、知らなかった。
はい、と言いたい。でも、婚約破棄されたその夜に、はいと言っていいの? はしたないと思われない? 父に何と言えば? いや、父は絶対に喜ぶ。むしろ小躍りする。
迷ったのは三つ数えるほどの間。
毎朝殿下に向けていた顔とはまるで違う顔になっているのが、自分でも分かった。頬が勝手に緩んで、目の奥がじんと熱くて、どうしようもなく嬉しい顔。
「……はい。一生、木曜に」
セオドア様の肩から、目に見えて力が抜けた。
灰色の目が私の右手に落ちて、困ったように眉が下がる。
「……また、釦が外れています」
「あら」
事実、外れている。さっき肩掛けの端を握りしめた時に外れたらしい。わざとではない。断じて。
大きな指が、今度はさっきより丁寧に釦を留めていく。留め終わっても、その指はしばらく私の手首から離れなかった。
「わざと外した、と申し上げたら、どうなさいます?」
嘘である。でも、一度言ってみたかった。
「……毎日、留めに伺います」
ああもう。この人、真顔で何を言うの。
心臓がうるさくて、自分の声がよく聞こえない。
植え込みが、がさっと揺れた。
「やったぁぁ! 三年前から知ってましたぁ!」
白い礼装に葉っぱをいっぱいつけた聖女様が、植え込みから転がり出てきた。
セオドア様が額を押さえる。心臓が口から出るかと思った。私は腰掛けから跳ね上がった。
「ちょっと、ペトラ!? あなた、いつからそこに!」
「最初からです! 隊長、お嬢様のことずっと好きだったのに全然言わないから、わたし毎週、焼き菓子の数を数えてたんですよ!」
「はあ……聖女様。護衛の私を撒いて植え込みに入らないでください」
「隊長が気づかなかったんです! お嬢様しか見てないから!」
反論できない顔で、セオドア様が口を閉じた。
私は聖女様の頭から葉っぱを一枚ずつ取りながら、とうとう声を立てて笑ってしまった。だって、可笑しくて、嬉しくて、もうどうしようもない。
今夜初めての、癖ではない笑い。お腹の底から勝手にこみ上げてきて、止めようとしても止まらなかった。
◇
翌年の春の木曜。
侯爵邸の厨房に、朝からシチューの匂いが立ちこめる。
「お母さん、おかわり!」
「聖女様、三杯目ですよ」
「神殿のご飯は塩がないの!」
ヒルデが呆れ顔で鍋をかき回し、ペトラが空の皿を差し出している。
窓辺の席では、私の婚約者が林檎の焼き菓子を数えている。
「セオドア様。今日はいくつ?」
「四つです。聖女様と、料理番と、あなたと、私の分」
「あら。今日は数え間違えないのね」
「……もう、言い訳を付けて渡さなくてもいいでしょう?」
三年間、この人は言い訳を一つ添えないと、私に焼き菓子一つ渡せなかったのだ。
胸の奥がくすぐったくなって、私は焼き菓子を一つ手に取った。まだ温かい。
厨房の入口から、父がひょいと顔を出した。
「おお、ローエン君! 来ていたか。食後に一手、稽古をつけてくれんかね?」
「お父様、セオドア様は毎週いらしてますわ。もう婚約者ですもの」
「そうだったそうだった。いやあ、毎週稽古に呼んだ甲斐があったなあ!」
最初に追い返したのはどなたでしたかしら、お父様。
「旦那様、隊長に稽古をつけてもらうたびに腰を痛めてるじゃないですかぁ」
「湿布ならもう用意してございますよ」
ペトラとヒルデに母娘そろって言われて、父は聞こえないふりで焼き菓子の皿を覗き込んだ。四つしかないのを確認して、しょんぼりと肩を落とす。
ペトラが二枚目の皿を空にしながら、思い出したように前掛けの隠しを探った。
「そうだ、お嬢様。これ、殿下から。池の掃除の合間に書いたんですって」
差し出されたのは、少々湿った封筒。
中には便箋が一枚。詩ではなかった。
『池の水は冷たい。君の笑顔は、たぶん一度も僕のものではなかった。すまなかった』
殿下がこれまでに書いたものの中で、一番いい文章だと思った。
思ってしまってから可笑しくなって、それから鼻の奥がつんとした。
便箋を裏返すと、小さな字で追伸があった。
『追伸。池の蛙に捧ぐ十篇を別紙で送る』
……前言撤回。この方、全然懲りていない。
封筒の底には、確かに分厚い別紙が折り畳まれていた。
横から覗き込んでいたセオドア様が「……少し妬けます」と真顔で呟く。妬く相手が池の掃除係でいいのかしら。
私は部屋から菫の栞を取ってきて、返事の封筒に入れた。
『殿下のお品ですので、お返しいたします。池のお掃除、どうぞご無理なく』
そう書き添えて封をすると、ペトラが「にっこり会釈より効きますよ、それ」と神妙な顔で頷いた。
「そうそう、神殿長様からも伝言です。『聖水の池が、建立以来一番綺麗になった』って!」
「まあ。殿下、頑張っていらっしゃるのね」
「毎朝、にっこり会釈して励ましてます!」
ペトラ。
それは、たぶん励ましになっていないわ。
セオドア様が肩を震わせて窓の外を向き、ヒルデが鍋の前で吹き出した。
私は手の中の焼き菓子を半分に割って、隣の大きな手に渡した。甘い林檎の匂いがふわりと立つ。
セオドア様は半分を受け取ると、少し考えてから、それをさらに半分に割って私の口元に差し出した。
「……これで、あなたの分のほうが多い」
「もう、数えなくていいって言ったのに」
言いながら、私は差し出されたひとかけらを、そのままぱくりと食べた。
ペトラが「きゃあ」と両手で顔を覆い、指の隙間からしっかり見ている。
秋には婚礼がある。
そうしたら私はフィオナ・ローエンになって、木曜だけでなく、毎日この人の隣で焼き菓子を割るのだ。
数を数えなくていい木曜日は、思っていたよりずっと甘かった。




