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苦手な方はご注意ください。

金平糖

作者: 佐々木 雨

「やあ、また来たね」


しんしんと冷える廊下は、足音さえも飲み込んで凍てついている。

窓の外は夜の闇。

その中にかすんだ満月のようにぼうっと浮かび上がるのは、校庭に備えつけられたポールの先の丸時計。

時刻は午後七時。

真冬の校内にはもうほとんどひと気がない。


「また来たって、ここオレの教室ですけど」

「僕の教室だよ、今はね」


橙がかかったあわいひかりの中で、はちみつ色のセーターを着たコンがにこりと笑う。

コン、というのはあだ名だ。

本名は知らない。

彼は僕を「テラ」と呼ぶ。

寺町浩介という僕の名前も、彼は知らない。

数日前、たまたま僕らはこの教室で出会った。


「鞄置いてあったからテラが来ると思ってた。図書室に行ったろ?」

「なんでわかんの?」

「古い紙の匂いがする」


そんなわけあるかと思って袖を鼻に近づけると、コンがくすくす笑った。


「なんちゃって」

「……てめ、からかったな」

「年上にてめえはないだろ」

「年上ヅラすんな。学年は一緒じゃないか」


コンはうちの高校で開設している夜間コースの二年生だ。

普段なら夜間の授業は中庭のむこうの別棟で行われるが、校舎が改装工事の間だけ僕の教室が代わりに使われることになった。

ここ数日HRなんてろくに聞いてもいなかったので、誰もいない教室にコンを見つけた時は不審者かと驚いたものだ。


僕はいつものように窓ぎわ前から五番目の席に座る。

コンのひとつ後ろ。

そこが昼間の僕の席だ。

教室の隅で見覚えのないガスストーブが熱を放っている。

ブリキの薬缶がしゅんしゅんと音を立て、白い蒸気を吐く。

ずいぶんと古いストーブだ。

夜だけ用務員さんが出しているのだろうかなどとぼんやり考える。


―――夜の教室はなんだか別世界。


古い映画のスクリーンを見ているようなオレンジのやわらかい光。

止まった時の中で足下に投げられた影がゆらゆらゆれる。

コンはいつも窓ぎわの一列しか電気をつけない。

そのせいか、教室の反対側は濃い影におおわれ、よどんでいる。

席に座って眺めていると、次第に僕らのいる一列だけが現実の世界なんじゃないかと思えてくる。


「今日は何色がいい?」


コンが机から巾着袋を取り出した。

濃い紫に鼠色の染め抜き。

組み紐は山吹色の飾り紐。

まるで田舎のお祖母さんが片手に下げていそうなその小さい包みを、コンは初めて逢った夜も僕に差し出した。


「何色が残ってる?」

「開けてごらん」


ひなびた巾着袋は、組み紐をほどくと口が大きく横に開く。

中身は知っている。

雪の結晶の形をした、小さな粒。


「…あと七粒か」

「テラが甘いもの好きでよかった」

「……今日はこれにする」


七つの小さな粒はひとつひとつ違う色をしている。

初めて見た時はこの倍の数が入っていた。

どれも違う色をして、砂糖の衣をまとい、きらきらと僕の指に拾い上げられるのを待っていた。


選んだうぐいす色の粒をひとつつまんで、口に放り込む。

とたんにふわりと広がるやさしい甘み。

舌でころがすと、歯にあたってからころと音が鳴った。


「知ってる?金平糖ってほんとは雪の女王様が流した涙なんだよ」

「……」


虚を突かれ、僕は呆けたような顔でコンを見つめた。

彼は時々不思議なことを言う。

僕より三つ四つは年上だろうに、こんな話を真顔で話す。

笑われるとも思っていない。

どこかズレている。

だけど厭じゃなかった。


「空のずっと上に雪の女王がいて、彼女が落とした涙の粒が金平糖になるんだ」

「……でも涙じゃしょっぱいだろ」

「そうさ。だからたいていの粒は塩分に負けて雲の底あたりで溶けてしまう。でもほんのたまに、あんまり悲しみが強い時は大きな粒が底を抜けてくるのさ。そいつは時間をかけてゆっくりゆっくり落ちてくるんだ。長い時は何十年もかけて」

「……」

「時間っていうのは、この世で唯一誰もが使える魔法なんだよ。その魔法がかかると、しょっぱかった粒はだんだん甘くなって、最後には砂糖でできたみたいになるんだ。それが、これ」


そう言ってコンは僕の口元を指さした。


「もとはしょっぱかったなんて想像もできないだろ?」

「……その人は」

「うん?」

「その人は、なんで泣いてるの」


口の中でかり、と音がした。

涙の粒が欠けて、甘い香りが広がった。


「さあ、寂しいのかもな。空の上にずっと一人で。寒いだろうし、話し相手もいないし」

「ふーん……そう」

「昼間のクラスはどう?今日は何の授業だった?」

「どうっていつもと同じだよ。数学、物理、古文。そっちは」

「僕も国語だ」


コンは腕をくいっと持ち上げて机の上に積んでいた教科書を見せた。

いかめしい字で「高等國語」と書いてある。

古い本の匂いというならそれこそコンの教科書からただよってきそうだった。

紙の端はすりきれているし、何より紐綴じだ。

夜間コースにはそんな教科書があるのだろうか。


「前から気になってたんだけど、ずいぶん古い教科書使ってるんだな」

「ああ、これ、兄貴のおさがりだから」

「そうじゃなくて……いや、何でもない」


変なの、と言ってコンが笑った。

笑うと子供っぽい顔がいっそう子供っぽくなる。

僕は巾着袋にもう一度手をのばした。


「だめだよ、一晩に一粒だけ。そう言ったろ」


コンがあわてて巾着袋の紐をしめ、机に隠す。

最初の晩ここで出会った時、コンは僕にこう言った。


―――食べると嫌なことを忘れられる魔法の砂糖菓子。ただし一晩に一粒だけだよ。約束だからね。


「ケチくさいな。いいだろもうひとつぐらい」

「そういう決まりなんだから仕方ないだろ。二粒以上食べると……」

「食べると?」

「……虫歯になる」


まじめくさって僕を見つめ返す瞳に、つい吹き出した。


「バカにしてんのか」

「大変なことがおきるって言ってんの」

「あーはいはい。いいよ明日また来るから」

「わかればよし。そろそろ他の人達が来るよ。行きな。また明日、テラ」

「ああ、またな」


手をふって、ゆれる影の合間をドアの方へと向かう。

机の足から黒い影がのびて僕をつかまえようとするのをひらりとかわし、夜の冷気が満ちている廊下へ出た。

戸口のところでふりかえると、オレンジの光の中でコンが手をふった。


―――また明日。


微笑んで手を上げた僕を、コンはやさしい眼差しで見送ってくれた。



***



昼の教室は嫌いだ。


がらりとドアを開けると、一瞬だけ空気がしんとする。

この瞬間が一日で一番嫌いだ。


ドアの近くには一年次から仲のよかった親友が座っている。

名前は麻生。

だけど彼は今、僕を見ない。

麻生だけではなく、この教室にいる数十人の誰もが僕と目を合わせようとせずに一日を送っている。

そしてそのことについて触れる者はいない。


つまり、シカトというやつだった。


三週間前のあの日から。


朝、登校してから授業が始まるまでの数分間が一番苦痛だ。

いったん授業が始まってしまえば、あとは誰とも話さず、目も合わせず、時が流れるのを待っていればいい。

けれどそれまでは、にぎやかな教室の中、誰ともしゃべれない時間を耐えなければならない。

だからここ数日、わざと遅刻ぎりぎりに登校することを覚えた。

これなら誰とも話せなくても気にしなくて済む。


―――面倒くさい。


担任を待つわずかな時間に、コンが夜間座っているひとつ前の席をぼんやりと眺めた。

そこには三週間前から背の低い女子生徒が座っている。

本来その席に座っていたのは体格のいい男子で、彼がいなくなってからやけに視界がよくなってしまい落ち着かない。

その男子生徒は今、四列向こうの廊下ぎわに座っている。

交換したのだ。

僕の前の女子に何と言ったのかは知らない。

黒板がよく見えないとか、暖房がききすぎるとか、適当な理由をつけたんだろう。

ただ、理由がどうであれ、このクラスの誰もが本当の理由を察していることは確かだ。


僕に背中から見つめられるのが嫌だったから。


―――キモイ、と言われた時の気持ちをいまだにリアルに覚えている。

彼は、クラスの花形だった。

声も身長も大きく、スポーツができて、よく目立っていた。

強者ぞろいのラグビー部で二年生ながらレギュラーをはっている。

成績は中より下だけれど、それが逆に親しみやすさという魅力に映る得な人間だ。

彼より少しでも勉強ができる女子はこぞってノートやら参考書やらを貸し出して、彼がわからない問題を聞きに来るのを楽しんでいる。

テスト期間なんてまるでお祭り騒ぎだ。

けれど、そんな女子たちを僕は責められない。

ひとつ後ろの席に座っていた僕を、彼は辞書がわりによく使っていた。

授業中指されてわからないと困った顔で振り返る彼を、胸を高鳴らせながら待っていたのは僕だ。

あの言葉を鵜呑みにして馬鹿みたいに浮かれていたのは僕だ。

その結果がこれだというのなら、自業自得以外の何物でもない。


憧れていたはずの背中が、今ではもうそちらに目をやることさえ躊躇われる。


担任が入ってきてHRが始まった。

一日が始まる。

退屈で、面倒で、何も考えたくない昼の学校が始まる。


―――コンに会いたい。


今日も放課後は図書室で時間をつぶそう。

クラスメイト達と下校の時間帯をずらすために、帰りのHRの前に抜け出してどこかで暇をつぶすのが、こうなってからの僕の日課だった。


夜になればコンに会える。


深く息を吸って、はちみつ色のセーターとやさしい笑顔を思い出すと、少しだけ呼吸が楽になった。



***



「あいつ、またお前のこと見てたぜ」


体育の後、かわいた砂ぼこりの匂いのするジャージを羽織ったまま、僕は廊下に立ちつくしていた。

目の前には「男子更衣室」と書かれた白い扉がある。

四角く切り取られた摺りガラスの向こうから数人の男子生徒の声がする。

ひときわよく通る声で応じたのは彼だった。


「まじかよ。ありえねーな」


その声に群がるように複数の媚びた笑いが続く。


「授業中とかちらちら見てんだぜ。まじキモいよな」

「これクラス替えしてもらうしかねーよ」

「バーカ、担任に何て言うんだよ。ホモがいるからクラス替えして下さいってか?」

「あっちが出てけって話だろ」

「あいつがいると教室の空気がまずくなる」


この三週間でずいぶん陰口には慣れたつもりだったが、どうやら思い上がりだったようだ。

まるで足を釘で打ちつけられたように身動きが取れなかった。

聞きたくない。

逃げ出したい。

なのに足が動かない。

自分の悪口を盗み聞きするのは、毒のある蜜をそれと知りながらやめられないようなものだ。

聞きたくないはずなのに、どこかで最後まで聞きたいと願っている自分がいる。

僕の葛藤をよそに、下卑た噂話は続いていた。


「そういやお前、実際にはなんて言われたんだ?まさかいきなり襲われたわけじゃないだろ」

「阿呆、あんな軟弱なのに俺がどうこうされるわけねーだろ」

「じゃあ」


彼は一呼吸間を置いて、思い出したようにくぐもった笑い声を立てた。


「あいつ、部活帰りに校門のとこで待ち伏せしてやがったんだ。何かと思ったら、必死な目ェしてさ、『好きです。付き合って下さい』」

「うわっ、こえー。本格的」

「だろ?しかも先輩たちが近くにいる所でだぞ?ドン引きだろ」

「人前でとかぜってーありえねー」

「何あいつ、思い込み激しい系?」

「うわ鳥肌立ってきた」

「完全ホンモノじゃん。キモすぎる」


悪意まじりの笑い声が、扉の前に立ち尽くしたままの僕の耳をかすめていく。

腹の中に煮えた泥を流し込まれたみたいに、体がどろどろと重い。


と、彼の声が響いた。


「なあ、そう思うだろ、麻生も」


血がどくんと鳴った。


いるのか。

麻生がそこに。

今のを聞かれたのか、全部。


押し殺したような空気のあと、やがて小さく答える声がした。


「……まあ、な」


何かが壊れる音がした。

それだけで十分だった。


半歩、かかとが後ろに動くと、とたんに呪縛が解けた。

僕は弾かれたように廊下の向こう側へと駆け出した。


後ろでガラリと扉が開く音がしたが、振り返らなかった。



***



「だからね、『ゆかし』っていうのは『行きたい』っていうのが語源なんだ。でも体じゃなくて、心がどこかへ向かって行きたいって意味。だから、心が物へ向かえば『見たい・聞きたい・知りたい』になるし、人へ向かえば『心が惹かれる』ってことになる。わかる?」

「うん」

「ここの場合は、主人公がいろんな物語の噂を聞いて、『いとどゆかしさまされど』だから、向かう対象は」

「―――物語。そうか、だから『読みたい』って意味になるのか」

「当たり」


机の上に広げた参考書を挟んで、コンがにっこりと笑った。

夜の教室にはいつものストーブが出されていて、やさしい光を投げていた。

すみれ色の金平糖を口の中で転がしながら、僕はコンの無駄のない解説にうなりを上げていた。


「コン、教え方うまいんだな。古文得意なのか」

「得意というか、ずっと読んでたから大抵わかるよ。昼間の暇つぶしは大体古典かラジオの上方落語なんだ」

「かみがた…?」

「じいさん達の趣味さ」


年配の同僚でもいるのだろうかと、僕はぼんやり考えた。

コンの昼間の生活のことは何も知らない。

夜間コースに通っているくらいだから、きっと社会人として働いているんだろう、ぐらいのことしか想像はつかない。

けれど知らなくてもいいような気がしていた。

コンが昼間どこで何をしているか、どんな人たちと関わっているのか、知らなくてもかまわない。

だってコンはここにいる。

夜の教室にいて、僕の前の席に座って、二人で話をしている。

それだけで日中重く淀んだ気持ちが少し軽くなる気がした。


僕は参考書をめくり、答えの箇所にマーカーを引いた。

薄い蛍光色の線が、コンの教えてくれた「ゆかし」の解説欄をぐるりと囲んだ。


「こっちの問題は?」

「どれどれ」


本当は、そこは今やらなくてもいいページだ。

次のテストに出るわけでもないし、塾で課題に出たわけでもない。

ただコンと長く話していたいだけだった。

気づかれやしないかと思ったけれど、コンは疑問に思う素振りもなく、頭を寄せて参考書を覗き込んだ。

近くなる距離に一瞬だけ胸が鳴った。


「枕草子の穴埋めか。定番だなあ。テラ、これくらい答えられるだろ」

「秋まではわかる。冬は覚えてない」

「冬はつとめて、さ」

「つとめて?」

「早朝、だな。朝早い時間」


ふうん、と何気ない返事をした。

コンが少し体を動かすたびに、髪の毛の匂いがふわりと届く。

僕よりもひとまわり広い肩幅。

大人の男を思わせる骨ばった大きな手。

昼間同じ席に座っていたあいつとは違う、知的でおだやかな声。


参考書を覗き込む時にセーターの襟ぐりが少しだけ開き、胸元が見えた。

鎖骨の数センチ下あたりに、引っかけたような古い傷痕があった。

無意識にぼんやり見ている僕の視線を、不意にコンがとらえた。


「お、オレは夜のほうがいいな」


至近距離で見つめられ、つい上擦った声で言葉を返す。


「テラは夜のほうが好きなんだ?」

「だって冬の朝なんて寒いし、起きるの大変だし。……学校行きたくなくなるし」

「冬の夜も寒いよ?」

「今寒くないじゃん」

「そりゃストーブつけてりゃ……」


ふと、コンが口をつぐんだ。

ストーブがどうかしたのだろうか。


一瞬ののち、コンは「ああ、そっか」と肩の力を抜いて笑い、からかうように言った。


「僕に会えるから、かな?」

「なっ……」


いたずらっぽく微笑まれて、胸が大きく跳ねた。


「そんなこと思ってないよ。この自意識過剰」

「失礼だな。本気にするなよ」

「するよ、何だよ今のセリフ。あんた年上のくせに節操なしかよ」

「年と節操は関係ないぞ。それにこないだは年上ヅラするなって言ったじゃないか」

「それはそれ、これはこれだろ」

「都合がいいなあ」


困った顔をしてみせるコンを見て、僕は吹き出した。

目が合うとコンも笑い出した。

声を上げて笑ったのなんて何週間ぶりだろうと、頭の奥でふと思った。

ひどくすっきりした気分だった。


金平糖―――嫌なことを忘れられる魔法の砂糖菓子。


あの日コンが言ったことは本当だったのかもしれない。

ひとつひとつ色の違うちいさな粒をそっと口に放り込むたびに、見えないところで何かが変わっていたのかもしれない。

コンがいて、たわいもない話をして、またねと手を振ってもらって。

たったそれだけのことが、こんなにも心を埋めてくれていた。

誰ともしゃべれず、負の感情にさらされる昼の自分を、コンが消し去ってくれる。

口の中で甘い粒を溶かすのと同時に、嫌な記憶を拭い去ってくれる。


この夜の教室が世界のすべてだったらいい。

そんな子供じみたことを、本気で思った。


「僕はテラのこと、いいと思うんだけどな」

「……どうも」

「投げやりだな」

「本気にするなって言ったのそっちだろ」

「本気にするよって言ったのはそっちだな」

「細かいとこ突っ込まなくていいから」


軽口を叩きあっているうちに、参考書のめぼしいところは終わってしまった。

時計を見上げたコンがつぶやく。


「そろそろ時間だ。もう皆来るから」

「うん、また」

「気をつけて帰れよ」


夜のとばりはすっかり降りて、窓の外を覆いかくしている。

深い深い濃紺の闇。

僕はいつものように手を振って教室を出た。

廊下の窓のきわにはキラキラと霜飾りがおりていた。

ひとつ掬って口に入れたらコンの魔法の粒とどちらが美味しいだろう。


―――実は惚れっぽかったのかもしれない。


自分でそう思ってみると、なんだかおかしくなった。

現金なやつ。

こんなに心が軽くなっているなんて。


昇降口に辿りついた時、ふと別のことに気づいた。

そういえば誰にも会わなかった。

今日だけじゃない。

昨日も一昨日も先週も、コンに「皆が来るから」と言われて教室を出たけれど、誰にも会わなかった。

駅までの道でも生徒らしき人とすれ違った記憶はない。


―――まあ、いいか。


その時の僕は、そんなことはたいしたことではないとすぐに忘れてしまった。

コンさえいればいいんだ。

コンのいる夜の教室だけが現実であればいい。


昼間の世界にはもう戻りたくない。



***



それから数日が過ぎた。


週末に降り積もった雪は月曜の日ざしとともに跡形もなく消えてなくなり、いつも通りの一週間が始まった。

僕は始業ぎりぎりに教室に入り、気まずい空気の中で一日を過ごした。

昼の教室は何も変わらない。

相変わらず僕の前の席には背の低い女子が座っているし、こそこそと笑う声が聞こえてくるのは大抵廊下側の端の席からだった。

麻生とも目を合わせていない。


昼ご飯を適当な場所で終え、午後の授業が始まる頃になると、僕の心はそわそわし始める。

思いはすでに夜の教室へと飛んでいる。

あのやさしい光。

古いストーブ。

はちみつ色のセーター。


―――笑顔。


どうしてあの景色が永遠に続かないのだろう。

どうして夜が明けてしまうのだろう。

コンとあの場所にいられるのなら僕は何をしたってかまわない。

昼の世界に僕をつなぎ止めるものなんて何もないのだから。


不思議な甘さのする金平糖は、日に日に少なくなっていった。

コンはどうやら金平糖を食べないらしい。

先週、ひとつ食べればいいのにと何気なく言ったら、僕は甘いものは食べないんだと返された。


「じゃあ何で持ってたのさ」

「これはテラにあげるために持ってきたんだよ。だからテラが全部食べることになってるんだ」

「そのわりにはケチなんじゃないか。一粒ずつなんて」

「だからそういう決まりだって言ったろ。一晩に一粒。それ以上は駄目」

「誰が決めたんだ」

「誰って……僕かな」


コンは肝心なところではぐらかす。

けれどあの無邪気な笑顔でにこりとされると、それでもいいかという気分になってくるから不思議だ。

結局僕は言いくるめられ、少し拗ねたように口をとがらすしかない。


「その言い方、薬みたいだ。用法用量を守って服用してください、って」

「はい、テラ君、今日のお薬ですよー」


幼稚園児に語りかけるような口調でコンが合いの手を入れたので、悔しいけれどまたしても笑ってしまった。


その夜、濃い紫の巾着袋には、二粒の金平糖が残っていた。

うすく粉砂糖をまとった半透明なまるいとげが、橙色の電灯に照らされてきらきらと光る。

僕はそっと指を入れ、ざらつく感触を確かめながら、まっしろな金平糖をつまみ上げた。

まるで窓の外に降る雪のような白い粒を。



***



「あなた、2-Aの寺町君かしら」


移動教室から戻ってきた休み時間、職員室前の廊下を通ると声をかけられた。

振り向くと、プリントを小脇に抱えた年配の女性教諭がこちらを見つめている。


「そうですけど」

「ああ、やっぱり。ちょうどよかったわ。これ、あなたのでしょう。夜学のクラスに落ちてたのよ」


書類ケースの中から何かを抜き取って、僕に差し出す。

青い小さなノート。

生徒手帳だった。

顔写真のついたカードが表に見えるように入れてある。


「2-Aの担任の先生に渡しに行くところだったんだけど、あなたに先に会ったから直接返すわね。今日渡せてよかったわ」


女性教諭は夜間コースの担任で、普段ならこの時間帯には学校に来ていないのだと言った。

道理で見覚えがあるようなないような、正直なところはっきり名前も思い出せない。

小さくお礼を言うと、いいのよとこちらが申し訳なくなるような笑顔が返ってきた。


「あの……」

「何かしら?」

「これ、拾ってくれたの、コンですか?」

「コン……?」


怪訝そうに見つめ返されて、そういえばコンの本名も知らないことを今さらながらに思い出した。


「いや、えーと……二、三才年上で、背の高い……いつもはちみつ色のセーターを着て窓際に座ってる生徒です」

「男性かしら?」

「そうです」


女性教諭は訝しげな表情のまま、変ねぇ、と首をかしげた。


「うちのクラスにはそんな生徒いないけど」

「え……?」

「今、夜学にいる生徒さんはみんな三十代よ。ひとり二十歳の子がいるけど髪の長い女の子だわ。あなたの言うような生徒さんはいないわね」


違う。

そんな筈ない。

だってコンはいつもあそこに座って、夜の授業が始まるのを待っているじゃないか。

何かがおかしい。


「……夜間コースって、一クラスだけですか」

「そうよ。私のクラスだけ。生徒数が少ないから」

「そう……ですか」


何だろう。

僕は何か見落としている。

突然そんな気がして、得体の知れない不安が体内で一瞬のうちに膨れ上がった。

何かが違う。

違和感。

だけど何が違うのかわからない。

頭にもやがかかっているみたいだ。

夜間コースの校舎は今改装中で、工事が終わるまで代わりの教室を使っている。

代わりの教室。


―――代わりの?


―――どこの?


思い出せない。

記憶がすべてもやの向こうに隠れてしまったようで、違和感の正体を突き止めようとすればするほどそれが指先からするりと逃げていく。


見覚えのないガスストーブ。

しゅんしゅんと湯気を立てていた古いブリキの薬缶。

橙色のあわい光のなかにゆれる机の影。


まるで別世界のような夜の教室。


―――コン。


しばし言葉をなくしている僕の前で、女性教諭が「そういえば」と何気なくつぶやいた。


「どうして生徒手帳、うちのクラスに落ちてたのかしらね。だってあなた2-Aでしょう?隣の教室なのに」



***



日が暮れると気温はぐんと下がり、廊下にいてさえ肌を刺すような寒さを感じる夜になった。

校内用シューズのゴム底からも冷たさが忍び寄ってきて、思わず足取りがにぶくなる。

階段を上がる時、踊り場の窓の隙間から風が吹き込み、耳を切るようにかすめていった。


今日はコンを待たずに帰ってしまうつもりだった。

けれどそうできなかった。

本当に夜間学級の生徒でないのなら、コンが誰で、なぜあの教室にいるのか。

僕との会話はどこまで本当でどこまで嘘なのか。

時間が経てば経つほど、何もかもが不確かに思えてくる。

確かめたい。

確かめたくない。

ふたつの思いが胸の内で渦を巻く。

ぐるぐるととけて混ざり合った思いは心の奥底にたまり、僕の体を重くする。

その体をようやく動かすようにして、僕は誰もいない廊下を自分の教室へと歩いている。


角を曲がると前方に光が見えた。

教室に人がいる。

いなければいいと思っていた。

今夜だけはコンが来ていなければいいと。

けれどそんな思いも空しく、ドアを開けた僕の前にはいつもの笑顔があった。


「やあ、また来たね」


はちみつ色のセーターを着た、無邪気な笑顔。

笑うと子供っぽい顔がいっそう子供っぽくなる。


僕は無言で自分の席についた。

コンはそんな僕を気にかける様子もなく楽しそうに話し始めた。


「今日が何の日か知ってる?雪の女王が一年に一日だけ下界に降りてくる、その準備をする晩さ。ほら、いつだか話したろ、金平糖は彼女の涙だって。だから今夜はこんなに寒いんだ。きっと明日は大雪になるよ。何しろ年に一度の歓迎会だからね」

「……」

「そしてもう一つ。今日は別棟の改装工事が終わる日さ」


コンは寂しげに窓の外の闇を見つめた。


「テラとここで会えるのも今夜が最後だね。夜間学級は明日からいつもの教室に」

「違うだろ」


気がついたら強い口調でコンをさえぎっていた。


「いつも『クラスメイトが来る』って言ったって誰も来なかったじゃないか。教科書だってそんな古い本使ってないって先生言ってた。それに……それにこの教室は…」


頭を整理してから話さなければと思うも、堰を切った疑問は止まらなかった。

コンが何か言いたそうに口を開いた。

けれど言わせなかった。


「あんた誰なんだ。何がしたかったんだ。こんな、夜の学校に忍び込んで、夜間の生徒だなんて嘘ついて、オレを…騙して」

「テラ、待って、違うんだ」

「何が違うんだよ。あんた、うちの生徒じゃないんだろ。もう……わけわかんねーよ」


うつむいて横を向く僕の前で、コンが唇をきりと結んで目を伏せた。

しゅんしゅんとブリキの薬缶が鳴っている。

心地よくなつかしい音だった。

こんな微妙な話をしている最中なのに、突然おととし亡くなった祖母のことを思い出した。

台所ではあんな風によく薬缶が鳴っていた。

白い湯気が薬缶の口から飛び出して、たちまち空気にとけるように消えていく。

よく目をこらして見れば、その蒸気にあてられている教卓も、見慣れたものではない。

やけに使いこまれた天板の色は濃茶色で、見慣れた教卓よりずっと背が低い。

四方を囲っているはずのスチール板もなく、かわりに木製の脚が据え付けられていた。

それに気づいたとたん、もやが一気に晴れたようにまわりが見えてきた。

黒板は昼のクラスで使っているものよりも横幅が短く、ところどころにひびがある。

窓には本来ないはずの木枠がはまっている。

カーテンは緞帳のような重たい黒。

昼の教室ならカーテンは淡いグリーンのはずだ。

自分が今座っている机も椅子も、木製ですすけた色をしている。

手触りだって違うのに、どうして気がつかなかったのだろう。

壁には見たこともない貼り紙。

飛行機の絵。

軍艦の絵。

そして天井には―――蛍光灯ではなく、橙色のあわい光を投げかける、古びたまるいライト。


「君は……こっちに来すぎてたんだ」


やがてコンが静かに口を開き、ぽつりと落とすようにそう告げた。


「どういう意味」

「言葉どおりの意味さ」


わからない、と言いさした僕をあの無邪気な微笑みで止め、コンは例の巾着袋を取り出した。


「今日で最後だ。食べていってくれるね?」

「いらない」

「最後の一粒だよ。テラがこれを食べなきゃ終わらないんだ。頼むよ」

「……」

「ほら、甘いもの好きだろ」

「それ、何なんだ」


今まで何も考えず口にしていた砂糖菓子が急に怪しげなものに思え、僕は固い声で訊いた。


「何って、金平糖さ。食べると嫌なことを忘れられる魔法のお菓子。ただし一晩に一粒ずつ」

「ふざけるなよ。真面目に訊いてるんだ」

「真面目に答えてるよ。今までも散々食べたじゃないか。別に変なものは入ってなかっただろ」

「あんたみたいな不審者から食べ物なんかもらえるか」

「不審者、か…」


小さくつぶやいてコンはため息をついた。

そのまま思案顔で口をつぐむ。

僕はふとコンが開いた巾着袋の中に目をやった。


―――春の訪れを告げるような、桜色の粒。


はっとするほど発色がよく、今までの金平糖とはどこか違って見えた。

薄桜色の甘い粒は、内布の上に一粒だけ取り残され、僕の手を待っている。

見るからにやさしく甘そうな、桜のひとひら。

こんなことさえなければ喜んで口に運んだだろう。


重苦しい沈黙を破ったのはコンの静かな声だった。


「確かに、僕はこの学校の生徒じゃないよ、正式にはね。僕は、まあ、聴講生みたいなものさ」

「……」

「不審者って言われてもしかたない。それは認めよう。でもテラはまだそこに座って僕の話を聞いてる。通報するわけでも逃げるわけでもなく。僕を信用してくれてるからだろ?」

「……あんた、名前は」

「僕のことが知りたい?」

「いいから答えろよ」

「……コンだよ」

「どこに住んでる」

「この学校の近く」

「年は」

「正確には君より何十歳も上だよ、たぶん」


はぐらかすような曖昧な返答だった。

ひどい空しさと苛立ちが心を満たした。

僕は椅子を蹴って立ち上がった。


「つまり答える気がないんだな。人をバカにするのもいいかげんにしろ」

「それしか答えを持ってないんだ。本当だよ」

「あんたが夜間の生徒だって……気が合っていいやつだって……信じたオレが馬鹿だったよ」

「待って、テラ、これだけ食べていってよ。お願いだ。最後の一粒を食べないと君は」


背を向けた僕の腕をコンが掴んだ。

それを振り払って、絞り出すように叫んだ。


「あんたもあいつと同じだ」

「……」

「期待させて、惚れさせて、反応見て楽しかっただろ。オレが自分のことで舞い上がってるの見て面白かっただろ」

「そんなこと……」

「二度と顔も見たくない!」


―――あれはいつだったか、まだ秋の名残りが色濃く残る頃。

休み時間、前の席で友達と話していた彼がふとこんなことを言った。


(―――俺は女でも男でもありだぜ。だって試してみたくね?なあ、寺町?)


そう言って彼はなぜか急に僕を振り返り、屈託なく笑ってみせた。

さわやかなその笑顔は―――僕を舞い上がらせるのに十分だった。

数週間後、その言葉を真に受けて校門で待ち伏せて告白し、結果がこれだ。


「オレはもう騙されない」

「……」

「帰る。あんたにはもう会わないよ」

「待って……」


鞄を引っつかんで教室のドアの方へ一歩踏み出した。

その途端、視界がぐにゃりとゆがんだ。

いや、違う。

ゆがんだのは視界の先にある影だ。

暗闇が形をもって、ゆるゆると腕をのばし、教室の隅から広がってくる。

気温が急激に下がり、どこからともなく突風が吹き込んだ。

どう、と壁をゆらし、壁の絵をぱたぱたとはためかせる。

凍てついた雪の粒が頬に打ちつけられ、冷気と痛みでとっさに身がすくんだ。

目の前にあるはずのドアが影に飲み込まれ、ゆがんだと思った瞬間ふっとかき消えた。

思わず怒りを忘れて立ちつくした僕の肩を、誰かがやさしくつかんだ。


「―――これで君は戻れる。どうか元気で」


次の瞬間、ふわりと唇がふさがれた。

と同時に、何かかたい感触が口の中に押し込まれるのを感じた。

舌の上を転がったそれを、僕は反射的にかり、と噛んだ。


桜色のやさしい甘さ。

ひどくなつかしい味。

口いっぱいに広がる不思議な―――。


「……コン」


叫んだつもりだった声は自分の耳にも届かなかった。

唇が離れた時には、もうどこにもはちみつ色のセーターは見えなかった。



***



翌朝、街は白い雪に覆われていた。


晩に降り積もった大雪は十年に一度という激しさだったらしい。

朝のニュースは天気予報と交通情報でおおわらわだった。

今朝は晴れて日ざしが戻り、街はどこもかしこも白くキラキラと輝いている。

まだ誰も踏みしめていない雪に足跡を残しながら学校へと向かう途中、覚えのある声に呼び止められ、振り返った。


「お、はよう」

「―――麻生」


数週間ぶりに会話をかわす「親友」だった。

ぎこちない微笑みを浮かべながら僕の隣に立った麻生は、大きく息を吸うと勢いよく頭を下げた。


「ごめん」

「……」

「無視したりしてごめん。ほんとはもっと早く謝りたかったんだけど、できなくて…。俺、最低だった」

「……いいよ」

「許してくれるか?」

「……今日、帰りラーメンおごれ」


笑って肩をこづくと、麻生の顔が見るからに安堵の色に変わった。

どうやらそうとう緊張していたらしい。


僕らは並んで雪の上を歩き出した。

青空がまぶしい。

小鳥が啼いている。

通学路がこんなに綺麗に見えたこと、今まであっただろうか。

心が軽くなって飛んでいきそうだ。


ふと、あることを思い出して僕は麻生に訊いた。


「お前んち、ずっと地元だよな。学校が建ってる場所、昔何が建ってたか知ってるか」

「昔っていつぐらい」

「わからないけど、何十年か前……かな」


麻生は少し上を見て考え、ああ、と思い出したように答えた。


「祖母ちゃんに聞いたことがある。大正から戦前ぐらいまでは、療養所の付属学校だったって」

「療養所の付属学校?何だそれ」

「ほら、駅の向こうに老人ホームがあるだろ。あそこが昔は療養所もやってて、その施設が学校のとこにあったんだって。病気の子がそこで生活しながら学校に通えるような感じの」


僕はふーんと曖昧な返事を返した。

麻生は気にする様子もなく、昨日のドラマの話題に移っていく。


頬をかすめる風に、どこか春の匂いがする朝だった。



こうして僕は日常を取り戻した。

あれ以来、大人になっても、駄菓子屋を見つけるとつい金平糖を買ってしまう。

けれどコンにもらったあの不思議な甘さのする金平糖には二度と出会えなかった。


―――雪の女王の涙のかけら。


―――春をつげる桜色の粒。


あのはちみつ色のセーターにいつかまた会いたいと願いながら、僕は今日もポケットに金平糖をしのばせている。

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