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『今宵もRed Light Barで何かが起こる』  作者: 西崎小春


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第16話 取材は普通だったのに外では伝説になってる夜

月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。

 信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな音が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がる。

 その交差点から一本入った細い路地に、小さな赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな店だ。

その夜、店主のタケさんは開店してわずか十五分で、すでに胃のあたりに「冷たい石」を詰め込まれたような、拭い去れない嫌な予感を感じていた。

「……今日はなんか、目が多いな。物理的にも、概念的にもだ」  カウンターの中でグラスを拭きながら、タケさんは独り言のように呟いた。

「店の中が、ね」とリンが、カウンターの端で静かにカクテルを啜りながら言う。

「店の外も、よ」と麗子嬢が、入口の方を顎でしゃくった。 「正確には、ネットワークの深淵も、です」と、マウスがスマホの画面から顔を上げずに補足する。

「五反田の夜の湿地帯もよ♡」とミルクちゃんが、香水を振りまきながらウインクした。

「何なんだよ、その四方向から包囲されてるみたいな不吉な言い方は。ここはバーだぞ、砦じゃない」

 タケさんは眉をひそめた。

 今夜の店内は、異常な密度だった。神様、マユ姐、ミルクちゃん、ゴウちゃん、マウス、工藤ちゃん、りょうちん、麗子嬢、ヒロ、メグぽよ、ナツキ、リン。

 すでにカウンター八席という物理的限界を突破している。立ち飲みの客、隙間に無理やり体をねじ込む客。足りていないのは席だけではない。静寂も、秩序も、店主の忍耐もとうに底をついていた。  だが、何よりタケさんを不安にさせたのは、店に入ってきた瞬間から、ミルクちゃん、マウス、麗子嬢、工藤ちゃんの四人が、まるで「宝くじの当選番号を自分たちだけが知っている」かのような、妙に卑俗なニヤつきを浮かべていることだった。

「……おい。何か隠してるだろ。特にマウス、お前だ。そのスマホの裏で何をニヤニヤしてる」

「隠してはいません。ただ、事実としてこの店の『認知スコア』が指数関数的に跳ね上がっているだけです」

「認知スコアって何だよ。横文字でごまかすな」

「知られてるのよ、タケさん。世間に。あなたの知らない『外側』でね」

 麗子嬢が、不敵な笑みを浮かべてグラスを持ち上げた。

タケさんは、グラスを拭く手を止めた。

「……は? 取材ならもう終わっただろ。あの第十話の時の騒ぎだ。編集長が来て、カメラマンがバシャバシャ撮って、お前らも横で好き放題言ってた。俺は緊張してグラスを三回落としかけたが、それで終わったはずだ」

「四回よ、タケさん」とマユ姐が即座に訂正する。

「三回だ。最後のは滑っただけだ」

「いいえ、四回です。重力に従って落ちた回数を数えれば、デジタルに四回です」とマウス。

「数字は大事なのよ。特に恥ずかしい数字はね」とリンが追い打ちをかける。

メグぽよが身を乗り出し、カウンターを叩いた。

「タケさん、“取材があった”ことと、“あの記事がきっかけで、外の世界でこの店が『伝説の変な店』扱いされてる”ことは、全く別の事象なのよ!」

 タケさんの動きが完全に凍りついた。

「……伝説? 変な店?」

 四人が同時に、合唱のように笑った。

「つまりよ、タケさん!」とミルクちゃんが声を張り上げる。

「この店、今、夜の街界隈でちょっとした『聖地』みたいになってるのよ♡」

「聖地? 宗教か何かか?」

「マウス、例のやつ、読み上げてあげなさいよ」

 マウスが待ってましたと言わんばかりに、スマホをスクロールさせた。

「では、主要な『二次拡散』の断片を紹介します。まずは某レビューサイトから。――『看板のない赤いランプのバー。入った瞬間、マスターが死んだ魚のような目でグラスを拭いているが、その実、客たちの狂気を受け流す高度な合気道の使い手のようである』」 「誰が死んだ魚だ! あと合気道なんて使えねえよ!」

「次、SNSの投稿です。――『月見橋のRed Light Bar。ここでは探偵が歌い、神様が酒を飲み、五反田のミスターレディが叫んでいる。現実と虚構の境界線がバグっている店。

マスターは透明人間になりたがっているが、存在感そのものがツッコミ待ちのアイコンである』」

「……俺、そんな風に見られてんのか?」

「さらに個人ブログより。――『この店は、取材ですら日常の一部として消費される。編集長すらも常連の毒舌にタジタジになる光景は、もはや一つの演劇。ここに行けば、自分の悩みがいかに“普通”であるかを思い知らされる。マスターの困り顔が酒のつまみ』」

「最悪だ……。何だよ、困り顔がつまみって。金取らせろよ」

ミルクちゃんが胸を張る。

「あたしの店でも話題なのよ。“最近、月見橋に変なバーがあるんだって?”って。お客さんが“そこに行けば、マスターがどんな無理難題にも真顔で巻き込まれてくれるって聞いた”って、目を輝かせてるわよ」

「俺は便利屋じゃないぞ」

「でも麗子嬢のところにも届いてるんでしょ?」とナツキが聞く。 「ええ。夜の情報は、流れるべき場所に淀みなく流れるものよ。

あちら側の人間が、『面白い箱を見つけた』って囁き合ってるわ。……タケさん、覚悟しなさい。あなたはもう、ただの店主じゃない。観測対象なのよ」

ここで、隅に座っていた工藤ちゃんが、静かに、そして仰々しく帽子を直した。

「……バックシティ〜♪ バックシティ〜♪」

「出た。主犯の匂いがするメロディ」とリンが冷たく指摘する。 「繋がったな。点と点が、星座のように……」

「言いたいだけでしょ」とマユ姐。

 工藤ちゃんは低い、地を這うような声で続けた。

「この件の火種を置いたのは……この俺かもしれない」

 店内に、今日一番の鋭い沈黙が流れた。

「……吐け。何を言った」とタケさん。

「俺は、あの雑誌の編集長と、少なからず縁がある。コンビニと居酒屋のバイト先での、極めて親密な『店員と客』という関係だ」 「バイト先じゃねえか! 探偵のコネを使えよ!」とヒロが突っ込む。

「それも事件の一部だ。俺は、彼に何度か、この店の深淵を語ってしまった」

「どんな風にだ」

工藤ちゃんは一度目を閉じ、プロファイリングを披露するように語り出した。

「『月見橋には、アホが真面目にアホをやる場所がある』と。マスターは真顔のまま、濁流のような客の自意識に飲み込まれていく、その姿はまるで現代の受難劇だと。そして――」

 工藤ちゃんの毒舌のフルコースが始まった。

「『ミルクはやかましいスピーカー』、『マユ姐は歩く治外法権』、『ゴウちゃんは無駄に強そうだが中身はアホの塊』……」

「おい! 具体的すぎるだろ!」とゴウちゃんが叫ぶ。

「『マウスは数字で恋愛を計り損ねた男』、『りょうちんはただの若さの象徴』、『麗子嬢はもはや圧という名の気象現象』、『ヒロは論理の皮を被った面倒くさい生き物』、『リンは言葉の毒針を持つ暗殺者』、『メグぽよは場の秩序を破壊する専門家』……とね」

 工藤ちゃんは満足げに息を吸った。

「その結果、編集長は言ったんだ。『それ、最高のコンテンツ(店)じゃないか』と」

数秒の沈黙の後、店内が爆発した。

「コンテンツって言うな!!」とメグぽよ。

「きっかけ、あまりにも軽率すぎるだろ!」と神様も苦笑いする。 「楽しそう、で特集された挙句、伝説の変な店扱い……。タケさん、ドンマイ」とリンが乾杯のポーズをとる。

 タケさんは頭を抱え、カウンターに突っ伏した。

「……つまり俺は、普通に取材を受けて、普通に営業を続けてたつもりだったのに。外では『真顔で巻き込まれるマスター』という、面白おかしい見世物になってると……」

「正解!」と全員。

メグぽよが高らかに宣言した。

「はい! 今日の議題決定!! 『噂の店、伝説の店の条件とは何か!!』」

「くだらねぇ!! 閉店だ、今日はもう閉店!」

「いいじゃない。話題の店なんだから、分析しましょうよ」とナツキ。

「マウス、噂になる店の条件、データで出せるか?」とヒロが煽る。

「容易いです。第一の条件は、『初見での説明が困難であること』。例えば、この店を誰かに紹介する時、あなたならどう言いますか?」

「ええと……変な人がたくさんいる、小さな店?」とナツキ。 「弱いですね。伝説の店はこう言われます。――

『あそこに行けば、何かが壊れる音がする』」

「縁起が悪すぎるだろ!」とタケさん。

「第二の条件。それは、『誰かが決定的な誤解をしていること』です。誤解こそが神秘性を生む。タケさんが、実は元殺し屋だとか、実は大富豪の隠し子だとか、そういう尾ひれがついてこそ噂は完成します」

「殺してえのは今の状況だよ!」

「第三の条件は、これ。――

『写真より実物の方が、圧倒的にうるさい』」

 店が揺れた。

「それだぁぁぁぁ!!!」とメグぽよが腹を抱えて笑う。

「写真だと小洒落たバーなのに、ドアを開けたら阿鼻叫喚! このギャップこそが最強の集客要素よ!」とマユ姐。

「嬉しくねえ……一ミリも嬉しくねえよ……」

ここでゴウちゃんが、不自然なほど胸を張って立ち上がった。 「いや、噂の店には『入り方』の美学があるはずだ」

「出た。ゴウちゃんの無駄に熱い男気理論」とヒロ。

「噂を聞きつけてきた男ってのはな、普通には入らない。いいか? 鏡の前で、三回は頷いてから入るんだ」

「頷く? 何に?」とナツキ。

「『今から俺は、伝説の目撃者になる』という自分自身の覚悟にだ!」

「それ、ただの自意識過剰な不審者じゃない」とリン。

ミルクちゃんが即座に立ち上がった。

「実演しましょ! あたしが『噂を信じてやってきた、自意識強めの男』をやるわ!」

 ミルクちゃんは、わざわざ入口のドアの外まで出た。

「はい、まずは普通の客。……ガチャ。こんばんはー」  普通に歩いて入ってくる。

「うん。それが正常だ」とタケさん。

「で、これが『伝説を喰らいにきた男』よ」

 ミルクちゃんの動きが、急にスローモーションになった。

 ドアの前で一歩止まる。襟元を、不自然なほど丁寧に直す。  遠くを見つめ、深く、重々しく一回だけ頷く。

 そして、自分に酔ったような足取りでドアを引く――。

「いるぅぅぅぅ!! 最近こういう奴、マジで来るようになったんだよ!」とタケさんが叫ぶ。

「あはは! その一回頷くの、めちゃくちゃ面白い!」とメグぽよ。

「何に納得したのか、小一時間問い詰めたいわよね」と麗子嬢。

工藤ちゃんが、低く歌った。

「バックシティ〜♪ 自意識の、渋滞〜♪」

「お前が言うな!」と全員。

「今日の工藤ちゃん、核心を突きすぎてて怖い」とリン。

「たまにだけな。たまにだけ、神様が降りてくるんだ」

マウスが、スマホの画面をタケさんに見せた。

「タケさん。噂の店っぽさには、角度も必要です。今、あなたがグラスを拭いているその角度。……43度ですね?」

「……は? 測ったのかよ」

「45度は、狙いすぎたプロの角度。43度は、無防備な『巻き込まれ感』が出る黄金の角度です。それを無意識にやっているから、外の人間はあなたのことを『天然のエンターテイナー』だと誤解するんです」

「ただ一生懸命拭いてるだけだよ! 2度なんて誤差だろ!」 「その誤差が、伝説を作るんです」

ヒロが、少しだけ真面目な顔をして言った。

「でもさ、タケさん。それがいいんじゃないか」

 店内が、ふっと静かになる。

「何がだよ」

「わざとらしくない、ということだ。狙って『噂の店』を作ろうとした連中は、だいたい三ヶ月で自爆する。でもこの店は違う。タケさんが必死に『普通』でいようとすればするほど、客が勝手にそれを踏み台にして跳ねていく。その不協和音こそが、外の人には『生きてる場所』に見えるんだよ」

 麗子嬢も頷いた。

「そうね。あなたが気づいていないだけで、タケさんの『普通』は、もうとっくに普通じゃないのよ。この狂人たちを相手に、真顔でグラスを拭き続けられること自体、外から見れば十分『伝説』に値するわ」

「……褒められてる気がしない」

工藤ちゃんが、静かに立ち上がった。

「……事件は、解決した」

「何がだよ、勝手に終わらせるな」

「外の世界は、この店を『アホが真面目にアホをやっている、稀有な聖域』として認識した。

……マスター、君はもう、逃げることはできない」

「逃げる? どこへ」

「日常という名の、退屈な場所へだ。君はもう、この狂騒の中心点として、永遠にグラスを拭き続ける運命にある」

「呪いじゃねえか!!」

メグぽよが高らかに結論を宣言した。

「はい! 今夜の結論!!!! 『噂の店とは、本人たちが一番よく分かっていない、天然記念物のような店である!!』」

 全員が一瞬、妙に納得した顔になり、次の瞬間にはまた大爆笑が起きた。

「天然記念物かよ……。餌でも撒かれるのか?」とタケさんが溜息をつく。

「撒かれてるじゃない、お酒っていう名の餌が♡」とミルクちゃん。

月見橋の夜は、相変わらず静かだった。

 信号が変わり、タクシーが走り去る。外の世界では、この記事を読んだ誰かが「今度、あの変なバーに行ってみようか」と、少しだけ自意識を膨らませて語り合っているかもしれない。

 けれど、この小さな店の中では、今日も昨日も変わらず、誰かが盛り、誰かが突っ込み、誰かが変な理屈をつけ、誰かが一番まともな顔をして一番アホなことを言っている。

 タケさんの「普通」が、いつの間にか「伝説」の輪郭を作り上げていく。

「……で。俺はこれから、どうすればいいんだ。有名人みたいにサングラスでもして店に立てばいいのか?」

 タケさんが最後に聞いた。

 一拍置いて、店内の全員が、今日一番の笑顔で、同時に言い放った。

「「「「「「「「「「何もしない!!!」」」」」」」」」」

店が再び、どっと笑いに包まれた。

 そして今夜もまた、Red Light Bar で何かが起こっていた。

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