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社員意識調査 (2)

 二週間後、こうして出来上がった文書を叩き台として議論するために、宮園がモントリオールで開かれる会合に出かけて行った。会合という締め切りに追われて必死だった遙香も、宮園の出張中は少し余裕ができる。


 久しぶりに定時で上がり、スーパーで買い物をして家に帰った。


 遙香の家は、会社から実に徒歩十五分だ。高輪にある七階建てマンションの七階で、3LDK。賃貸ではない。父、相沢(あいざわ)恭一郎(きょういちろう)の所有物件である。彼女が大学に進学したときに購入した。この広い家に、今はひとりで暮らしている。でも、今日はひとりではなかった。


「ただいま」

「おかえり!」


 先に帰宅していて出迎えたのは、智基(ともき)。ひとつ年下の弟だ。彼が大学を卒業する昨年までは、この家で一緒に暮らしていた。遙香は東京で就職したが、智基は地元の静岡で父の会社に就職したので、今は実家で暮らしている。今日ここにいるのは、会社の研修のため。三泊四日の予定らしい。


 智基が実家に戻った後も、彼の部屋のベッドはそのままにしてある。だから、いつでも泊まりに来られるのだ。ついでに父の部屋もある。だから3LDKとは言っても、遙香にとっては実質1LDKと変わらない。


「すぐご飯にするね」

「何か手伝う?」

「じゃあ、パスタ用にお湯わかしてくれる?」

「塩はどれだけ入れればいいんだっけ?」

「大さじ二」

「ほーい」


 一年前まで三年間、この家で一緒に暮らしてきただけあって、智基にとっては勝手知ったる家である。遙香がパスタをゆでるのにどの鍋を使うのかも、よくわかっている。


 遙香は荷物を部屋に置き、エプロンを着けた。キッチンへ向かおうとして、ふと思いつき、カバンから名刺を一枚取り出す。リビングのソファーでスマホをいじっていた弟に、意味ありげな笑みとともにその名刺を手渡した。


「このたび、JDDネットワーク開発研究所の所属になりました」

「え。遙香、転職したの?」

「してないよ」


 智基も子どもの頃はハルちゃんと呼んでいたのに、いつの頃からか呼び捨てだ。


「どうしたの、これ?」

「新しい仕事で、作ってくれた」

「なんだそりゃ」


 JDDの社員として国際標準化の仕事をすることになったのだと、遙香は智基に説明した。


 この名刺は一週間ほど前、横須賀にあるJDDの研究所まで宮園と一緒に出向いて挨拶したときに渡されたものだ。電車とバスを乗り継いで、品川から一時間半ほどかかった。挨拶しに行くだけで半日仕事だ。


 JDD側は主任、課長、部長と三人で出迎えた。彼らは日本語と英語の二種類の名刺を渡しながら、「席も用意できますよ」などと言っていた。真顔で言うものだから、冗談なのか本気なのかが判断しづらい。


 冗談だと思いたいが、いずれも真剣な表情なので、遙香は口の端が引きつりそうになった。「お気持ちだけありがたく……」と言葉をにごすと、相手側の主任が真顔のまま小さく舌打ちして「残念」とつぶやく。それを、隣にいた課長が表情を変えずに肘で小突いた。どうやら三人そろって、真顔で冗談を言うタイプの人々だったらしい。


 そうした横須賀での出来事を話しながら、サラダボウルにサニーレタスを敷き、その上にミニトマトとひとくちサイズのモッツァレラチーズを載せる。塩こしょうしてオリーブオイルをたらせば、カプレーゼ風サラダの出来上がり。


 湯のわいた鍋にパスタを入れ、ゆで時間が経過する一分前に、冷凍シーフードと冷凍アスパラガスを鍋に入れる。一分後、パスタごとざるにあけてから、フライパンで温めてあったレトルトのパスタソースに入れて混ぜれば、具だくさんパスタの出来上がり。


 スープカップにインスタントのコンソメスープを入れて熱湯をそそぎ、本日のディナーの完成だ。包丁を使うこともなく、わずか十分ほどで作った割には、彩りがよく、栄養バランスも悪くない。


 遙香は取り立てて料理上手なわけではないのだが、こうして市販品をうまく組み合わせて手軽に食事を用意するのは得意だった。


「はい、どうぞ」

「おいしそう。いただきます」


 さっそく智基はパスタをぱくついた。


「智基の研修って、何の研修なの?」

「二年目研修」

「へえ。そんなのあるんだ?」

「うん。入社二年目の社員全員が対象で、事業部とか関係なくランダムに集めてMBAみたいな講義を受けてる」

「MBAみたいな講義って、たとえばどんな内容なの?」


 智基の受けた講義では、実在の企業での成功例や失敗例を教材とし、原因や対策について議論したりグループごとに意見をまとめたりすると言う。教材ごとの時間が決して長くないので、相当頑張らないと時間切れになるらしい。


 しかも、発表内容は外部の講師によって採点される。それもグループごとの採点ではない。受講態度や積極性、リーダーシップまで加味して、ひとりずつ採点されるのだと言う。その上、後日その結果が上司に送られるとあって、みんな必死だ。


 なかなかのスパルタぶりに、遙香は目を丸くした。


「すごいね」

「うん。きついけど、面白いよ」


 グループ分けも、固定ではないそうだ。半日ごとにメンバーが入れ替わる。


 CCテックでは聞いたことのない教育内容だった。遙香は興味深く話を聞いた。


 話が一段落したところで、何となく思いついて遙香は智基に尋ねてみた。


「ねえ、智基は何のために働いてる?」

「そりゃ、金のためですけど」

「だよね!」


 我が意を得たりとばかりに、遙香は大きくうなずいた。


「なに? どうしたの?」


 姉の反応がおかしかったのか、智基は笑いながら尋ねてくる。そこで遙香は、社員意識調査の話をした。「何のために働くのか」という設問に対する選択肢の中に「収入のため」がなかった、という例の話だ。


 遙香が話し終わると、智基は「ふうん」と首をひねってからこう言った。


「ただ単に、労働に対価を求めるのは当然だから、わざわざ入れなかっただけじゃないの?」

「そうかなあ」

「だと思うよ。それ以外に何があるかって聞きたかったんじゃない?」


 それ以外に何もない人がいるとは、想定しなかったのだろうか、と遙香は釈然としない。


「智基なら、何て答える?」

「俺? 俺は、そうね、会社に入ったからには上を目指したい。偉くなりたい!」

「ぶっ」


 篠崎とまったく同じセリフに、遙香は不意をつかれて吹き出した。笑い転げる姉に、弟は「何だよ。笑うなよ」とすねたような眼差しを向ける。


「ごめん。でも、篠崎さんとまったく同じこと言うから」

「篠崎さんって誰?」

「今の上司」

「ふうん。俺と気が合いそうだな」

「そうかも」


 そう言われてみれば、智基は体育会系の篠崎と、どこか共通する雰囲気を持っていた。彼は中学まではサッカー少年だった。高校と大学ではラグビー部。背が高く筋肉質で、体つきはがっしりしている。インドア派の遙香とは、似ても似つかない。


 もっとも、似ていないのは当然なのだ。血がつながっていないのだから。

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