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新しい仕事 (2)

 宮園は資料らしき紙を一枚ずつ配りながら、遙香に尋ねた。


「相沢さんは、TOEICのスコアはどれくらいなの?」

「900です」

「お、すごいね。じゃあ、ペラペラだ」

「いえ。全然ペラペラではありません……」


 遙香は困惑した。


 TOEICは、英語力を測るための世界共通のテストである。トーイックと読むこのテストは、CCテックでは社員全員に受験が義務づけられていた。CCテック全社員の平均点が500点ほど、海外業務に携わる者の平均点が700点くらいだと言われている。それを考えると、遙香のスコアはかなり高いほうと言えた。


 だが本人の実感としては、決してペラペラなどではない。業務に関した資料であれば、辞書を引かずにまあまあのスピードで読めるが、ただそれだけなのだ。英語ニュースなんて少しも聞き取れないし、洋画だって日本語の字幕があれば一部を聞き取れる程度にすぎない。字幕なしなら、全然だ。


 図書館で英字新聞を読んでみたこともあるが、それなりに読めるのは社会面だけ。政治や経済の話になったら、完全にお手上げである。


 自分の英語力が仕事で通用するのか不安そうな遙香に、宮園はにこにこして続けた。


「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。相沢さんは英語をしゃべる必要ないからね」

「そうなんですか?」

「うん」


 そして遙香にだけ、少し厚みのある英語の資料を渡した。


「これが、次の会合に提出しようとしている資料の叩き台です」

「はい」

「相沢さんには、これを更新したり、会合で出た技術的な質問に対する回答の作成をお願いします。会合には私が出席しますから、相沢さんはドキュメントの管理と編集だけしてくれればいいんです。JDDへの報告も私が行きますから、心配いりませんよ」

「わかりました」


 遙香はうなずいて返事をしながらも、拍子抜けした。なんだ、ドキュメント作成だけか、と少々がっかりもした。宮園と組んで標準化の対応をすると言うからには、てっきり彼女も会合に出席するものとばかり思っていたのだ。


 宮園のこの簡単な説明をもって、打ち合わせは終了した。宮園は資料をまとめて、さっさと席を立つ。遙香も腰を浮かしかけたが、残るよう岡田に指示されて、椅子に座り直した。


 宮園が会議室から離れるのを待ってから、課長の佐野が苦虫をかみつぶしたような顔で岡田に苦情をぶつけた。


「岡田さん、この仕事は何なんですか。うちで受けるような内容じゃないでしょ」

「うん、そうだよ。そのとおりなんだけど──」

「しかも、どうしてハルちゃんなんですか。今からでも断れないんですか?」


 畳みかけるように文句を続ける佐野に、岡田は「それがさあ」と深くため息をついた。


「上のほうから相沢さんを名指しで仕事が落ちてきて、断れなかったんだよ……」

「上のほうって言うと、事業部長ですかね?」

「いや。もっと上」

「もっと上? ということは、本部長ですか?」

「それがね、もっとずっと上なんだ。常務だよ。鷲尾(わしお)さんからだってさ」

「えっ」


 岡田と佐野のやり取りを、遙香は目をパチクリさせながら聞いていた。どうやら自分の上司たちは、この仕事を快く思っていないらしい。そうっと横にいる篠崎のほうを盗み見れば、彼女と目が合ってしまう。篠崎は困ったように苦笑して、肩をすくめてみせた。


 少々居心地悪く感じながらも、静かに上司たちの応酬を聞いていた。だがそのうち、やにわに岡田の矛先が遙香に向けられる。


「だいたいさ、相沢さん、名前が売れすぎなんだよ。なんだって取締役なんかに名前を覚えられちゃってるの」

「知りませんよ……」


 理不尽だ。遙香は当惑した。


 そんなことを言われたって、鷲尾取締役という名前を聞くのも今が初めてなのだ。相手が自分の名前を知っている理由なんて、わかるわけがない。


 佐野が首をひねりながら「TOEICの点数ですかねえ」と推測を口にする。だが岡田は、それに対して首を横に振った。


「それはないな。900って、うちの部では飛び抜けてるけど、海外と仕事してる人にはちょこちょこいるよ。研究所でも結構いる。そこまで珍しくはないな」

「そうですか。じゃあ、どうしてなんですかねえ」

「まあ、理由がどうあれ、断れない以上、受けるしかないんだよ」


 佐野は「JDD向けの開発に入ってもらう予定だったのになあ」とため息をつく。けれども遙香はそれを聞いて、いくぶんか気持ちが明るくなった。自分に何か問題があってJDDのプロジェクトから外されたわけではない、とわかったからだ。


 岡田は会議テーブルの上に腕を置き、その上に身を乗り出すようにして真剣な顔を遙香に向けた。


「相沢さん、一年だ。一年だけ頑張ってくれるかな」

「はい?」


 岡田の意図がわからず、遙香はきょとんとする。


「今回はどうしても断れないから、仕方なく受けてしまった。でも、一年後には必ず開発の仕事に戻す。だから、それまで辛抱してほしいんだ」


 どうやら、これは辛抱が必要な仕事だと、岡田は考えているらしい。遙香にしてみたら、取り立ててそんなふうには感じないのだが。だって、仕事は仕事だ。そうは思うものの、自分のキャリアについて部長が真剣に考えてくれている様子はうれしかった。だから彼女は岡田の言葉に対し、感謝を込めて「はい」とうなずいた。


 そして、今度こそ打ち合わせは解散となった。


 席に向かって歩きながら、篠崎が遙香に尋ねる。


「ハルちゃんって、帰国子女だったっけ?」

「違いますよ」

「なのに帰国子女より点数高いのかあ。すごいね。去年、海外システムに入った帰国子女は860だって聞いたよ」

「私のは点数だけですから……」


 点数を誇らしく思わないわけではないけれども、使える英語だと思われるのはちょっと困る。似たような点数でも、海外で生活してきた帰国子女とは全然違うはずなのだ。


 遙香には、海外経験はほとんどない。ほとんどと言うか、もっと具体的に言うと、たったの一回しかない。その唯一の渡航経験が、高校の修学旅行で訪れた台湾である。しかし台湾は、海外であっても英語圏ではない。だから旅行中に英語が必要となる場面など、ほぼなかった。つまり遙香は、英会話を実地で使用した経験がゼロなのだ。


 それを思えば、国際標準化の会合に出席する必要がない、というのは、だいぶ気が楽ではある。がっかりした反面、ホッとする気持ちも間違いなくあった。

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