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事件のその後 (1)

「ただいま」

「おかえり」


 一時間ほど残業して帰宅した遙香を迎えたのは、智基だ。出張でこちらに泊まると、数日前に連絡があった。彼は最近になって、父の秘書のようなことも始めたらしい。社長業務のOJTみたいなものなのだろうか。よく父と一緒に行動している。


 この日も、父と二人で泊まりに来ると聞いていた。なのに、恭一郎の姿がない。


「あれ。お父さんは?」

「急用が入って、来られなくなった。明日こっちで落ち合う予定」

「そっか。それじゃ、ご飯どうしよ」


 夕食は父が用意すると言っていたので、何も準備していなかった。冷蔵庫の中身も心もとない。特に生鮮食品は、基本的に買い置きがないのだ。料理をするときには、その都度使い切れるパックを買うことにしているから。以前、何日か残業が続いた後にいざ使おうとしたとき、買い置きが痛んでしまっていたことがある。そんなことが数回続いて以降、買い置きするのをやめてしまった。買い置きして捨てる羽目に陥るくらいなら、多少割高でも使い切りパックのほうがいい。


 手持ちの材料で、どうにかしたら二人分の夕食を作れるだろうか。それとも買い物に出るべきか。時間を考えたら、いっそ作るのは諦めて外食すべきかもしれない。急に悩み出した遙香を見て、智基はいぶかしそうに「ん?」と首をひねる。


「お父さんから、用意するって聞いてない? もうじき来るよ」


 智基の言葉が終わるか終わらないかのうちに、インターホンが鳴った。恭一郎が頼んでおいた出張シェフだ。やって来たのは、顔馴染みのフレンチシェフだった。相変わらず、目を離した一瞬の隙にシェフコートに着替えている。


 食事が始まると、いつもより遙香の機嫌がよいことに智基が目ざとく気がついた。


「どうしたの? 何かいいことあった?」

「今日、評価面談があったの」

「ふうん。それが『いいこと』?」

「うん。褒められた」


 ちょっと得意げに、メインの仕事の評価がSだったと説明する。「よかったね」くらいの言葉が返ってくることを期待していたのに、なぜか智基は「当たり前だろ」と失笑した。


「遙香がS評価じゃなかったら、むしろ上司の能力を疑う」

「ええ?」


 どうしたわけか、弟が辛辣だ。そして、いつものことながら身びいきがすごい。


「だってさ、この間ニュースになってた事件だって、解決したのは遙香のお陰じゃないか」

「私のお陰ってわけでは……」


 智基の言う「この間ニュースになってた事件」とは、日本の会合で遙香たちが容疑者を特定した、あの事件のこと。なんとあれから数か月も経った先日、犯人が逮捕されたのだ。かなりの数の企業がスパイウェアの被害を受けており、「史上最悪の産業スパイ事件」として、世界的なニュースとなったのだった。


 とにかく、被害の規模が大きかった。被害を受けたとしてニュースで名前が挙がっていたのは、いずれも世界に名だたる大企業ばかりである。しかもその数、なんと三十社以上。


 逮捕されたのは、やはり遙香たちがあのとき容疑者と断じた男だった。メイトランド社のジェリー・テイラー。いや、今となっては「元メイトランド社」と言うべきか。逮捕前に、すでにメイトランド社からは解雇されていた。


 遙香にしてみると、この事件が解決したのはカイルのお陰だ。だが智基の考えは違うらしい。


「だって、遙香が見つけなきゃ、ずっと事件にもならずにいたんだろ?」

「まあ、そうなんだけど。でも、私はただ最初に気がついたってだけだし」

「気がついたのも、気がついて解決のために動いたのも遙香なんだから。遙香のお陰ってことだよ」


 そうなのだ。実は遙香が偽アクセスポイントを見つける前にも、長いことずっと、会合が開催されるたびに偽アクセスポイントが稼働していたと言う。ニュースでそのことを知って、遙香はびっくりした。


 もっともニュースとなってみれば、あの会合が狙われた理由はよくわかった。サイバー攻撃を仕掛けようとする側にしてみたら、これほど効率のよい場所もない。何と言っても大企業の社員が、定期的に一堂に会して無防備にフリーWi-Fiにアクセスするのだ。しかも、どの会社をとっても国際的に有名なメーカー系や通信系の企業である。


 その上、犯行が露見するリスクもないに等しい。


 このようなサイバー攻撃がそれまで見つからずにいたのは、会合の開催地が毎回変わることが原因だ。開催地どころか、主催者であるホストも変わる。そのような環境においては、ほんの小さな異変など簡単に見落とされてしまうものだ。


 異変と言っても、会場のアクセスポイントの電源プラグが抜かれているという、子どものいたずらみたいに本当に些細なことでしかない。しかも、会場を提供したホテル側がそれに気づくのは、必ず会合が終わった後である。


 会合の期間中には、誰も異変に気づかない。なぜなら、利用者から苦情が出ないから。アクセスポイントの状態なんてものは、利用者からの苦情でもない限り調べたりしないものだ。なのに会合の間は、偽アクセスポイントが稼働しているおかげでネットの接続に不自由しない。だから誰からも文句が出ることがないわけだ。


 したがってネットにつながらないことに気づくのは、必ず会合が終わってから、ということになる。数日以上経過するまで気づかなかったケースも少なくなかったようだ。


 ましてやホテル側にしてみると、そのような異変が起きるのも一回限りのことでしかない。もしもこの異変が繰り返し起きていれば、ホテル側だって原因を追及する姿勢を見せたことだろう。だが異変が起きても一回限り、しかも気づくのは時間が経ってから。これでは原因の追求などしようがなく、そのまま忘れ去られていた。


 異変と会合を結びつけるものがなかったので、ホテルから主催企業に問い合わせや苦情が行くこともない。だからホストを務めた企業はいずれも、そんな異変があったという事実を把握できていなかった。もっとも、仮に問合せがあったとしても「会合の間にWi-Fiの不具合はなかった」と答えるだけで、自分たちとは無関係の問題だとしか認識しなかっただろうが。


 それがニューヨークの会合において、遙香が偽アクセスポイントを発見したことで、状況が一変する。そもそもサイバー攻撃を受けていることに気づいただけでも、大きな変化だ。


 まずはニューヨークでの偽アクセスポイントの件が、ジェシーとカイルによってFBIのサイバー部門に通報された。日本の会合では、おとりPCを使ってさらに調査が進む。手口を解明したばかりか、容疑者まで絞り込めたのだ。こうした情報は、すべて警察に情報提供した。


 ニューヨークの件だけでは動きようのなかったFBIも、日本の会合で得た追加情報をもとに、ついに捜査を開始する。ただし、FBIが本格的に捜査を開始しても、全容が解明されるまでが長かった。これも、開催地が毎回変わったことが原因だ。それも国をまたがって転々とする。


 FBIには他国の捜査権などないから、会場となったすべての場所の捜査をするには、それぞれの国の警察に動いてもらう必要があった。このような場合に仲介役として動くのが、インターポールという組織だ。FBIからの依頼を受けて、インターポールが仲介役となった国際捜査が始まった。

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