新しい仕事 (1)
席に戻ると、二つ隣の席にいる篠崎から「ハルちゃん」と声をかけられた。
「今日、三時から会議室Aね」
「はい。何の会議ですか?」
「ハルちゃんの次の仕事の話ですって」
次の仕事と聞いて、遙香は「おお」と興味津々だ。
「どんな仕事なんですか?」
「あたしもまだ聞いてないのよ。その場になってのお楽しみだね!」
「はい」
三時までの二時間、遙香は仕事をしながらも、どこかそわそわしていた。
時間になって、筆記具だけを持って篠崎と一緒に会議室に向かう。会議室と言っても、AからDまである会議室は、職場の一角をパーテーションで区切っただけの簡易的なものだ。参加人数が六名以下くらいの小規模な打ち合わせで使うのは、だいたいこの会議室だった。
ちなみに、きちんと個室になって、プロジェクターなどの設備が整った会議室も存在する。そちらは応接室と呼ばれていた。職場とは別のフロアに配置されていて、外部の者も招き入れることができるからだ。人数が多かったり、他事業部や社外の者を交えた打ち合わせの場合には、応接室を利用している。
会議室へは、遙香と篠崎が一番乗りだった。長テーブルの片隅に、二人並んで座る。
その後、次々と現れたメンバーを見て、遙香は目をパチクリさせた。役職者ばかりだったのだ。
まず、遙香と篠崎の上司である課長の佐野徹。直属上司は篠崎だから、遙香が直接言葉を交わす機会は普段それほどない。だが、いつでも穏やかで気安い佐野は、遙香にとって話しやすい上司だ。
次に、第二開発部の部長、岡田英信。遙香が新人時代には、小野寺の上の課長だった。今年の定期人事異動で昇格し、三十代で部長になった。部長昇格の社内最年少記録を更新したと聞いている。佐野とは逆に、仕事中はピリッと硬い表情でいることが多い。厳しいとか、こわいなどと評されることの多い岡田だが、遙香はそのように感じたことがなかった。父と雰囲気が似ているせいかもしれない。
この二人だけであれば、まあ、役職者とは言っても不思議に思うような顔ぶれではない。いずれも遙香の上司だから。だが、残るひとりが謎だった。それは、海外システム部の担当部長、宮園健一。これはいったい、どういう取り合わせなのだろう。
新しい仕事への期待でワクワクしていた遙香の気分は、今や漠然とした不安に半分ほど塗り替えられつつあった。隣の篠崎に顔を向けると、彼女も怪訝そうに首をかしげている。
全員がそろったところで、岡田が「じゃあ、さっそく始めようか」と切り出した。
「相沢さんには、宮園さんと組んで、標準化の仕事をしてもらうことになった」
岡田の言葉を聞いても、遙香にはさっぱり意味がわからない。まず、宮園と組むというのが、わからなかった。主任も課長もすっとばして、どうして遙香が担当部長と組む話になるのか。そして何より「標準化の仕事」とは何なのか。
遙香のもの問いたげな視線に気づいて、岡田が解説してくれた。
「標準化っていうのは、規格の標準化のこと」
解説してもらってもなおわからず、いぶかしそうにしている遙香に、岡田は問いかけた。
「相沢さん、JIS規格って名前は聞いたことがあるかな?」
「はい、あります」
もちろんJISという名称くらいは遙香も知っている。具体的にどのような規格を定めているのかまでは知らないが、文房具や家電製品についているJISマークは見たことがあるから。JISマークというものの存在は、小学校で習った記憶がおぼろげにある。遙香がうなずくのを見て、岡田もうなずきながら話を続ける。
「それの国際版みたいなものがあるんだよ。たとえばISOとかね」
ISOなら遙香もよく知っている。品質保証のために事業部でISO9001の認証を受けており、毎年監査を受けているからだ。こうした業務にはめっぽう強い小野寺から、新人時代にみっちり仕込まれた。今や彼女は、事業部内の品質管理の枠組みに関してなら、小野寺の次に詳しいと自負している。
標準化を進める国際的な団体は、もちろんISOだけではない。分野ごとにいくつも存在する。今回はその中で、ITCFという組織の標準化に参加することになったと言う。ITCFは通信系の国際標準化団体だ。
そうした標準化に企業がメンバーを派遣する目的は、大きくわけて二つある。ひとつは、標準化の動向をいち早く知ること。もうひとつは、標準化する規格に自社の意見を反映させること。
動向を知る目的であれば、CCテックはこれまでも専門の人員を派遣してきた。
だが今回は、自社の仕様を規格に反映させたい。そこで、技術的な知識を持つ者の参加が求められることになった、というわけなのだった。
「この依頼もJDDからのものでね。うちが受注した次世代ネットワーク管理システムの仕様を、国際標準に反映させてくれ、と言うんだ。要するに、彼らは出来上がったものが、ちゃんと国際規格に準拠してますよって言いたいんだよ」
規格が定まるのを待ってから開発するのでは、納期にまったく間に合わない。かと言って、何もせずにいたら開発したものとは違う仕様が国際標準として決まってしまう可能性が高い。だから開発と並行して、自分たちの仕様を国際標準に盛り込みたいのだと言う。
「相沢さんには、宮園さんと一緒にJDDの社員として、ITCFの会合に参加してもらうことになる」
「え?」
岡田の言葉に、遙香は思わず声を上げてしまった。出向させられるのだろうか、と不安になったのだ。
「私、JDDの社員になるんですか……?」
「いや、ならないよ」
心細そうな遙香の問いに、岡田は笑って首を横に振った。だが、先ほど彼は確かに「JDDの社員として」と言っていたではないか。混乱して眉根を寄せた遙香に向かって、岡田は続けた。
「そう名乗るだけだね。そのための名刺は、あちらで用意するそうだ」
「ええっ。嘘をつくってことじゃないですか」
ギョッとした遙香がつい反射的に抗議すると、岡田は「大丈夫だよ」と請け合う。
「勝手に所属を騙ったら詐称だけど、これは先方からの依頼だ。何も問題ないよ」
どうやらJDDは、自分たちの仕様を国際標準に盛り込むだけでなく、それを主導したという実績を残したいらしい。だから、そのための要員にはJDD社員を名乗らせたいのだと言う。
「じゃあ、後は宮園さん、お願いします」
岡田は宮園担当部長に話を振り、椅子の背もたれに寄りかかって、聞きの態勢に入ってしまった。
宮園は岡田より年長の四十代半ばほどで、海外システム部の担当部長だ。ただし、役職に「部長」とついていても、担当部長は部門長ではない。部下を持たない役職で、ネット管では国内システム部と海外システム部にひとりずついる。
身長は平均よりやや高めで、どちらかというと痩せ型。髪の中に白いものが目立つせいで少々老けては見えるものの、いかにも紳士然とした、穏やかで上品な人物だ。パリッとのりの効いたワイシャツの清潔感が、どこか小野寺を思い起こさせた。




