バード・オブ・フェザー (1)
ホスト役を勤め上げ、何か大きな仕事を終えたような気にはなるものの、遙香の仕事はまだまだ終わらない。何しろ肝心の標準化で、三つ巴の状態が続いたままなのだ。
二月の下旬に入り、次の会合がやってくる。今回はフランスのニース。出張前夜、智基が泊まりにやってきた。翌朝、羽田まで送って行くために。過保護なこの弟は、初出張のときだけでなく、海外出張のたびに毎回これだ。
普段はあまり荷物を持たずに身軽なのに、この日は大きな紙袋を下げていた。顔を合わせるなり、その紙袋を遙香に差し出す。
「はい。これ、今年の分」
「うわ。多い」
袋の中身をのぞき込み、数と量の多さに思わず声が出た。中身はすべてチョコレート。智基がバレンタインデーに受け取ったものだ。毎年のことだが、包装を開けることもなく、すべてそのまま遙香に回される。彼は甘いものが苦手なのだ。何しろ中学生の頃は、お弁当に入れる卵焼きを「甘くしないでください」と家政婦に頼み込み、塩味で作ってもらっていたほどである。筋金入りの甘いもの嫌いだった。
智基は食材の好き嫌いは一切ないくせに、味付けの好みは結構うるさい。特に和食の甘辛い味付けを嫌がり、出されてもほとんど手をつけることがなかった。どうやら砂糖の甘さが苦手らしいのだ。必ずしも甘味すべてが嫌いというわけではなく、「甘ったるいもの」を嫌う。
素材自体が甘くても、そのままの味ならあまり文句を言うことがない。だからかぼちゃやさつまいも、それにフレッシュフルーツなども、砂糖を使って味付けしたりさえしなければ「おいしい」と言う。
フレンチトーストが好物だと言うわりに、はちみつやメープルシロップといった甘いものをかけることはなかった。智基がフレンチトーストにかけるのは、醤油だけ。遙香も味見をしたことがあるが、バター醤油味になっていて、意外においしかった。ただし彼女に言わせれば、あれはフレンチトーストじゃない。醤油をたらした時点でもうフレンチじゃなくなってると思う。
なのに智基は好物を聞かれると、フレンチトーストと答えるのだ。そのせいで周りから甘いものが好きだと誤解されているのではないだろうか。
そんな智基だから、甘ったるいチョコレートなど食べるわけがなかった。家族となったときからずっと、バレンタインデーのチョコレートはそのまま遙香に横流しされ続けている。もらってうれしい量を軽く超えているのが、毎年のことながら悩みの種だ。いずれ劣らぬ気合いの入った高級チョコレートなので、おいしくはあるのだが。
「後でお返し買いに行くの、付き合って」
「はいはい」
ホワイトデーのお返しを選んでやるのも、毎年のことだ。
なぜか本人は頑なに認めようとしないが、はっきり言って、智基はモテる。母親譲りの長身と整った顔という女子受け抜群の容姿を持つ上に、人懐こく、マメで面倒見のよい性格なのだから、モテないわけがない。
本人は「付き合いだよ。お中元やお歳暮みたいなもん」と主張するが、どう見ても義理チョコではないのだ。見るからに気合いの入れ方が違う。たまに手作りが混じっていることまであるというのに、なぜそれを義理チョコだと思えるのか。
(義理チョコっていうのは、こういうチョコのことを言うんだよ)
遙香は胸のうちでひとりごちながら、戸棚からチョコレートを取り出した。スーパーで買った、何の変哲もない高カカオチョコレート。ラッピングどころかリボンやシールといった飾り付けさえ一切なく、むき出しだ。あまりにも味もそっけもない。もはやただの義理チョコと言うより、お義理のチョコといった風情である。それを無造作に「はい」と智基に手渡す。
「お、ありがとう」
智基はうれしそうに顔をほころばせて、両手で受け取った。不思議と昔から、このチョコレートなら食べるのだ。というか、これしか食べない。だから彼が食べる唯一のチョコレートを遙香が買って渡すのもまた、毎年のことなのだった。
智基はいそいそとそれをカバンにしまいながら、思い出したように尋ねる。
「そう言えば、前回は主催したんだっけ?」
「うん。ホストだった」
「どうだった?」
「何とか無事に終わったけど、めちゃくちゃ大変だった……」
遙香は日本会合でのセキュリティ攻防を、かいつまんで説明した。智基は目を丸くして聞いている。
「何それ。国際会議って、そんな攻撃まで受ける前提で準備しなくちゃいけないのか」
「まさか。普通なら、そんな心配いらないよ。アングラな国際会議でもあるまいし。標準化の会合って、出席者の大半が博士号を持ってるような、アカデミック感あふれる会議なんだよ?」
「あはは、そうだよな」
心底げんなりした様子の遙香に、智基は笑い声を上げた。
「それで、標準化の話し合いのほうはどうなってんの?」
「相変わらずだよ。三つ巴のまま。ああ、どうしよう……」
なるべく考えないようにしていたことを思い出させられて、遙香は頭を抱えた。その様子に、智基は軽く眉尻を下げる。ややあってから、遠慮がちに質問した。
「素朴な疑問なんだけど、その標準化って何のためにしてんの?」
「何のため……?」
遙香は言葉に詰まった。これまで一度も考えてみなかったことだったからだ。
「だってさ、そのシステムって、電話網みたいなでかいネットワークごとに一個しかないんだろ?」
「うん。ネットワークを集中管理するためのシステムだから、ひとつしかないよ」
「しかもオーダーメイドなんだよね?」
「うん。JDD向けに開発してる」
「だったら別のキャリア向けのシステムで使う通信方式なんて、JDDにはどうでもいいことじゃないの? よそで全然違う通信方式を使ってたとしても、別にそれでJDDは何も困んないよね? 一緒に使うわけじゃないんだからさ。他のシステムでJDDの通信方式に合わせる意味なくない?」
正論である。正論すぎて、返す言葉がない。
遙香にとって標準化とは、JDDからの依頼を遂行するものだ。何のためにと問われれば、JDDのメンツを保つためとしか答えようがない。だが智基が尋ねているのは、そういうことではなかった。もっと根本的なことを質問している。
遙香が「何のため……」と考え込むと、智基はあわてたように胸の前で手を振った。
「あ、ごめん。俺は技術的なことは何もわからないから、間抜けな質問してると思う。パソコンの周辺機器とか、大量生産するような製品の規格を標準化するって話なら、俺にもわかりやすいんだけどさ。そうしないと相互接続できないだろうってことくらいは、俺でもわかるし。でも特注するようなシステムの標準化って、どういう意味があるのかイメージがわかなかっただけなんだ。あまり深く考えないで」
「ううん。私は考えたこともなかったの。やれって言われてやってただけだから」
「まあ、仕事だとそんなもんだよね」
智基はそのまま話題を流したが、遙香の胸のうちでは「何のために標準化するのか」という疑問が、いつまでも小さくくすぶり続けていた。
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