海外出張の日々 (2)
遙香が二回目の海外出張から帰国した頃、宮園は仕事に復帰した。
拍子抜けするほど以前と変わらない姿だった。頭部の手術をしたと聞いていたので、頭に包帯を巻いているような痛々しい姿を想像していたのに。何でも、手術時には髪をほとんど剃らなかったのだそうだ。
復帰後、宮園の最初の仕事は、PCのクリーンインストールだったらしい。宮園のPCも、彼が倒れるしばらく前から調子が悪かったのだと言う。
実はこの頃、ネット管ではPCのクリーンインストールが大流行している。篠崎が自分の成功体験を声高に吹聴して回ったせいだ。篠崎のように異常な速度低下の症状が出ている者はもちろんのこと、そうでなくてもクリーンインストールすれば多少は性能が改善する。やって損はない、ということで誰も彼もがやり始めたのだ。
宮園が復帰したのは、その流行がすっかり事業部全体に広まった頃のことだった。ネットのアクセスが遅いとこぼせば、当然のように周りからクリーンインストールを勧められる。素直に助言に従った結果、調子がよくなったと喜んでいた。
宮園の復帰にあたり、遙香は海外システム部宛てに一通の文書を作成した。内容は、宮園と遙香の業務分担の変更について。遙香が海外出張要員となることで生じた変更を、きちんと明文化しておくことにしたのだ。
以前は「標準化の支援」などという何とも曖昧な文言で済ませていたのだが、もっと具体的な言葉で書き直した。小野寺のアドバイスをもとに、遙香なりの防衛策を講じた結果である。
遙香の分担は「会合に出席して情報収集すること」「会合に提出する寄稿文書を作成すること」の二点に絞った。そしてJDD対応を含め、それ以外の国内で行う業務は宮本主導で行うと明記した。
社外や事業部外ならともかく、同じ事業部内での業務分担をこれほど厳密に定義した文書に、篠崎は文句こそ言わないものの、若干引き気味だ。
「え、こんなにきっちり書くの?」
「はい。小野寺さん直伝です」
「そ、そうなんだ。さすが『鋼のお嬢さま』の名は伊達じゃないな……」
佐野と岡田は、どこか苦い笑みを浮かべながらも、何も言わずに承認してくれた。遙香の意図を察してしまったからだろう。
意外なことに、宮園の復帰後、彼に対して遙香が持つ印象は以前とがらりと変わった。小野寺から聞いた「頼りになるでしょ」という言葉を実感できるようになったのだ。
JDDがホストとなる件は、遙香の手を一切煩わせることなく、いつの間にか見積もりを作成してJDDの予算を得ていた。そればかりか驚いたことに、ちゃっかりカイルの出張旅費まで計上している。
予算の内訳を知って目を丸くした遙香に、宮園はにこにことこう説明した。
「万が一のための保険ですよ。事情を説明したら、予算が下りました」
カイルが保険として機能するような「万が一」については、起きないことを祈るばかりだ。
宮園が保険を掛けようと考えたのには、もちろん理由がある。そのきっかけは遥香の出張報告だった。彼女はニューヨーク出張の後、会合の内容だけでなく、会合の始まる前に起きた事件についても書き記した。その事件とはつまり、偽アクセスポイントが設置された、例の事件のことだ。
大方の予想に反して、この事件はニューヨークでの会合だけのことにとどまらなかった。なんとその後も繰り返されたのだ。その上、巧妙化する気配まであった。
その兆候に気づいたのも、遙香だった。
彼女はニューヨーク出張の後も、会合に出席するたびに会場でアクセスポイントの位置を調べ、きちんと電源が入っていることを確認していた。ニューヨークでの事件と同じことが起きるのではないかと心配だったのだ。
そして、この確認は無駄にはならなかった。と言っても、毎回このような事件が起きたわけではない。実際、ニューヨークの次の会合では、何ごともなかった。普通ならその時点で確認をやめそうなものである。ところが彼女は、その後も飽きることなく確認を継続した。この几帳面さは、小野寺仕込みと言えるかもしれない。
ただし、ニューヨーク会合のニアミスで懲りていたので、人目のない場所に単独で赴くのは控えている。人が集まる時間になってから行くか、ジェシーに付き添いを頼んでいた。
そしてあるとき、アクセスポイントに電源は入っているのに、正常稼働していないのを見つけてしまった。それに気づけたのは、LEDの表示からだ。たいていは緑色しか点灯していないものなのに、いくつかオレンジ色に点灯していたのだ。
不審に思った遙香は念のため、会場のスタッフにアクセスポイントのBSSIDを教えてもらって確認をしてみた。するとニューヨークのときと同様に、偽アクセスポイントが稼働していて、本物はダウンしているではないか。
状況を説明し、スタッフに本物のアクセスポイントを調べてもらったところ、初期化されて設定をすべて忘れていることがわかった。これでは、電源が入っていてもまともに動作するわけがない。
このように、わずかであれ手口が変化したことに、遙香は危機感を持った。だからこうしてサイバー攻撃の痕跡を見つけるたびに、出張報告書に詳細を記しておいた。宮園は、それをきちんと読んでいたのだ。
もしニューヨークの一件だけで事件が終わっていたならば、宮園も対策の必要性は認めなかっただろう。単発の事件だったら、悪質ないたずら、もしくは無差別なサイバーテロに巻き込まれただけである可能性が高い。
しかし、毎回でないにしてもその後も、二度、三度と似たような事件が繰り返されたとなれば、話は変わる。そうそう何度も、単発の事件に偶然巻き込まれるとは考えにくい。動機も目的も不明ではあるものの、何者かが会合の場を狙って攻撃を仕掛けている可能性を否定できないのだ。
そう考えると日本の会合でも、何かしら攻撃を仕掛けられるであろうことが十分に予想された。主催者の立場としては、自分たちがホストとなる会合でそんな事件を起こされるなど、たまったものではない。JDDだって当然、同じように思うだろう。
となれば、その攻撃を迎え撃つための体制を整えておきたい。十全な予防策を講じるのは当然のこととして、万が一にも攻撃を仕掛けられた場合に、即座に適切な対処ができるようにしておく必要がある。それには、カイルを現地に控えさせておくのが安心だ。何と言っても彼には、DEFCONのCTFで好成績を収めた実績があるのだから、と宮園はJDDを説得したのだった。
宮園はまた、カイルを日本出張させるための部門間調整も済ませていた。この話は間接的にジェシーから聞いた。
「カイルを推薦してくれたのは、ハル?」
「何の話ですか」
「ミスター・ミヤゾノから、カイルを日本での会合に派遣してくれって要請があったんだよ」
ここで初めて、遙香は日本での会合準備のために宮園が何をしているのかを知った。
遙香は別に、カイルを推薦したりはしていない。
ただ、そう言われて思い返してみれば、宮園と日本での会合について話したときに、セキュリティに関して不安をもらしたことなら確かにある。そしてそのとき「カイルが日本にいればなあ」とこぼしたのも覚えがある。カイルと面識のない宮園は、「カイル?」と首をかしげた。そこで遙香はカイルのことを簡単に紹介した。
「ジェシーのチームにいるセキュリティ技術者です。DEFCONの常連で、CTF本戦で準優勝したこともあるような実力のある人なんです」
「おお、それはすごいね」
おそらくこのときの会話を、宮園は言葉どおりに受け取ったのだろう。
こうして宮園の采配によって、日本の会合準備は着々と進んでいた。日程も決まった。一月下旬の予定だ。
そして遙香は遙香で、会合準備のことなど気にかけていられる状況ではなくなっていた。肝心の会合の場で、非常に困ったことになっていたのだ。というのも、新しい対抗案が提出されてしまったからだ。




