ニューヨーク会合 (3)
ホテルの従業員は遙香に目礼してから、脚立を立ててそこにのぼった。そして盛大に舌打ちをする。
「電源プラグが抜けてますね」
アクセスポイントの上部に、ケーブル類のコネクターがあるようだ。従業員が電源プラグをグッと差し込むと、左端のLEDが赤く点灯した。しばらくすると、すべてのLEDが緑色に点灯する。そのうち二個は通信状況を表示しているのか、チカチカと点滅していた。
確認まで終えて、脚立をたたんでいる従業員に、カイルが話しかけた。
「いたずら防止用に、カバーをつけたほうがいいんじゃない?」
「そういう案もあったんですがねえ。鍵つきのタイプは見た目がゴツくて。かといって鍵なしタイプだったら、つける意味ありませんしね。でも、今までこんなことは一度もなかったんですよ。ご不便をおかけしました」
ホテル側にとって、最大の懸念は盗難だ。だからケンジントンロックと呼ばれる、頑丈な鍵付きワイヤーで壁面に固定していた。盗難防止用には、これで十分だった。電源プラグを抜くなどという、子どものいたずらのような行為は想定外だったに違いない。
そうした事情を軽く聞き出した後、カイルは続けて質問した。
「このアクセスポイントのBSSIDを教えてもらえますか」
「BSSID、ですね。調べてまいりますので、少々お待ちください」
ホテルの従業員が脚立を抱えて去って行った後、遙香はカイルに質問した。
「BSSIDって、何ですか?」
「アクセスポイントの装置ごとに固有なIDのこと。たいていはMACアドレスを使ってるね」
つまり正規のアクセスポイントのBSSIDを知っていれば、接続したアクセスポイントが正規のものかニセモノかを判別可能、というわけだ。けれども遙香は、BSSIDというものに見覚えがなかった。SSIDならもちろん知っている。知らないとWi-Fiの設定ができないから。だがBSSIDというものは、Wi-Fiの設定画面で見た記憶がなかった。
「BSSIDは、どこを見ればわかりますか?」
「残念ながら、スマホではアプリを入れないとわからないんだ。無料で使いやすいのは、これ」
カイルは遙香のスマホを手にとり、アプリストアの検索バーにアプリの名称を入力した。それがお薦めのネットワーク解析アプリなのだと言う。せっかくなのでインストールし、使い方を教わりながら自分が接続中のBSSIDを確認してみた。
遙香がアプリをいじっている間に、カイルはまた別のアプリを開いてうろうろし始める。何をしているのだろうと思いながら遙香が見ていると、彼はニヤリと笑ってスマホ画面を見せてくれた。
「Wi-Fiアナライザーだよ。電波の強弱を測定できるから、偽アクセスポイントからの電波が強いエリアを探せば、そこで見つかるはずなんだ。原理的にはね」
遙香は目を丸くした。スマホでそんなことができるとは。
カイルによれば、もちろん専用の機器を使うほうがきちんと測定はできる。けれども会合に出席するだけのつもりだったから、そんなものは持参してきていない。それでスマホで代用しているのだそうだ。
だが結局、偽アクセスポイントを見つけることはできなかった。その前に、ホテルの従業員がBSSIDを調べて戻ってきたのだ。
「お待たせしました。こちらです」
従業員はカイルにメモ用紙を差し出した。カイルは「ありがとう」と受け取り、すぐにジェシーのところへ向かう。ジェシーは受付のメンバーに状況説明をしていた。受付を囲むようにして、事件のにおいを嗅ぎつけた人々で人だかりになっている。
カイルは人垣を縫ってジェシーに近づき、メモを手渡した。
「ジェシー、これが正規アクセスポイントのBSSID」
「お、ありがとう」
ジェシーはそのメモを、受付で応対していた人物に渡す。すでに話はついていたようだ。その人物はBSSIDを別のメモ用紙に書き写し、受付にいる数人に配った。そのうち三人がメモを手にして、別々の会議室へと足早に散って行く。
ネットワーク管理のワーキンググループに割り当てられた会議室内で、メモを手にした人物が参加者に向かって声を張り上げた。
「ホテルWi-Fiの偽アクセスポイントが出ています。正規のものは、先ほどまでダウンしていました。現在は復旧していますが、復旧前に接続したかたは偽アクセスポイントのほうにつながっています。正規のもののBSSIDをお知らせするので、接続時には注意してください」
当然ながら、室内には大きなどよめきが広がる。その中、メモを持った人はプロジェクターにつないだPCを操作して画面にBSSIDを表示させていた。BSSIDの下には、少し小さい文字で「netsh wlan show interfaces」とコマンドが添えてある。PCではわざわざ別にアプリを入れなくても、ターミナルでコマンドを実行すればBSSIDの確認ができるようだ。あわてたようにPCで確認する人がいれば、もっと詳しい事情を求めて声を上げる人もいる。
その様子を遙香が落ち着かない気持ちで眺めていると、カイルが「あ、消えた」とつぶやいた。遙香が「何が消えたんですか?」と尋ねると、彼は肩をすくめる。
「偽アクセスポイントの電波が消えた。電源落としたな」
つまり、犯人が逃げたということだ。なりすましWi-Fiの存在に人々が気づいてしまったからには、そのまま電波を出し続けていれば足がつきかねない。実際、カイルはWi-Fiアナライザーを使って位置を特定しようとしていた。もう少し時間があれば、ある程度位置が絞り込めただろうと言う。
それを避けるために、早々に電源を落としたのだろう。そのように簡単に逃げることができるから、なりすましWi-Fiの犯人を特定するのは難しい。カイルは肩をすくめた。
「ま、消えたならそれでいいか」
「これ以上、どうしようもないですもんね」
「そうなんだよね」
カイルは手を振って、セキュリティのワーキンググループに割り当てられた会議室に入って行く。
「僕たちも行こうか」
ジェシーが声をかけて、遥香に会議室に入るよう手でうながした。
「セキュリティじゃないんですか?」
「うん。今日はカイルがいるから、まかせてきた」
本来ならジェシーとは手分けして別々のワーキンググループに参加すべきところ、今回は一緒に参加してくれるようだ。まだざわめきが落ち着かない中、会議室に入って中央付近に並んで席を取った。
川浦電機の有坂は、一番後ろの隅に座っていた。
有坂と同じ列にはもうひとり、メイトランド社のジェリー・テイラーという男が座っている。メイトランド社は北米の電機メーカーだが、このワーキンググループではメイトランドが寄稿した文書は見たことがない。それはつまり、聴講に徹しているということだ。聴講に徹するなら、全体を観察できるほうが都合がよい。同じく聴講に徹している有坂もそうであるように、自然と一番後ろの席を選ぶのだろう。
時間を少し過ぎてから司会が現れ、会合が始まる。今回は、前回の会合でJDDの対抗案を出したユングレーンの独擅場だ。前回の案に対する質疑や意見への回答と、それを反映させて更新した文書の提出。ユングレーンの代表者はトビアス・イェイストというスウェーデン人で、積極的に寄稿するだけあって最前列に陣取っている。
会合の内容は、事前に配布された資料の読み上げがほとんどだった。うんざりするほど退屈な内容ではある。だが退屈かどうか以前に、遙香の予想どおり、さっぱり聞き取れない。英語のはずなのに、英語に聞こえないのだ。資料を読み上げているのを聞いているだけでも、ちょっとでも目を離すと、どこを読み上げているのか追えなくなる。
休憩時間に、ついジェシーに向かって泣き言をこぼしてしまった。
「私の英語、使いものにならない……」
「それだけしゃべれてれば、十分でしょ」
「でも、全然聞き取れないんですよ」
気弱な遙香の言葉に、ジェシーは「ああ」と眉を上げて苦笑した。
「あの人たち、なまりがきついもんなあ。大丈夫、遙香の話す英語はきれいだから、何も心配いらないよ」
心配してるのは、そこじゃない。遙香はがっくりと肩を落とした。




