ニューヨーク会合 (2)
一度自分の部屋に引き上げ、会合に出席するための準備をした。
ポケットWi-FiにスマホとノートPCを接続して、動作確認。荷物が増えてしまったので、トートバッグに入れていくことにする。モバイルバッテリーもバッグに入れた。
準備ついでに、ジェシーにメッセージを送信しておく。
『ホテルの会議室に、なりすましWi-Fiがありました。気をつけてください』
五分ほど返信がついた。
『了解。情報、ありがとう』
部屋で時間をつぶすのも手持ち無沙汰で、遙香は結局、九時半には会議室に向かってしまった。会合の受付が九時半からだったのだ。
会議室をつなぐ通路の片隅に、早朝にはなかった受付用のテーブルが置かれていた。そこで会社と氏名を名乗ると、名札を二枚渡される。一枚は手のひらサイズで、胸に付けるためのもの。
もう一枚は横長で、席に着くとき、机の上に置かれているホルダーに差しておく。この名札のおかげで、どこの会社の何という名前の者が座っているのか、ひと目でわかる。
どこに座ろうか、部屋の一番後ろから席を眺めていると、部屋の入り口のほうから声がした。
「ハル、おはよう!」
振り向いてみれば、そこにいるのはカイルだ。笑顔で手を振っている。遙香も「おはようございます」と挨拶を返して、通路に出た。
「カイルも会合に出席するの?」
「うん。普段は出てないけど、ニューヨークでの開催だから交通費がかからないだろ? せっかくだから経験してこいってデイヴに送り出された」
「どうやって来たの? 車?」
「まさか。地下鉄だよ」
カイルが参加するのは、遙香とは別のワーキンググループ。セキュリティのほうだ。
通路で世間話をしているうちに、ジェシーもやって来た。
「おはよう」
「おはようございます」
「ハル、なりすましを見つけたのって、ここ?」
「はい、そうです」
なりすましなどという穏やかではないキーワードを聞きつけて、カイルが会話に割って入ってきた。
「え、なりすまし? 何の?」
「Wi-Fiだよ。でも、SSIDはひとつしか出てこないけどなあ」
ジェシーはスマホの設定画面を開いて、表示されるSSID、すなわち無線のネットワーク名を確認している。彼の言葉に驚いて、遙香はその手もとをのぞき込んだ。確かにひとつしか表示されていない。彼女が朝見たときには、間違いなく二つ表示されていたのに。
「二つ見たっていうのは、いつ?」
「今朝です。朝食が六時半からで、食べ終わってすぐ後だから、たぶん七時くらい」
「約三時間前か……。そのとき、地下で誰か見かけた?」
「いえ、誰もいませんでした」
ジェシーの質問に答えながら、遙香はふとエレベーターを待っていたときのことを思い出して「あ」と声を上げた。ジェシーはいぶかしげに眉を上げ、「うん? どうした?」と尋ねる。
「でも、誰かしら地下には下りてると思います。私が地下に行くより前に、エレベーターが地下にとまってたから」
ジェシーは「そうなのか」と目を見開いた。
「ニアミスだったのかな」
「かもしれません」
「細工をしてる最中にハルが降りてきて、焦って逃げたのかもしれないね」
ジェシーの言葉に、遙香はゾッとした。そんな悪事を働くような人物と、たったひとりで顔を合わる羽目に陥った可能性もあったのだ。言われて初めて気がついた。ホテル内とはいえ、人目の少ない場所にひとりきりで出向くなんて、軽率だったかもしれない。
でも誰の姿も見かけなかった。ということは、あのエレベーターが地下にとまったとき、犯人は地下に下りたのではなく、地下から引き上げたのではないだろうか。
そう遙香が推測すると、ジェシーは「いや」と首を横に振る。
「そんな工作の途中で現場を離れる理由がないよ。作業半ばで中断したと考えるのが自然じゃないかな」
それを聞いて、遙香は首をひねる。エレベーター前の通路と会議室の通路はT字状につながっているから、遙香が地下に下りてからフロアを離れようとしたなら、必ずどこかで鉢合わせしたはずだ。でも誰もいなかった。
これがフロントやレストラン、売店のある一階から四階や、二つのホテルで共有する設備の置かれた三十五階であれば、裏側のソジャーナズイン用エレベーターを使った可能性も考えられただろう。だがソジャーナズイン用エレベーターは、地下には止まらない。会議室のある地下はビジネス用フロアという位置づけらしく、ビジネス旅行者向けホテルであるクロイスターホテルのエレベーターしか止まらないのだ。
つまり地下フロアの出入り口は一か所のみで、それがクロイスターホテルのエレベーターということになる。
そう彼女が指摘すると、ジェシーは思案顔で「ふむ」とうなずき、しばらく考えてから「非常口があるんじゃないかな」と言う。そしてさっそく非常口を探し始めた。
すると、確かに非常口が存在した。
この階にはソジャーナズイン用エレベーターが止まらないため、そのエレベーター前のスペースがスタッフ専用通路に割り当てられている。その通路は、非常口を兼用していた。この通路へは、会議室前の通路にある目立たない扉から入ることができる。スタッフ用通路を抜けた先には、非常用階段があった。
遙香の乗ったエレベーターが地下に到着し、チャイムが鳴り響いたのを聞いてすぐにその通路に身を隠せば、遙香に姿を見られることはない。そして遙香が立ち去るのを待ってから、工作を終わらせたのではないか、というのがジェシーの考えだ。
遙香が立ち去るときには再度エレベーターのチャイムが鳴るから、通路をのぞき込んだりせずとも確認は簡単だ。人の出入りが多ければ通用しない方法ではある。しかし時間が時間なので、遙香の他には誰もいなかった。
ジェシーの推測はいかにも当たっていそうだ、と遙香は思う。が、確認する方法がない。しばらく考えてから、ひとつだけ思いついた。
「ホテルに監視カメラはないんでしょうか」
「あると思うよ。ただ、犯人が映ってるかっていうと、それはどうかなあ」
念のためフロントに電話して確認してみたが、犯人の映っていそうな場所には監視カメラが設置されていなかった。
そもそもホテルが監視カメラを設置する目的は、宿泊者と従業員を事件やトラブルから守ることだ。利用者を監視することではない。だからこのホテルでは、何かあったときに外部から不審な人物が入り込んでいないか確認できるよう、一階の入り口やフロント周辺がもれなく映るように配置していた。また、客室フロアに不審な人物が入り込んでいないか確認できるよう、客室のあるフロアのエレベーター前や非常口にも配置されていた。
それ以外の場所には、利用者のプライバシーに配慮して設置していない。だから会議室フロアに出入りしたのが誰なのか確認できるようなカメラは、あいにくこのホテル内には存在しなかった。
「じゃあ、やっぱりこれ以上は探しようがないってことですね」
「うん、そうなるね」
ジェシーはそう相づちを打ったきり、何やら考え込んでいる。何をそんなに考えることがあるのだろう、と遙香は戸惑った。不安を解消したくて、カイルに話しかけてみる。
「でも、なりすましのほうが消えたなら、もう心配いりませんよね」
「まあね。本当にそうならいいんだけど」
何だかカイルまで歯切れが悪いではないか。不安が解消するどころか、逆にあおられてしまった。やがてカイルは、天井を見上げながらフラフラと通路を歩き始める。怪訝そうに遙香が見守る中、彼は通路の中間地点あたりで立ち止まった。
カイルは難しい顔で手招きをした。
「ジェシー、何か変だぞ」
「何が?」
カイルが探していたのは、ホテルのWi-Fiのアクセスポイントだ。見つけたアクセスポイントは、通路の壁の天井ギリギリあたりに取り付けられていた。白いプラスチック製のケースに入った装置で、アクセスポイントというものを知らなければ、火災センサーだと思うかもしれない。
「LEDがひとつも点灯してないんだよ。おかしいと思わない?」
「あれ。本当だ」
このアクセスポイントには、表面の下部にLEDが五個ついている。こうしたLEDがある場合、たいていはそのうちひとつが機器の状態表示に割り当てられているものだ。要するに電源がオンかオフか、あるいは稼働状態が正常かエラー発生中か、といった情報を色で示すことが多い。
それがひとつも点灯していないということは、アクセスポイントの電源がオフであることを意味する。そして電源が入っていないなら、動いているはずがない。
「ユナイテッドテレコムか」
カイルはアクセスポイント表面のロゴを読み取ってつぶやいた。
ユナイテッドテレコム社は、ネットワーク製品のメーカーだ。企業向けの製品しか出していないので、世間一般での知名度はさほど高くない。だが遙香にとっては、仕事柄、馴染みのある名前だった。ネット管で開発するシステムにおいて、まさに管理対象とするような製品のメーカーだから。
カイルはポケットからスマホを取り出して、何やら検索した末に「やっぱりそうだ」とスマホの画面をジェシーに向けた。アクセスポイントのマニュアルを検索して開いていたらしい。
「左端のLEDが状態表示。電源オンなら緑色に点灯してるはず」
ジェシーは「ふむ」とうなずいてから、カイルに指示を出す。
「今の話をホストに知らせてくれるかな。僕はちょっとホテルと話をしてくる」
「わかった」
ジェシーはそのままエレベーターに向かい、カイルは遙香に「行ってくるね」と声をかけてから受付に向かって歩いて行った。彼が受付で話し始めてしばらくすると、受付周辺がザワザワと慌ただしい雰囲気に包まれる。
受付の様子をぼんやりと眺めている遙香に、「おはようございます」と日本語で話しかける者がいた。驚いて振り向いてみれば、そこにいるのは四十代くらいに見える小柄な日本人だ。太っているというほどではないが、肉付きがよい。名札には社名に「カワウラ」、名前に「サトシ・アリサカ」とローマ字で記載されていた。
「JDDさん代理のCCテックさんですよね?」
「はい、そうです」
遙香は内心「バレてる」と苦笑いする。声をかけてきた男は「私、川浦電機の有坂です」と自己紹介しながら、名刺を渡してきた。
有坂は太い黒縁の眼鏡をかけていて、上着を着ていないネクタイ姿だ。寝グセなのかクセ毛なのか、割と豪快にひと房ハネているところに何とも言えない愛嬌がある。見た目には会社員というより、大学教授のようだな、と遙香は思った。
遙香も自分の名刺を取り出す。そして「建前ではこういう者ですが」と言いながらJDDの名刺を渡し、「実際の連絡先はこちらです」とCCテックの名刺を渡した。有坂は「JDDさんの名刺まであるんですか」と愉快げだ。
「ところで、今日は宮園さんと一緒ですか?」
「いえ。宮園が事情により参加できなくなったので、代理で来ました」
「ああ、そうなんですね」
遙香と有坂が世間話を始めたところへ、ジェシーが戻ってきた。その後ろからは、ホテルの制服を着た男が二人付いてくる。ひとりは脚立を抱えていた。
三人とも、まっすぐに遙香たちのいる場所に向かってくる。遙香は有坂に手招きして、邪魔にならないよう脇によけた。声をかけられるのを待つまでもなく、彼らに用事があるのは遙香ではないとわかっているからだ。彼らの目的は、頭上に設置されているアクセスポイントの確認だろう。




