ニューヨーク会合 (1)
夕食後、遙香はまっすぐホテルに送り届けられた。サマータイムのおかげで、七時半なのにまだ日没前だ。何度も礼を言いながら車を降り、手を振って見送った。
遙香の部屋は二十九階。六十八階まである超高層ホテルなので、階層としては中央付近だ。すでにスーツケースと機内持ち込み用のバッグは部屋の中に運び込まれていた。ホテルの内装は、いかにもビジネス旅行者向けらしくあっさりしていて、黒を基調としたモダンなデザインだった。
部屋は決して広いとは言えないものの、眺望がすばらしい。部屋に入ってまず驚いたことに、外に面した側が、ほぼ床から天井まで全面ガラス張りになっている。しかも角部屋なので、外に面した部分が広い。なんと洗面所からも、街の景色が見下ろせるのだ。
でも眺めを楽しむ前に、遙香にはやらなくてはいけないことがあった。バッグからノートPCを出して、電源につなぎ、ホテルのフリーWi-Fiに接続する。そしてメッセージアプリを開き、父と弟宛てに「ホテルに到着」とメッセージを送信した。これでよし。
すると、すぐにピロンと受信音が鳴る。智基だ。
『遅かったね』
まさか返信があるとは。遙香は目を丸くして、スマホの世界時計を確認した。すると日本時間では、朝の八時半。もう仕事が始まる時間じゃないの、と半分呆れながらも、返信をした。
『空港からブルックリンのオフィスに寄って来た』
実を言えば、ブルックリンのオフィスで過ごした時間より、ジェシーに案内されてニューヨーク観光した時間のほうがよほど長い。だが、まあ、わざわざ言う必要はないだろう。
『そうか。お疲れ』
智基から送られてきたねぎらいの言葉に、やましい気持ちがチクチクと刺激された。その罪悪感にはそっと蓋をし、遙香はPCを閉じて寝支度を始めたのだった。
* * *
翌朝は時差ボケのせいか、六時前に目が覚めてしまった。ホテルの朝食は、平日は六時半から九時半まで。前日は昼食をたっぷり食べたから、夕食は軽くしかとらなかった。おかげで、しっかり空腹だ。開始時間になるのを待って、朝食会場である三階ロビーに向かった。
朝食はブッフェ形式で、アメリカンブレックファーストだった。ベーグル、パン、マフィンがそれぞれ数種類、オートミール、ゆで卵にスクランブルエッグ、チーズ、ソーセージ、ベーコン、フレッシュフルーツ。それにコーヒー、紅茶、ココアなど、温かい飲み物が数種類。フルーツの種類が豊富で、たっぷり置かれているのがうれしい。
チーズとベーコンでベーグルサンドを作り、スクランブルエッグとフルーツを盛り合わせにして、外に面したカウンター席に陣取った。ホテル前の通りに面した壁はガラス張りで、交通の往来を見下ろせる。日の出が六時少し前なので、すでに外は明るい。
まだ朝早いというのに、ロビーには宿泊客が次々と入ってきた。落ち着いた色合いのシックな服装をした、比較的年配の客が多い。見たところ、ヨーロッパ系が多いようだ。聞こえてくる言葉も、そんな感じ。顔見知りらしき人々が、そこかしこで挨拶を交わしていた。
その様子を、食事をしながら見るともなしに眺めているうち、遙香はあることに気がついた。
(あれ? もしかして英語をしゃべってる?)
てっきりイタリア語とか、ドイツ語とか、ヨーロッパ系の言語で声をかけ合っているとばかり思っていたが、よくよく聞いてみると英語っぽい単語が聞こえてくる。なまりがひどくて、ちっとも英語らしく聞こえないけれども。
(やっぱり英語だ。でも、何を言ってるか全然わからない……)
もし彼らが会合の出席者なのだとしたら。遙香の英語力ではコミュニケーションがとれないのではないか。前日はブルックリン・オフィスのメンバーたちとそれなりに会話になっていたから、すっかり安心してしまっていた。でも、これはまずいかもしれない。
血の気が引く思いをしながら、耳を澄ませる。
(だめだ。さっぱりわからない)
沈んだ気持ちを抱えたまま食事を終え、とぼとぼと部屋へ戻った。
部屋へ戻りはしたものの、会合の始まる十時までは、まだ三時間ほどある。何もしないでいると不安で気が滅入ってくるので、あまり意味はないが、会合の開かれる場所の下見をしてみることにした。
会合は、遙香の泊まっているクロイスターホテルの会議室で開かれる。このホテルの会議室は、地下にあった。地下なら窓がなく真っ暗にしやすいから、プロジェクターを利用するのには都合がよさそうだ。
エレベーターのボタンを押したが、あいにく四基あるエレベーターはフル稼働中だった。だいぶ待たされそうだ。朝食時間だからだろう。
この建物のエレベーターは全部で八基あり、四基ずつ背中合わせのようにして建物の中心部分にまとめて設置されている。背中合わせの四基はそれぞれ三十五階までの低層階用と、それ以上の高層階用に割り当てられていた。
実はこの建物には、クロイスターホテルの他にもうひとつ、同じ系列のホテルブランドであるソジャーナズインという長期旅行者用のホテルが同居している。クロイスターホテルの客室は六階から三十四階まで、ソジャーナズインの客室が三十六階以上となっていた。三十五階にはジムやコインランドリーなど、両方のホテルで共有している設備が置かれている。
価格帯と部屋の広さだけを比較するなら、二つのホテルにはほとんど差がない。主な違いは室内の設備で、長期旅行者用であるソジャーナズインの部屋には備え付けの簡易キッチンがある。一方でクロイスターホテルの部屋にはキッチンがない代わりに、バスルームがソジャーナズインに比べてゆったりしていた。
上層と下層で別々のホテルということは、つまりエレベーターはそれぞれのホテル専用ということだ。だからクロイスターホテル用のエレベーターは、実質四基のみ。通常なら宿泊客は二つのホテルに適度にバラけるのかもしれないが、この日はあいにくクロイスターホテルに偏っていた。会合のせいだ。参加者向けに発行されたプロモーションコードはクロイスターホテルのものだったので、会合の参加者は全員クロイスターホテルに宿泊していた。
焦れたところで、どうしようもない。エレベーターの表示を見ながら、のんびり待つ。すると左端のエレベーターが、地上階を通り過ぎて地下まで降りて行くのが目にとまった。
(下見の人が、ほかにもいるのかな?)
さらにしばらく待ち、やっとエレベーターがやって来た。しかし、乗ってからがまた長い。各階止まりとまでは言わないものの、何度も止まっては人が乗ってくる。乗ってきた人々は、全員が朝食会場のある三階で降りて行った。ぽつんと残った遙香は、ひとり地下へ向かう。地下に到着した頃には、宿泊フロアでボタンを押してからたっぷり十分以上が経過していた。
エレベーターから降りると、通路の空気はひんやりとしている。人影もなく、しんと静まりかえっていた。ピンポーンというエレベーターの電子的なチャイム音だけが、静寂を破って妙に大きく響き渡る。
(誰もいない……)
あまりの静けさに、遙香はつい意味もなく息をひそめてしまった。辺りを見回しても、ひとけがない。先ほどエレベーターが地下に降りて行ったから、てっきり誰かいるものと思っていたのに。
何だかいけないことをしているような気持ちになりつつ、会議室のあるほうへ足を踏み出した。地下にある会議室は、全部で五室。そのうち会合で利用するのは三室だ。それぞれポラリス、シリウス、クレセントと名前がついている。
会議室の中をのぞいてみると、テーブルの配置は遙香の予想とは違っていた。会合という言葉から彼女が想像していたのは、全員で長テーブルを囲んで座るような形だ。国際会議と呼ぶくらいだから、顔を合わせる形で座るのだろうとばかり思っていた。ところが実際には、すべてのテーブルが前方のスクリーンを向く形で配置されている。会合というよりはセミナーが開かれそうな雰囲気だった。
(席に電源なし。ノートPC用にモバイルバッテリーが必要かな)
ホテルのWi-Fiが使えるかも一応確認しておこうと、スマホの画面を開く。そして遙香は目を見開いた。
(あれ? 同じネットワーク名が二つある)
部屋ではひとつしかなかったのに。
セキュリティには特に詳しくない遙香にも、この現象には思い当たるものがあった。これはいわゆる「なりすましWi-Fi」というものではないのだろうか。
なりすましWi-Fiとは、悪意を持って設置された、フリーWi-Fiとそっくりなアクセスポイントのことである。ネットワーク名などに本物とまったく同じ値を設定されていて、利用者側からはどちらが本物か判別する方法がない。
ユーザーだけでなく、スマホにとっても判別不能だ。だからデフォルトから設定を変えていないスマホやPCは、一度でも接続したことのあるネットワークには自動で接続してしまう。たとえそれが偽アクセスポイントだろうが、おかまいなしである。
ニセモノのフリーWi-Fiなんて、どう考えても善意で設置するものではない。何かしらよからぬ目的があると考えるのが自然だ。そんなものに接続したら、何をされるかわかったものではない。たいていは騙して接続させた上で、ログインIDやパスワードなどの重要情報を盗んだり、不正サイトに誘導して詐欺を働いたりすると言われている。
(やっぱりニューヨークってこわい場所なんだな……)
どちらが本物なのか判別する手段がない以上、少なくともニセモノが稼働している間は、ホテルのフリーWi-Fiの利用を控えたほうがよいだろう。
(ポケットWi-Fiがあってよかった)
トラベルではポケットWi-Fiのレンタルもしているのだ。出張の手配をした際、トラベルの徳田がレンタルを勧めてくれた。レンタル料は、もちろん出張経費で落とせる。




