ニューヨーク観光
賑やかに一時間以上かけてのんびりと食事をした後、「またおいで」と手を振って職場に戻っていくカイルたちと、店の駐車場で別れた。
今度はもう、助手席を間違えることなく右側のドアに向かう。
「アメリカの昼休みは、一時からなんですか?」
「いや、うちは特に決まってない。それぞれ好きな時間に一時間くらい休憩を入れてるよ。今日はハルが来るってわかってたから、時間を合わせたんだ」
店のすいている早めの時間に外食に出たり、逆に昼は仕事に集中して午後ゆっくり食事に出たり、それぞれのスタイルに合わせて休んでいるそうだ。いつもなら暗黙の了解で「だいたい一時間ぐらい」で職場に戻るものだが、今日は遙香のために、部長公認で時間超過したらしい。
レストランからクロイスターホテルまでは、車で二十五分ほど。イースト川を渡るとマンハッタンだ。面白いことに、ブルックリンでもマンハッタン寄りの川沿いには高層ビルが増える。
「ホテルにスーツケースを預けたら、観光に行こう」
「いいんですか?」
「うん。午後半休にしちゃったからね。たっぷり時間があるよ」
思いがけない言葉に、遙香は目を大きくした。わざわざ遙香のために休暇までとってくれたということなのだろうか。
「ミスター・ミヤゾノなら放っておくんだけどね。ハルはちょっと──、うん、初めての出張でしょ」
ジェシーが「ちょっと心配」と言いかけて言葉を変えたのが、遙香にもわかってしまった。いささか居たたまれない思いをしていると、彼は「だからこれは、初回特典なのさ」と笑った。
「他の国なら難しかったから、初回がニューヨークでラッキーだったね」
そう言えば昼食の最中に、ジェシーは部長のデイヴと何やら話をしていた。もしかしてあれは、休暇の相談をしていたのだろうか。
「さて。車で行けるとこなら、どこでも連れて行ってあげられるよ。メトロポリタン美術館でも、エンパイアステートビルでも。行きたい場所があれば、教えて」
行きたい場所、と言われて遙香はうずうずした。行きたい場所なら、もちろんある。ただし、あまり観光地とは言えない場所だった。
「どこでもいいんですか?」
「もちろん」
「なら、本屋さんに行きたいです」
遙香の希望を聞いて、ジェシーは意外そうに目を見開いてから笑い声を上げた。
「本屋? 本屋って、本を売ってる、ただの本屋でいいの?」
「はい、そうです」
「面白いところに行きたがるなあ。オーケー、他には?」
「ええっと、スーパーマーケットにも行ってみたいです」
「食品を売ってる、普通のスーパーってこと?」
「はい」
この希望も、ジェシーの笑いのツボを刺激したようだ。
「へえ。本当に面白いところに行きたがるね。いいよ、それから?」
「もし時間に余裕があれば、図書館にも行ってみたいです」
「本屋に図書館か。もしかして、本が好き?」
「はい」
実は三つ目の行き先は、古本屋と図書館のどちらにしようか迷った。古本屋なら、欲しいものが見つかれば買える。だが見つかる保証がない。図書館は、読みたい本が見つかっても遙香には借りることができない。でも見つかる確率が高そうだし、少なくとも手に取って見ることはできる。というわけで最終的に、図書館に傾いたのだった。
「僕も読書は好きだよ。ハルはどんな本を読むの?」
「ファンタジーとかSFとか。くだらない本ばっかりなんですけど……」
「全然くだらないとは思わないけどなあ。僕もよく読むよ、ファンタジーやSF」
「そうなんですか」
こんなところに同好の士を見つけて、遙香はうれしくなる。けれども口もとに浮かんだ笑みは、ジェシーから質問を受けると、まるで冷や水を浴びせられたかのようにすっと消えて行った。
「誰かにくだらないって言われたの?」
彼からそう質問されて、遙香は初めて気づいた。自分が何と言ったのかを。「くだらない本」。そう言った。完全に無意識だった。ジェシーに質問されなければ、そんな言葉を口にしたことなど気づかないままだっただろう。
真由美にそう言われていた頃は、言われるたびに「くだらない本なんかじゃない」と思っていたはずなのに。いつの間にか、意識の中に刷り込まれてしまっていたのだ。そのことに、今やっと気づいた。
遙香はため息をついて、悄然と答えた。
「子どもの頃、継母に」
ジェシーもため息をつくようにして「そうか」と相づちを打つ。彼は痛ましげに眉をひそめ、しばらく迷うそぶりを見せた後、やや遠慮がちに質問した。
「もしかして、その人に虐待されてたんじゃない?」
「はい。それが原因で、十五歳のときに父が離婚しました」
そう答えてから不思議に思い、遙香はジェシーに尋ね返した。
「虐待されてたって、どうしてわかったんですか?」
「そりゃあ、ね。継母で、そんなことを言うような人が、それだけってことはないだろうからねえ」
ジェシーは遙香の質問に答えてから、彼女の顔をのぞき込んだ。
「ハルは強い人なんだね」
「え? そんなことありませんよ。どうしてそう思ったんですか?」
「好きな本を『くだらない』なんて貶められても、やめずに読んでるじゃないか。芯の強い人じゃなきゃ、きっと読むのをやめてるよ」
遙香は「やめてましたよ」と苦笑した。
「それで英語の本を読み始めたんです」
「どういうこと?」
首をかしげるジェシーに、遙香は中学生の頃に英語で本を読み始めたいきさつを説明した。継母に叩かれるのがこわくて家では本を読めなくなってしまったが、英語を勉強しているという言い訳を使って英語で読書を始めたのだ、と。親にも話したことがないのに、初対面のジェシーには、不思議と何でもない世間話のように話せてしまう。英語だからかもしれない。
遙香の話を聞くと、ジェシーは思わずといった様子で小さく吹き出してから「思ってたよりずっと強かった」と言って笑い出した。
「そういうのを不屈の精神って言うんだよ」
「不屈?」
「そう。決して折れないってこと」
遙香がきょとんとした顔をしたので、ジェシーは言葉の意味を説明した。だが別に、彼女は不屈という単語を知らなかったわけではない。ただ単に意外なことを言われて戸惑っただけだ。もっともそう言われてみれば、確かに自分でも頑固なところがあるとは思う。でもそれは、とても不屈の精神と呼べるほど立派なものではないような気がした。
納得しかねている彼女の表情を見て、ジェシーは笑いながら続けた。
「まあ、何にしても、もうそんな言葉は忘れたほうがいい。よほど気取った俗物でもない限り、ファンタジーやSFをくだらないなんて言う人はいない。僕が保証するよ」
遙香は「そうですね」とうなずいた。
「感化されないように気をつけてたつもりなんだけどなあ。見事に感化されてますね」
「ローティーンの頃に親からそう言われ続けたら、身に染みついちゃっても仕方ないよね。でも、もう忘れよう」
「そうします」
少しの沈黙の後、ジェシーは再び質問した。
「図書館へは、何をしに行きたいの?」
「もう絶版になってるけど、読んでみたい本があるんです」
何度も読み返すほど大好きな児童書で、邦訳は持っている。けれども、どうしたわけか原書は絶版なのだ。ハリウッドで映画化された著作がいくつもあるような、有名な作家のはずなのに。
作者とタイトルを告げると、ジェシーは「その本なら、僕も持ってるよ」と言う。そして思いもかけない提案をした。
「図書館に行っても、一時間かそこらじゃ読み切れないでしょ。僕のを貸してあげるよ」
「え。いいの?」
「もちろん。ハードカバーだから重くなっちゃうけど、かまわないかな?」
「全然かまいません」
「じゃあ、明日持ってこよう」
「うれしい。ありがとう」
でも最終的に、図書館へは行くことになった。
まずはユニオン・スクエアの向かいにある、ニューヨークで一番大きな書店に行った。その後、ユニオン・スクエアを抜けて反対側の向かいにある、ニューヨークで一番有名なスーパーで買い物をする。そして最後に、ニューヨーク公共図書館の本館を訪ねた。
この図書館は、それ自体が歴史を感じさせる、まるで美術館のような建物だ。一般公開されている場所を歩くだけでも十分に観光になりそうだったが、ジェシーが遙香を案内したのは、一般人が入れないスタッフ専用エリアだった。実はニューヨーク公共図書館では、CCテックのシステムを導入しているのだそうだ。だから関係者として、システムの置かれている場所に出入りすることができる。
そのフィールドサポート用に、CCテックには市内の駐車許可証が二枚支給されていると言う。路上駐車の取り締まりがとりわけ厳しいニューヨークで、この日ジェシーが遙香を車で観光案内できたのは、この許可証のおかげだ。口の前に人差し指を立てながら、彼はいたずらっぽい顔でそう説明してくれた。まごうかたなき職権乱用である。
おかげで遙香は、取引先の職場見学まで含めた、この上なく濃密で充実したニューヨーク観光を満喫したのだった。




