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ブルックリン・オフィス (3)

 日本時間は深夜の一時。もう起きていないだろうと思いつつも、智基に「ブルックリン到着」とメッセージを送っておいた。社内Wi-Fiにつないでメールチェックをしたりすれば、一時間などすぐ過ぎる。


 一時間後、「そろそろ行こうか」とジェシーが声をかけてきた。食事の後はオフィスには戻らず、ホテルに送ってくれるらしい。ビジター用のIDカードを返却し、食事に出るメンバーと一緒にぞろぞろと非常階段を下りた。ここも、普段は階段をよく使っているそうだ。


 階段を下りたところにある裏口から外に出ると、そこは駐車場だった。車で通勤している社員は、普段はほとんど裏口から出入りしていると言う。


 出かけた先は、落ち着いた雰囲気のレストラン。店名がフランス語だから、きっと料理もフレンチ系だろう。店の構えから判断するに、庶民的というより、どちらかと言えば高級寄りのようだ。


「費用はこちら持ちだから、好きなものを頼んで」


 そう言ってジェシーからメニューを渡された。しかし遙香はメニューを開いて、途方に暮れる。なぜなら、文字しか印刷されていなかったから。日本だったら、たいていは写真付きなのに。しかも淡々と料理名が並んでいるばかりで、どんな料理なのか説明がない。


 困り果てた彼女を見かねたのか、ジェシーが「肉と魚ならどっちがいい?」と助け船を出す。さらにいくつか質問した上で、好みに合いそうなものを選んでくれた。


 ブルックリン・オフィスからこの昼食に参加したのは、ジェシーを含めて六名。ジェシーとデイヴ、さきほど少しだけ話したカイルのほか、ソフトウェア技術者だという青年たちが三名いた。ジェイソン、ローガン、エマ。エマだけ女性だ。エマは、遙香が想像していたジェシーの姿に近い。つまり、おしゃれなお姉さんだった。


 ジェシーは彼らの課長だと言う。役職者だなんて、初耳だ。そんな人に空港まで迎えに来させてしまったと知って、遙香は少々冷や汗の出る思いがした。


 ジェシーの部署も、ソフトウェア開発をしているらしい。席について紹介が終わると、口々に遙香に話しかけてきた。


「ネット管かあ。うちとも一緒に仕事しようよ」

「ぜひ日本に出張できる仕事をください」

「開発部隊は、サンノゼだけじゃないのよ」


 中には大いに私欲にまみれた発言が混じっていて、遙香は笑ってしまった。


「ブルックリンでは、何を開発してるんですか?」

「うちはセキュリティ監視システムだよ」


 内容を聞けば納得だ。だからカイルのようなセキュリティ技術者がいるのだろう。そしてこれまでネット管と接点がなかった理由も、彼らの専門がセキュリティだからだ。


 ネット管では、ネットワークのセキュリティはさほど重視されない。ネットワーク管理専用のネットワークで運用される前提のシステムだから、外部ネットワークからの攻撃は考慮する必要がないのだ。ネットワーク管理システムのセキュリティは、管理室の入退室を厳密に管理するなど、主に物理的な方法で確保する。


 開発しているシステム的には接点がないが、今回はITCFが縁で一緒に仕事をすることになった。ITCFには、セキュリティ関連のワーキンググループもある。彼らは以前から、そこに参加していたのだ。そして日本からの要望に応じて、片手間に別のワーキンググループの情報収集もしていた。そうした以前からの活動実績を見込まれて、今回のJDDの仕事が持ち込まれたというわけだ。


 こうした雑談をしながら、遙香は内心で安堵していた。英語でも、ちゃんと会話ができている。どうしても口数が少なめにはなってしまうものの、心配していたよりずっと聞き取れていた。


 仕事の話が一段落して、話題が移った。


「ところで、今日はどこに泊まるの?」

「クロイスターホテルです」

「確かミッドタウンだったよね?」


 地名を聞かれても、ニューヨークに詳しくない遙香にはわからない。彼女が返答に窮していると、代わりにジェシーが「そうだよ。チェルシーにあるほうじゃなくて、セントラルパークに近いほうのクロイスターだね」と答えた。


「なら、観光にいいね」

「そうなんですか?」

「観光拠点にするには、ベストな立地だよ」


 そう言われても、事前情報のせいで、遙香には観光に対する意欲が今ひとつ薄い。


「あまり治安がよくないって聞いたから、観光は控えようと思ってます」

「ええ? ミッドタウンなら悪くないよ?」

「カメラは持ってこなかったから、外に出ても、たぶん命の危険はないと思うんですけど」

「待って。ちょっと意味がわからない」


 遙香の言葉に、カイルたちは当惑したように目をパチクリさせている。言葉が足りなかったと思い、彼女は具体的な表現で言い直した。


「大きいカメラを持ち歩くと、拳銃と見間違われて撃たれるかもしれないって聞きました」

「いや、どんだけ物騒な場所だと思われてるわけ⁉」


 仰天したジェイソンが目をむいて大声を上げ、周りから笑い声が上がる。でも別に、遙香は冗談を言ったつもりはないのだ。だから、前に篠崎から聞いた「先輩がニューヨークでやらかした件」を話して聞かせた。コートの内側から一眼レフを取り出したら、タクシー運転手がそれを拳銃と勘違いして大騒ぎしたという、あの話だ。


 話し終わると、周囲は一様に何とも言えない表情になった。カイルが「ネタじゃないの?」と疑わしげな視線を向けてくるので、遙香は「実話ですよ」と保証する。彼は「マジか」と苦笑いした。周りも似たような反応だ。


「いやいやいや……」

「クレイジーだな」

「ニューヨークの話なんだよね? ニューアークと聞き間違えてたりしないよね?」


 この質問に、遙香は「間違いなくニューヨークの話でした」と請け合う。そうしながらも、彼女は心の中でメモをとった。どうやらニューアークはニューヨークよりもさらに治安が悪い場所らしい。


「ニューヨークで、そんなことあるかなあ」

「でもほら、サウス・ブロンクスだったら、あり得るんじゃない?」

「うちの会社の仕事で、ブロンクスに行くことなんてある?」

「ないな」


 周囲の会話に、また新しい地名が出てきた。ここもまた危険な場所のようだ。不安なので、確認しておくことにする。


「サウス・ブロンクスって、危ないんですか?」

「うん。ガチで危険。昼だろうが表通りだろうが、関係なく危ない。とにかくやばい場所だよ。絶対に近寄らないでね」


 遙香が顔をこわばらせて「はい」とうなずくと、カイルが表情をゆるめて、安心させようとするように言葉を続けた。


「ミッドタウンは安全だよ。まあ、観光客狙いのスリくらいはいるだろうけどさ」

「あ、スリはいるんですね……」

「え、なんでそこでがっかりするの? 観光地とか、人の多い場所にはたいていスリがいるよね? 治安とあまり関係ないでしょ?」


 がっかりして、あからさまに肩を落とした遙香に、カイルはあわてた様子で畳みかけてきた。でもスリの存在が当たり前と言われても、遙香にはちょっと同意ができない。日本では被害に遭ったことはおろか、そういう話を聞いたことさえないのだから。


 彼女が首をひねっていると、ローガンが笑いながら尋ねた。


「日本にはスリいないの?」

「スリっていう言葉はあります。小説にも出てくるから、昔はいたと思うんですけど、今はどうなんでしょう。実際に被害に遭ったっていう話は、一度も聞いたことがないんですよね」

「うそ。治安よすぎだろ、日本」


 ローガンは目を丸くした。からかったつもりが、想定外の答えが返ってきて度肝を抜かれたらしい。含み笑いをしたジェシーが、横から解説をした。


「日本はね、満員電車でもスリが出ないし、泥酔して電車に乗って眠りこけても荷物を盗られることはないし、財布を落としても中身そのままで警察に届けられるような国なんだよ」

「日本すげえ……」

「スリも置き引きもネコババもいないのか……」


 この解説に、カイルたちは真顔で言葉をなくすほど驚いている。遙香にしてみたら、驚かれるほうがびっくりだ。普通のことじゃないのか。いや、ネコババくらいはいると思うけど。スリや置き引きがいないのは、たぶん普通だ。日本では。


 お互いにカルチャーショックを受け合っていると、エマが困ったように笑った。


「日本を基準にしたら、治安のいい場所なんて世界のどこにもないんじゃない?」

「ないだろうなあ」

「ねえ、このお嬢さん、大丈夫なの? 純真すぎて心配になってきたんだけど。うちの七歳の甥っ子だって、もうちょっと警戒心あるぞ」


 ジェイソンからの言われようがひどい。ひどいけれども、スリがいて当たり前な世界で暮らしている人々から見ると頼りなく見えるかもしれない、というのも容易に想像できる。自分の常識にすっかり自信をなくしてしまった遙香は、真剣な表情で宣言した。


「ホテルに着いたら、帰るまでもう一歩も外に出ません」


 これには、カイルたちが一斉に苦笑いした。


「せっかくミッドタウンに滞在するのに、それは……」

「もったいないよ」


 エマが笑いながら「ジェシー、ちゃんと案内してあげてね」と言うと、ジェシーも「うん、そうだね」と笑った。

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