ブルックリン・オフィス (2)
遙香は思わず目をむく。「ええええ!」と悲鳴を上げそうになるのを、気合いでのみ込んだ。
てっきり女性だとばかり思っていたのに。勝手に千絵のような優しげでおしゃれな女性を想像していただけに、目の前にいる人物がジェシーとは、にわかには信じがたかった。
実際のジェシーは、インテリ系の男性だ。小野寺よりは年上、課長の佐野よりは少し年下くらいだろうか。もっとも小野寺は、実年齢よりもかなり若く見えるほうだから、比較対象としてはあまり適切ではないかもしれない。
身長は、おそらくアメリカ人としては平均くらい。だが日本人の感覚からは、長身に見える。太ってもやせてもいないが、筋肉質というほどでもない。いわゆる中肉。でも肉付きのよい者の多いアメリカ人の中にあっては、細身に見えた。
青系のドレスシャツにスラックス姿で、ネクタイこそ締めていないものの、見るからにビジネスマン風だ。穏やかそうな雰囲気は、佐野とよく似ている。
ジェシーは駐車場への出口に先導しながら、遙香に向かって紙をヒラヒラと振ってみせた。
「どうして声をかけてくれなかったの?」
「ええっと、別の人のお迎えかと思ったんです」
「なんで?」
ジェシーは不思議そうに首をかしげた。別に責めているわけではなく、純粋に疑問に思っているだけのようだ。約束どおりに紙を掲げて、約束どおりの場所で待っていたのだから、不思議に思うのも無理はない。
遙香は気まずく視線をさまよわせながら、正直なところを白状した。
「ジェシーが女の人だと思っていたから……」
彼はそれを聞いて一瞬きょとんとしてから、「なるほど」と笑い出した。
「確かに、女の子につけることもある名前だね」
その言い方から察するに、ジェシーという名前は別に女性名というわけではなさそうだ。この機会に確認しておこうと、遙香は尋ねた。
「ユニセックスな名前なんですか?」
「うーん。ユニセックスと言えばユニセックスだけど。男の子につけることのほうが多いかな」
遙香がしょんぼりと「知りませんでした」とつぶやくと、ジェシーは「それはお互いさまだよ」と微笑みかけた。
「僕のほうも、もっと年配のビジネスマンが出てくるとばかり思ってたからねえ。まさかこんなかわいいお嬢さんがやってくるとは、思ってもみなかったよ」
駐車場はターミナルに隣接していて、歩いてすぐの場所だった。車は、ダークグレーのセダン。スーツケースはジェシーがトランクに入れてくれた。ほとんど無意識のうちに、遙香は助手席の側に回る。するとジェシーが吹き出した。
「ハル、逆だよ」
「え?」
何が逆なのだろう。首をかしげつつよく見てみれば、目の前にあるのは助手席ではなくて運転席側のドアではないか。遙香はあわてて反対側に回った。恥ずかしさに頬が紅潮する。アメリカでは左ハンドルだと知っていたはずなのに。知識として頭の中にあっても、無意識の行動は変えられないものらしい。
JFK空港からブルックリンのオフィスまでは、二十分ほどだった。有料道路でもないのに片側三車線なところが、いかにもアメリカっぽい。あと、舗装の質が悪いところ。日本と比べて、走行中の振動が大きかった。車酔いしやすい人なら、たった二十分でも酔いそうだ。
ブルックリンの街並みは、遙香の想像していたニューヨークのイメージからはかけ離れていた。ニューヨークと言えば高層ビルが建ち並び、街路樹などなく、コンクリートでできた無機質な都市だとばかり思っていた。だがブルックリンはまるで違う。
ほとんどの通りには街路樹が植えられていて、高層ビルなど全然ない。二階建てから三階建ての建物が多く、高くてもせいぜい四、五階建てだ。そしてレンガ造りの建物が多い。雰囲気で言えば、小樽や横浜の赤レンガ倉庫群に近い。それに街路樹が追加された感じ。全体的に、何とも言えないノスタルジックな雰囲気がある。
CCテックのブルックリン・オフィスは、四階建ての建物の中にあった。見たところ、比較的新しい建物のようだ。にもかかわらずレンガ色のタイル張りなので、周囲の風景にきれいに溶け込んでいる。
遙香の訪問は、すでに手続き済みらしかった。入り口でジェシーから、ビジター用のIDカードを渡された。IDカードは、ネックストラップ付きのホルダーに入れられている。
「うちの部は二階にあるんだ」
「はい」
たったひとつ階を移動するだけだから、ネット管なら階段を使うところだ。だが、エレベーターで案内された。ビジターなのでお客さま扱いなのか、普段からエレベーターを利用しているのかは定かではない。
ブルックリンのオフィスは、ネット管のオフィスとは全然違った。ひとりずつ席がパーテーションで区切られていて、しかもそのパーテーションが高い。ちょうど遙香の身長と同じくらい。
ネット管のオフィスだってパーテーションで区切られてはいるが、あちらのパーテーションは胸の高さほどしかない。立ち上がればフロア全体が見通せるネット管のオフィスとは違い、ドアこそないものの、まるでそれぞれのブースが個室のようだった。机も広い。L字型で、人によってはワークステーションを二台置いていた。
遙香がきょろきょろしている様子を見て、ジェシーは笑みをこぼしながらパーテーションをノックする。中で仕事中の人物が振り返ると、ジェシーは「やあ、カイル。ちょっと見学させてもらうよ」と声をかけた。カイルと呼ばれた青年は、チラリと遙香を一瞥してからジェシーに尋ねる。
「お? もしかして、彼女がハル?」
「そうだよ」
カイルのブースは、怪しげとしか言いようのない小物であふれていた。パーテーションには、手のひらサイズのプレートがジャラジャラと吊されている。そのプレートはどれもケバケバしいほどに色とりどりで、中にはガイコツにしか見えないものもあった。何とも言えないアンダーグラウンド感に、遙香の表情は強ばりがちだ。
遙香の視線が向いた先に気づき、ジェシーが解説した。
「カイルは、DEFCONの常連なんだよ。あれは入場バッジだね」
「デフコン?」
「聞いたことないかな? 毎年ラスベガスで開催される、ハッカーの祭典だよ」
聞いたことがあるような気もするが、自信がない。遙香は曖昧に「そうなんですか」と相づちを打った。その様子に、カイルは声を上げて笑う。
「昔はやんちゃだったこともあるけど、今は完璧にホワイトなハッカーだよ。安心して」
ハッカーを自認する人物の「やんちゃ」とは、いったいどんなものなのだろう。具体例が気になるが、世の中にはきっと知らずにいたほうが平和なこともある。遙香は質問するのを自重した。彼女のそんな内心を知ってか知らずか、ジェシーは紹介を続ける。
「彼はCTFの本戦に出たこともある、実力者なんだ」
CTFが何だかわからず首をかしげた遙香に、ジェシーが説明した。CTFとは、情報セキュリティの技術を競い合うサイバー競技のことだ。
DEFCONでは、数百ものチームの中から予選を勝ち抜いた十数チームで、本戦が行われる。つまり本戦に出場できるのは、世界的にトップクラスの情報セキュリティ技術者に限られるのだ。その上、カイルの所属したチームは優勝こそ逃したものの、僅差で二位という、極めて優秀な成績を残した。
説明を聞いて遙香は「すごい」と目を丸くする。カイルはにこやかに遙香に「ありがとう」とウインクして、仕事に戻った。
そのままジェシーは遙香を連れて、オフィスの奥へ入っていく。すると、そこにはガラス張りの個室が並んでいた。そのうちのひとつの前で、ジェシーはガラスのドアをノックする。中にいるのは、父と同じくらいの年齢に見える、体格のよい男性。ジェシーはドアを開けて遙香に中に入るよううながし、「デイヴ、ハルを連れてきました」と声をかけた。
デイヴは椅子から立ち上がり、笑顔で右手を差し出してきた。
「デイヴ・コールマンだ。ニューヨークへようこそ」
「ハルカ・アイザワです」
握手をしながら遙香が自己紹介をすれば、ジェシーが「うちの部長だよ」と横から補足をした。そしてデイヴが何やらジェシーとやり取りをする。
「店は一時で予約してある」
「了解。十分前くらいに出ればいいかな?」
「そうだね」
そのまま部屋を出て、ジェシーは遙香を空き机に案内した。
「みんなで外に出て食事する予定になってるから、時間までここで暇をつぶしててくれるかな」
時計で時間を確認すると、ちょうど十二時くらいだった。一時間ほど暇がありそうだ。遙香は「はい」とうなずいてから、ジェシーが背を向ける前に急いで土産の紙袋を差し出した。
「これ、日本のお菓子です。みなさんでどうぞ」
「おお、ありがとう。みんな喜ぶよ」
ジェシーは笑顔で受け取った後、遙香を喫茶コーナーに案内してくれた。ひとり分の席と同じくらいの広さのブースに、コーヒーメーカーが置かれている。その横には給湯ポットと、スライド式の蓋付きケースが置かれていた。ケースには、クッキーやチョコレート菓子が入れられている。
ジェシーは土産の箱を開けて、ケースの横に置く。そして「ハルカからの贈り物」と書いたメモを、箱のふちに挟んで立てた。




