ブルックリン・オフィス (1)
家を出る段になって、智基が怪訝そうな顔をした。
「あれ? 遙香、スーツケースは?」
「もう送った」
「宅配?」
「うん。手ぶらサービスっていうのがあってね。週末のうちに送っといた」
「へえ」
家から送れば手荷物預かりまで自動で済ませてくれる、優れものである。トラベルから渡された資料に、懇切丁寧に解説されていた。
出発は、羽田空港からだ。
フライトの情報を知ったとき、智基は意外そうだった。
「成田じゃないんだね」
「うん。ニューヨークの直行便は、羽田発着ばっかりだったよ」
二人とも、高校の修学旅行では成田発の飛行機に乗っている。当時とは、航空事情が少々変化しているようだった。
出発の二、三時間前までに空港に行くように、と言われていたので、安全を見て三時間前に到着するよう出かけた。第三ターミナル駅で降り、長いエスカレーターに乗って出国ロビーに到着。
辺りを見回して、遙香は驚いた。想像していたよりもずっと、フロアは人でごった返していたのだ。智基も同じことを思ったようだ。
「混んでるな」
「うん。早く来てよかった」
航空会社のカウンターも、なかなか混雑している。オンラインチェックインや、手ぶらサービスについて事前に案内してくれた徳田に、遙香は心から感謝した。おかげでチェックインは前日のうちに済ませてあるし、手荷物は自宅から発送済みで、空港で預ける必要がない。
だから、後は出国手続きをすればよいだけだ。ただ、見るからにそれが大変そうだった。保安検査場の入り口には、長い列ができている。
顔認証用の登録機さえ、何人もが並んでいる。ひとりあたり登録に数分かかることを考えると、登録だけでも待ち時間がそこそこありそうだ。
遙香が少々げんなりしていると、智基がフロアの端に向かって歩き出した。
「遙香、あっちに行ってみよう」
理由がわからないながら、遙香も同じ方向に向かって歩き出す。歩きながら、智基は理由を説明した。
「こういうのはだいたい、手近な場所が混むんだよ。端のほうだとすいてることがよくある」
「なるほど」
果たして、待ち時間なしの登録機を発見。二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「ほらな」
「ほんとだ」
遙香が顔認証用の登録をしている間に、智基は保安検査場の混雑具合を確認してきたようだ。
「こっち」
一般レーンは長蛇の列だが、顔認証専用レーンは比較にならないほどすいている。智基は何食わぬ顔をして遙香と一緒に列に並び、保安検査場の入り口ギリギリまで、のんびりおしゃべりをしていた。
こういうところは、昔から変わらない。智基はいつも、送るときにはギリギリ最後まで一緒にいる。たとえばバス停まで送るときには、バスが来て遙香が乗り込むのを見届けるまで、帰らないのだ。
入り口の直前で、近くに立っている職員にしれっとにこやかに「見送りです」と挨拶して列から外れて行く。あまりにも堂々としているものだから、注意する気にもならない。遙香は苦笑して、智基に手を振った。
「じゃあ、行ってくるね。来てくれてありがとう」
「うん。ホテルに着いたらメッセージ入れてね」
「はあい」
最後に釘を刺していくところまで、昔と変わらない。思い出し笑いをしながら保安検査場に足を踏み出し、最後にもう一度振り返って手を振ってから、遙香は前に進んだ。空港の混雑具合とは裏腹に、出国手続きは案外さっくり終わってしまった。セキュリティチェックを早々に抜けられたことが大きい。
搭乗までにたっぷり時間があるので、免税店をざっと見て回った。その中に見つけた和菓子の店で、ジェシーへの土産を買う。選んだのは、洋風せんべい。和菓子らしい和菓子より、洋風にアレンジされたもののほうがアメリカ人には受け入れられやすいかもしれないと考えてのことだ。個包装なので、職場への土産にするのにちょうどいい。
その後は搭乗ゲート前で、時間まで過ごした。本は二冊持参したので、いくらでも時間はつぶせる。
フライトは、定刻より十五分ほど遅れて出発した。到着も遅れるかと遙香は心配したが、ニューヨークJFK空港に到着したのはほぼ定刻だった。迎えが気になる彼女は、ほとんど小走りのようにしてイミグレーションに向かう。その甲斐あってか、入国審査の待ち時間は二十分かからなかった。
ターンテーブル上で回っていたスーツケースをつかみ、税関を抜けて、出口へ向かう。出口の両脇には、迎えに来たらしき人々が中をのぞき込むようにしてそわそわと並んでいた。名前を書いた紙を掲げている人も数人いる。その中を、遙香は「CCテック」の文字を探してきょろきょろしながら歩いて抜けた。
ところが、出口付近を抜けてしまっても、ジェシーらしき人影が見当たらない。
(出口は、ここしかないよね……?)
遙香は少し焦りながら、出口付近をうろうろした。実を言うと、「CCテック」と書いた紙を手にした人物はひとりだけいた。だが、どう見てもジェシーではない。ということは、同じ便に他にもCCテック社員、もしくは関連会社の社員が乗っていたのだろう。
しばらくジェシーの姿を探してみたものの、やはり見つからない。仕方なく、遙香は人々の列から離れて壁際に寄り、スマホを出して、持参したポケットWi-Fiに接続した。それからチャットツールで、ジェシーに事前に教わっていたID宛てに音声通話をかける。
不安な気持ちで呼び出し音が鳴るのを待っていると、やがて英語で「もしもし」と電話に出る声がした。その声を聞いて、遙香は驚きに目を見張る。が、ドキドキと不安で高鳴る心臓をなだめながら、何とか自己紹介をした。
「CCテック・ジャパンのハルカ・アイザワです。ついさっきJFK空港の到着ロビーに着いたところですが──」
「ハル?」
電話から聞こえる声とまったく同じ、深みのある低音が電話と反対側の耳から聞こえてくる。眉をひそめて遙香が顔を上げると、「CCテック」と書かれた紙を手にした男がスマホを耳に当てたまま足早に彼女に向かって歩いてきているところだった。彼は遙香の目の前に立つと通話を切り、こう自己紹介した。
「ジェシーです。ジェシー・ハミルトン。迎えに来ました」




