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初めての海外出張 (3)

 実家からではあるのだが、父からではなかった。では誰かと言うと、智基だ。


 父にメッセージを送って、十分も経たないうちに電話をかけてくるとは。もしこれで出張の話をするようなら、父からの回し者と見て間違いない。


 遙香はどこか遠い目をしてため息をつき、電話に出た。


「もしもし」

『遙香、ニューヨークへ出張するんだって?』


 やっぱり回し者だった。しかも隠す気もないらしい。


 遙香は呆れ顔で「うん」と返事をする。


『もう飛行機の予約はしたの?』

「したよ」

『便名を教えて』

「え。わかんない」


 いきなり詳しいことを尋ねられ、遙香は困惑した。


『なんでわかんないの。予約したんでしょ?』

「したけど、発券がまだだもん。手もとに控えがないから、便名までは覚えてない」

『んじゃ、航空会社と出発時刻だけでいいから教えて』

 

 どうしてそんなことを知りたがるのだろう。不思議に思いながらも、日本の航空会社で昼の便だと伝える。


『ホテルは?』

「まだとってない」

『そっか。なら、決まったら教えてね』

 

 遙香は歯切れ悪く「うん……」と答えてから、聞き返した。


「どうしてそんなことを聞くの?」

『そりゃ聞くでしょ』

「なんで……?」

『泊まりで出かけるとき、家族に行き先を伝えておくのは常識だよ?』


 諭すような声音で説明されてみれば、確かにそんな気がしないでもなかった。同居していなくとも、家族は家族だ。


『修学旅行のときだって、家に旅程表を置いて行っただろ? あれと一緒だよ。出張じゃ旅程表がないから、フライトとホテルを聞いてるだけ』

 

 なるほど、と遙香は納得した。そう言われると、きちんと連絡しなかった遙香の落ち度だったような気がしてくる。そこまでは納得して反省した遙香だったが、次に智基の口から出てきたのは、いくら何でも納得しがたい言葉だった。


『月曜日の夜に、そっち行くね』

「え? なんで?」

『当日は朝がそこそこ早いから、前泊しとく』

「当日って、火曜日に何かあるの?」

『何って、遙香の出張でしょ。空港まで送ってくよ』

「ええっ⁉ わざわざ来なくていいよ、平日だし。智基だって、仕事あるでしょ?」

『半休とるから大丈夫』


 何が大丈夫なのか、さっぱりわからない。そこまでするようなことじゃないはずだ。ただの出張なのに。だが遙香のその抗議は、口に出す前に智基に封じられてしまう。


『有休は余ってるんだよ。こんな機会にでも使わないと、捨てることになるからさ』


 そこまで言われると、断る理由がなかった。もう抵抗をやめて「わかった」と受け入れることにする。何だか遠い昔の修学旅行を思い出してしまうではないか。電話を切ってから、遙香は呆れながらもくすっと笑った。


(高校の修学旅行のときも、集合場所まで見送りに来たっけな)


 修学旅行の集合場所は静岡駅だったから、空港までは行っていないが。駅まで父に車で送ってもらうのに、智基も一緒に付いて来たのだった。帰国時も同様。弟が迎えに来る子なんて他にはいなかったから、割と目立っていた。


「いいなあ。私も迎えに来てくれる、かわいい弟がほしい」


 クラスの友人たちからは、そんなふうにとてもうらやましがられたものだ。けれども遙香は「かわいい……?」と眉根を寄せた。異性のきょうだいにしては、仲のよいほうだと思う。だからといって智基をかわいいと思ったことは、あまりなかった。その様子を見て、友人のひとりがいたずらっぽく笑いながらこう言った。


「かわいくないなら、うちの弟と交換しようよ」

「え」


 この不意打ちに、遙香は言葉に詰まる。かわいいと思わないことと、交換したいかどうかはまったく別の問題なのだ。思わず小さな声で「ダメ」と言ったら、周りが一斉に吹き出した。


「ほら、やっぱりかわいいんじゃないの。このブラコンめ」


 これまた釈然としない。遙香のいったいどこがブラコンだと言うのか。またしても難しい顔で首をひねる彼女は、再び周囲から笑われたのだった。


 そんな思い出にふけりながら、オンラインの申請と登録を終わらせた。


 * * *


 翌朝、会社でメールを開くと、ジェシーから返信が来ていた。


 まずは服装について書かれている。


『スーツは不要です。カジュアルな服装で問題ありません。ただし、ブルージーンズだけは避けたほうがよいでしょう。ヨーロッパ系の会合では、ブルージーンズ姿は浮きます。ブルージーンズでさえなければ、ジーンズでも大丈夫です。アメリカ系の会合なら、Tシャツにブルージーンズでも割と普通なんですけどね』


 どうやら遙香の場合は、普段どおりで問題ないらしい。こうした会合に、ヨーロッパ系とアメリカ系で違いがあるとは、初めて知った。同じような国際標準化の団体でも、それぞれに文化があるということなのだろう。


 次にホテル。


『宿泊は、会合の開催されるホテルで予約するとよいでしょう。安全面からも、効率面からも、お薦めです。会合参加者には、ホテルのプロモーションコードが発行されています。割引が適用されるので、予約時に使用してください。ホテル情報とプロモーションコードをお知らせしておきます。ホテルの所在地、およびサイトURLは次のとおりです』


 マンハッタンにあるクロイスターホテルの情報が記載されていた。クロイスターホテルは、中価格帯のビジネス旅行者向けホテルチェーンだ。もっとも中価格帯といえども、立地がマンハッタンだと結構な値段となる。もちろん出張経費として支給されるから、遙香の懐が痛むわけではないのだが。


(後で徳田さんにこの情報を知らせて、ホテルの予約をお願いしよう)


 メールの最後には、ジェシーからの意外な提案が書かれていた。


『せっかくのニューヨーク出張なので、よければブルックリンのオフィスにも寄って行きませんか。もし立ち寄ってくれるなら、空港まで車で迎えに行きます』


 この誘いを読んで、遙香は頭の中で、ニューヨークの半日観光とブルックリンのオフィス訪問とを天秤にかけた。昼にはニューヨークに到着するから、観光する気なら夕方までの時間があるのだ。


 でも、遙香には観光よりも、ブルックリンのオフィス見学のほうが魅力的に思えた。空港まで迎えに来てもらえるというのも、うれしいポイントだ。初めての出張で、少々心細く感じていたところだったから。だから遙香は、ジェシーの誘いにありがたく乗ることにした。


 * * *


 出張までの二週間は、めまぐるしかった。


 と言っても、会社での忙しさはさほど変わらない。忙しかったのは、自宅で出張の準備をする必要があったからだ。電源用の変換プラグを買いに行ったり、なんだかんだと休みがつぶれる。


 智基は予告どおり、出発の前日に泊まりに来た。「食事は適当に済ませて行く」と言っていたから、何も用意せずほったらかしだ。


 そして当日の朝、智基に深く感謝することになった。危なく寝過ごしそうになったのだ。


「遙香! 時間だよ! 遙香さーん、起きてー!」


 智基にたたき起こされ、遙香は眠い目をこすりながら時計を確認して、愕然とした。アラーム音を聞いた覚えがないのに、目覚ましをかけた時間を過ぎている。どうやら、無意識のうちにアラームをとめてしまっていたらしい。危なかった。


 前日の夜は緊張のあまり目が冴えて、寝付きが悪かった。しかも、いつもより一時間早く起きなくてはならなかったから、体内時計がずれまくってしまったようだ。


 ふふん、と智基は得意顔だ。


「ほら、俺がいてよかったでしょ?」


 遙香は心から「うん、ありがとう」と礼を言った。実のところ、安全のために、少し時間をずらしてスマホでもアラームをかけてあった。だからおそらく、智基がいなくても完全に寝過ごすことはなかっただろう。


 それでももしも寝過ごせば、きっと時間に余裕がなくなったに違いない。そして焦って家を出て、忘れ物をするなどの失敗をしかねなかったことは、想像にかたくなかった。

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