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鋼のお嬢さま (2)

 入社して一年目は、何か文書を作成するたびに、それはもう重箱の隅をつつくがごとく、こと細かに赤ペンを入れて修正指示をされたものだ。毎回、最低でも十回は書き直しを命じられた。


 だけど、遙香は思うのだ。十回もの書き直しだなんて、むしろそれを添削する側の労力のほうが大きいのではないか。小野寺は決して妥協することなく、完璧なものが仕上がったと満足できるまで、何度でも新入社員に付き合ってくれた。誰にでもできることじゃない。おかげで遙香は、会社の中で必要とされるスキルを同期の誰よりも早く、しっかりと身につけることができたと思っている。


 小野寺は細かいけれども、決して気分屋ではない。ただ単に、完璧を求めて妥協しないだけだ。どれほど修正回数が多かろうとも、指示がぶれることはない。そういう完璧主義は、遙香には気にならなかった。それが上司の求める品質なら、応えるために力を尽くすだけ。だって、仕事なんだし。


 だから当時まだ課長だった岡田から「あの人、上司としてどう?」と小野寺のことを尋ねられたとき、彼女は何を聞かれているのかよくわからず、首をかしげたものだ。すると岡田は「彼、部下としては非常に優秀なんだよ。でも上司としてはどうなのかなと思って。自分でつけといて聞くのもどうかとは思うんだけどさ」と、いささか気まずそうに質問の意図を説明したのだった。


 これに対する遙香の回答は、「とても面倒見のいい人だと思います」。嘘偽りのない正直な感想だったのだが、岡田は何とも微妙そうな顔をしていた。社交辞令で優等生的な模範解答をしただけだと思われたのかもしれない。


 日替わりランチの魚料理にナイフを入れながら、遙香はそうしたあれこれを篠崎に話して聞かせた。ここまで話し終わったところで、篠崎は呆れたように目を見開く。


「あの男、十回も書き直しさせてたの⁉ ハルちゃん、よく付き合ったね」

「それは最初の一年だけでしたよ。去年はもう、それほどでも」

「いやいや。一年もずっとそれって……。しかも、どうでもいいことをグチグチ、ネチネチと言われるんでしょ? あたしなら、そんなのどうでもいいじゃんってぶち切れちゃうわあ。絶対けんかしてる」


 料理にフォークを突き刺しながら「無理! ほんと無理!」と繰り返す篠崎に、千絵が軽やかな笑い声を上げた。


「まあ、あの小野寺さんとうまくやれたのは、ハルちゃんだからよねえ」

「なるほど。これが『鋼のお嬢さま』……」


 まるで天啓を受けたかのように、芝居がかった仕草で大げさに目を見張ってみせる篠崎に、遙香は吹き出した。


 小野寺は、確かに細かかった。それはもう、家具の上に指をすいっと滑らせてホコリを確認する小姑がごとく、細かかったし厳しかった。だけど、グチグチもネチネチもしていなかった、と思う。それにあれで案外、愛嬌もあったのだ。だからこの二年間、遙香は上司に恵まれたと思って、楽しくやってきた。


 そう話すと、またしても篠崎はわざとらしく真面目くさった顔で、重々しくうなずいてみせた。


「なるほど。さすが『鋼のお嬢さま』……」


 遙香は笑ってしまったが、ひとつどうしても気になることがあった。


「その、お嬢さまって、何ですか? 私のどこがお嬢さまなんですか」

「どこがって……。そりゃあ、見た目?」

「そうねえ。全体的な雰囲気、かしら」


 遙香の疑問に、篠崎と千絵は顔を見合わせてからそれぞれ答える。だが、それを聞いても、遙香はちっとも納得できなかった。


「ほら、ハルちゃんはスーツ着ないじゃない? 服装がお嬢さまっぽく見えるのよ」

「そうそう。ヒラヒラ、いかにもお嬢さまって感じ」


 千絵と篠崎に畳みかけるように言われ、遙香は思わず自分の服装を見下ろした。細いピンタックの入ったラウンドネックの白いブラウスに、薄茶でミモレ丈のシンプルなフレアスカート。どちらも近所のモールで買ったもので、特にブランド品ではない。お嬢さまと言うならもっとこう、きらきらしく高級ブランド品に身を包んでいるものではないのだろうか。


 チラリと先輩二人の服装に視線を走らせてみれば、篠崎はダークグレーのスーツ、千絵は白ブラウスにタータンチェックのセミタイトスカート。


「もしかして、フレアスカートがイコールお嬢さまな感じですか」

「それだけじゃないけど、それもあるかしらね」

「髪の長いとこもかなあ。ロングのストレートって、いかにもお嬢さまじゃない」


 なるほど、と遙香は思った。彼女の個人的な事情から作られたスタイルが、たまたまステレオタイプなお嬢さまのイメージと合致してしまったらしい。


 スーツを着ないのは、ただ単に持っていないからである。就職活動でも必要なかったのだ。大学の推薦枠で決めてしまったので。もちろん、推薦枠でも面接はある。だが私服で来るようにと指定されていたため、結局リクルートスーツは用意せずじまいだった。


 そもそもCCテックという会社は、服装にうるさくない。入社式でさえ、「きちんとしていれば、別にスーツじゃなくていい」とわざわざ事前通達があったくらいだ。それでも男子は全員がスーツ姿だったが、女子の中にはスーツでない者の姿がちらほら見受けられた。


 フレアスカートが多いのは、体型のせいである。遙香はウエストとヒップのサイズ差が、標準サイズに比べてかなり大きい。だから既製品のタイトスカートは、どうにも体に合わないのだ。サイズをウエストに合わせるとヒップが入らず、ヒップに合わせるとウエストがぶかぶか。その点、裾の広がったスカートなら、ウエストだけ合わせれば普通に着られる。それで自然に、フレアスカートやプリーツスカートが多くなった。同じ理由から、パンツスタイルも避けている。


 髪が長いのに至っては、放っておいたら伸びてしまっただけ。


 そうした事情をかいつまんで説明してから、遙香は千絵にいたずらっぽく笑顔を向けた。


「お嬢さまって言うなら、千絵さんのほうが、よほどお嬢さまらしくありませんか」

「うん。千絵さんは永遠のお嬢さまだよねえ。でも、鋼じゃない」


 篠崎は遙香に同意してみせておきながら、澄ました顔で最後にスパッと斬って捨てた。千絵と遙香の笑い声が上がる。笑いながらも、遙香は心の中でひっそりとひとりごちる。


(親が資産家って意味でなら、確かに私もお嬢さまなんだけど)


 だが、子どもの頃の小遣い額は、ちょうど同級生の平均くらいだった。周りと比べて決して少ない額ではないが、かといって特段多いわけでもない。だから彼女の金銭感覚は、いたって小市民的だ。


 それにお嬢さま育ちと言うには、いささか家庭環境に問題があった。問題があったのは、主に十代前半の頃に限られた話ではある。けれども普段は忘れていても、ふとした拍子に、その頃に傷つけられた心の爪痕に気づくことがあった。


 そうした家庭の事情は、できれば他人にはあまり触れてほしくない。実家がどんな家だか知っているのは、部内では部長の岡田だけ。彼は彼女の希望を汲んで、口外せずにいてくれる。だから遙香がうかつなことを口にしなければ、親が誰かなんて知られることはないのだ。


 話の流れを変えるついでに、気になっていたことを質問してみた。


「篠崎さんの次の仕事は、何なんですか?」

「JDDだよ」


 JDDはCCテックの取引先のひとつで、通信キャリアなどと呼ばれる、大手携帯電話会社だ。CCテック社内では、ジェイデーデーと呼んでいる。ジェイディーディーではない。JDDに限らず、社内ではDをデー、Tをテーと読む。DとB、TとCの聞き間違いを防ぐためだと、遙香は新人時代に教わった。


 当時は古くさいというか、田舎くさい読み方だと思ったものだが、今では彼女もすっかり染まっている。気をつけないと社外でもうっかりジェイデーデーと口にしてしまい、恥ずかしい思いをすることがあった。


 なお、さらに染まって完全に染まりきると、社外でも特に恥ずかしく思うことなく当たり前のように口に出すようになるらしい。さすがにその境地は、遙香にはまだ遠い。

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