初めての海外出張 (2)
ジェシーへのメールを書き上げるのに、たっぷり一時間以上かかった。普段は使うことのない医療系の言葉を調べるために、すっかりオンライン辞書と首っ引きだ。くも膜下出血を英語でSAHと言うことは、きっとこの先も忘れない。
何とか書き上げて送信した後、次の会合の予定を確認する。
(二週間後に、ニューヨークだ……)
開催地を知って、遙香はちょっと涙目になった。先日、篠崎から聞かされた「先輩のこわい話」を思い出してしまったからだ。彼女の頭の中には、ニューヨークという都市は「とんでもなく危険でこわい場所」というイメージで刷り込まれていた。
(でも一眼レフなんて持って行く予定はないから、たぶん大丈夫)
自分に言い聞かせて、心を奮い立たせる。
次は航空券の手配だ。遙香は席を立ち、「千絵さん」と声をかけた。千絵は何か入力していた手をとめて、気の毒そうな表情で振り返る。
「ハルちゃん、聞いたわよ。海外出張ですって?」
「はい。航空券の手配って、どうしたらいいんですか」
「トラベルは行ったことある?」
「何ですか、トラベルって」
「CCテックトラベルっていう、旅行会社があるのよ」
千絵はトラベルが何かを簡単に説明した。グループ会社のCCテクノロジートラベルのことだ。通称トラベル。社内向けの旅行会社で、出張時の手配のほか、パッケージツアーの斡旋もしている。大手旅行会社のパッケージツアーが、トラベル経由だと社員向けの割引価格で申し込めるそうだ。そんな福利厚生の存在を、遙香は初めて知った。
「初めてだから、一度行っておいたほうがいいかな。乗りたい飛行機が決まってるなら、電話でもいいんだけどね。本社の八階にあるのよ」
千絵はメモ用紙に簡単な地図を書いて、遙香に渡す。
メモを頼りに向かった先は、パーテーションで区切られた小さなオフィスだった。いかにも旅行会社らしくカウンターがあり、周囲はパンフレット用のラックに囲まれていて、パッケージツアーのパンフレットがあふれている。
そこで遙香を担当したのは、徳田という若い女性だ。徳田は遙香のような初出張者の対応にも手慣れていた。航空券の予約だけでなく、その後の手続きについての説明にも抜かりがない。オンラインチェックインの方法を説明し、さらにはマイレージプログラムや航空会社のクレジットカード入会手続きについてまで詳しく教えてくれた。通常は発行まで一か月ほどかかるところ、出張用として会社経由で申し込むと、数日で発行されると言う。また、出入国手続きにかかる時間を短縮できるサービスについても、ひとつひとつ資料を渡しながら説明する。
「わからないことがあれば、いつでもご相談くださいね」という心強い言葉とともに見送られてカウンターを後にするまでに、なんだかんだと一時間ほど経過していた。
ずっしりと重くなった資料を抱えて遙香が席に戻ってきたところへ、課長の佐野が声をかけてきた。
「シノちゃん、ハルちゃん。二人とも、ちょっといいかな」
遙香と篠崎は「はい」と返事をして、二人同時に振り返る。佐野はいささか疲れた様子ではあるものの、今朝とは違い、いつもどおりの穏やかな表情だ。そして「標準化の件だけど」と切り出した。
「次とその次の会合のJDDへの報告は、小野寺君が引き受けてくれることになった。あくまでも暫定措置だけどね」
この知らせに、遙香は少々驚いた。小野寺は余分な仕事を引き受けるほど、暇ではないはずだ。暇どころか、JDD向けの開発のプロジェクト管理で、とても忙しいはずなのに。
「正直、断られるかと思ってたんだけど、『相沢さんとの仕事なら大丈夫でしょう』って、二つ返事で引き受けてくれたよ。信頼されてるねえ」
篠崎は「へえ」と意外そうだ。
「だから当面の間、標準化に関するメールは、宮園さんと小野寺君と両方に送ってくれるかな」
「はい、わかりました」
佐野の指示にうなずきながらも、遙香はこの人選を不思議に思った。海外システム部の担当部長である宮園の代理なのだから、てっきり海外システム部から誰か出すのだろうとばかり思っていたのだ。だから国内システム部の主任である小野寺が代理を務めるというのは、予想外だった。
だがJDD向けのシステム担当である彼は、システムの仕様をよくわかっているという意味で、適任ではある。その上、小野寺はTOEICが780点と、海外システム部のメンバーと比較して少しも遜色ない程度に英語が得意だ。
ずっと引き受けるには作業量的に厳しいが、一時的な代理であれば、小野寺なら片手間で何とかするだろう、ということになったそうだ。
「それとね、宮園さんの手術は無事に終わったそうだ。意識も戻って、受け答えもしっかりしているらしい。この二週間が山場なことに変わりはないけど、今のところ経過は順調みたいだよ」
宮園の様子を聞いて、遙香は「よかった……」と安堵の息を吐き出した。
遙香がネットで軽く検索してみた限りでは、くも膜下出血という病気は非常に予後が悪いらしい。発症すると三分の一が死亡し、三分の一に何らかの障害が残る。無事に仕事に復帰できるのは、残り三分の一に過ぎないと言う。それでも少なくとも今の段階では、無事に仕事に復帰できる可能性がなくなっていない、ということだ。
佐野の話が終わった後、遙香はジェシー宛てにもう一度メールを書いた。ホテルの相談をするためだ。それに、服装をどうしたらよいのかも聞いておきたかった。もしスーツが必要なら、早めに用意しておかないといけない。
それから小野寺に、これまでの会合の経緯をまとめたメールを送る。会合に提出している文書も、まとめて添付。
(仕事ができると、こういうときに頼られちゃって、大変そうだなあ)
必要と思われる情報をすべて小野寺宛てに送信し終えて、遙香は嘆息した。予定外の業務を押しつけられて、気の毒には思う。
けれども頼む側に立って考えると、彼を頼りたくなる気持ちもよくわかった。小野寺には、絶大な安心感があるのだ。基礎的な能力が高いのはもちろんのこと、引き受けたからには決して中途半端なことはしないだろう、と思えるだけの実績がある。その実績こそが「細かい」と言われるゆえんでもあるのだが。
出張の手配と、小野寺用の資料の準備だけで、ほとんど一日が終わってしまった。
パスポートの有効期限が気になる遙香は、残業をそこそこで切り上げて、早めに帰宅した。
家に着くと、まっすぐに自室に向かう。そして本棚から、古びた分厚い辞書を取り出した。と言っても、本物の辞書ではないので重くはない。辞書の形をした小物入れなのだ。この中に、通帳や印鑑などの貴重品をまとめて入れてある。パスポートもこの中だ。
小物入れの中で一番下に埋もれていたパスポートを引っ張り出し、有効期限を確かめる。
(よかった。あと二年近くある)
一番の気掛かりが解決して、ホッと息を吐き出した。
パスポートの件が解決したら、渡航に必要な申請やら登録やらを済ませておかなくてはならない。さっさと済ませてしまおうと、ノートPCを開いた。トラベルで渡された資料を机の上に広げたところで、ひとつ大事なことを思い出した。
『──出張するときにはちゃんと連絡しなさい』
先日、父からこう釘を刺されたばかりだった。忘れないうちに、連絡しておこう。遙香はスマホから父宛てに「ニューヨークへの出張が決まりました。二週間後の火曜日から、機中泊ありの四泊六日で行ってきます」とメッセージを送信した。
(これでよし)
トラベルから渡された資料に、再び意識を戻す。指定のサイトにアクセスし、指示に従って登録情報を入力していると、スマホの着信音が鳴った。実家からだ。




