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初めての海外出張 (1)

 恭一郎との二日目の夕食は、和食の創作料理だった。二日目の出張シェフは、夕食を出すだけでなく、十品以上もの作り置きをしてくれた。おかげで恭一郎が帰った後もしばらく、遙香の夕食は豪華だ。


 そうこうするうちに、宮園が出張から帰ってくる。遙香は再び、宮園から渡された議事録に基づいて、次の会合のための資料作成を始めた。


 ところが、そうして資料作成の日々に戻ってから三日目の朝のこと。出社して遙香がPCの電源を入れたところへ、課長の佐野が声をかけた。


「ハルちゃん、ちょっといいかな」

「はい」


 遙香が佐野に直接声をかけられるとは、珍しい。仕事の話なら、普通は直属上司である篠崎を通すのに。いったい何だろう。


 怪訝に思いながら佐野の顔を見上げて、遙香は驚きに目を見張った。まだ何も話を聞いていないのに、キリキリと胃が痛くなった気がする。普段いつでも穏やかな佐野が、とても険しい顔をしていたのだ。


「ハルちゃん、パスポートはある?」

「あります」

「自宅にある? 実家かな?」

「確認しないと確かじゃありませんけど、自宅にあると思います」

「もし実家だったら、明日、取りに行ってくれないかな。これは業務だから、休暇にしないで外出扱いでいいよ」

「はい」


 状況がのみ込めないまま指示にうなずくと、佐野は重ねて質問してきた。


「有効期限はいつまでだかわかる?」

「え」


 パスポートの有効期限なんて、まったく記憶にない。返答に詰まって、遙香が首をかしげていると、佐野は質問を変えた。


「パスポートをとったのは、いつかな?」

「修学旅行のためにとったから、高校二年のときです」

「十年のほうをとったんだよね?」

「はい、そうです」

「高校二年か……。ハルちゃん、今年で入社三年目だよね。たぶん大丈夫だろうけど、ちょっと微妙だなあ」


 佐野は難しい顔をしたまま、指折り数えながら考え込んだ。遙香がパスポートを取得してからの年数を計算しているようだ。


「今日、家に帰ったら、真っ先にパスポートの期限を確認してくれる?」

「はい」

「もし有効期限が残り一年を切ってたら、すぐに更新手続きをしてほしい。手続きの方法は千絵さんに教えてもらって」


 遙香は「はい」とうなずきながらも、状況がさっぱりわからない。どうして急にパスポートの話をされているのか。何のためにパスポートが必要なのか、佐野に尋ねたほうがよいだろうか。遙香が迷っていると、佐野が答えを言った。


「急で悪いけど、次の会合には、ハルちゃんに出てもらうことになった」

「はい?」


 思いがけない理由に、遙香は目をパチクリさせた。佐野は固い表情で、事情を説明する。


「昨日さ、宮園さんが倒れたんだよ。くも膜下出血だって」

「えっ」


 遙香は目を見開いて凍り付いた。くも膜下出血だなんて。名前しか知らなくても、何となく伝わるものがある。だって、いかにも命にかかわりそうな病名ではないか。


 佐野によれば、昨日、遙香が帰宅した後に、宮園が会社で倒れたのだと言う。倒れた場所が人目の多い社内だったことが、不幸中の幸いだった。即座に救急車を呼び、海外システム部の若手が付き添って、大学病院に救急搬送された。そのまま緊急手術に入る。八時間から十時間にも及ぶ手術なので、付き添いはいったん家に帰された。手術の結果についてはまだ情報が入っていない。


 そしてその後についても、今はまだ何とも言えないそうだ。


「くも膜下出血って、軽症でも一か月くらいは入院になるそうなんだ」


 ということは、少なくとも次とその次の会合には、間違いなく宮園は出席できない。だから代わりに遙香が出席することになった、というわけだった。


「宮園さんは、大丈夫なんでしょうか……」

「わからない。軽症だったのかどうかさえ、まだ何もわからないんだ。そろそろ手術が終わる頃だとは思うんだけどね。この二週間が山場だそうだ」


 山場とは。遙香が意味を測りかねていると、佐野が続けて説明する。くも膜下出血は、手術が無事に終わったとしても、予断を許さない状態が二週間続くのだと言う。その二週間を乗り越えて初めて、退院時期のめどが立つようになるらしい。


「だから、今はまだ何とも言えない状態なんだ。でも宮園さんは、今回かなり運がよかったと思う」


 不確定な状況を正直に伝えつつ、不安そうな遙香をなだめる言葉を佐野は最後に付け加えた。


 とにかく今は、宮園の不在を埋めるために動かなくてはならない。それだけは、遙香にもはっきり理解できた。一時的な穴埋めで済ますのか、体制を組み替えるのかは、きっと二週間後の宮園の容態を聞いてから判断することになるのだろう。


 宮園の穴を埋めるために、遙香が出張する必要がある。それは了解した。経験がなくて不安ではあるものの、やってやれないことはない、と遙香は思う。これまで、宮園の出張中にはのんびりできていたのだ。その分が出張で忙しくなるだけだと考えれば、時間的に無茶なことではないはずだ。


 けれども宮園がしてきた仕事は、出張だけではない。会合出席以外のことまで含めて、すべてを遙香が請け負わねばならないのだとすれば、無理がある。それを確認するため、遙香は口を開いた。


「佐野さん」

「うん?」

「JDDへの報告は、誰かにお願いしてますか」

「あー、そんなのもあったか」


 会合が終わった直後と、会合が始まる直前に、宮園はJDDに赴いて報告をしていた。JDD向けの報告書作成には、遙香は関わっていない。すべて宮園がひとりで行っていた。


 遙香はアメリカのジェシー、イギリスのサラと連絡を取り合って、会合用の資料を作成するだけで手一杯だ。JDDの対応にまで時間を割く余裕はない。


 そう説明すると、佐野は「わかった」とうなずいた。


「それはこっちで何とかしよう。ハルちゃんは、出張の準備を頼んだよ」

「わかりました」


 佐野が席に戻って行った後、遙香はノートを開いて、やるべきことを書き出した。会合の場所と日程の確認、ホテルと航空券の手配、出席者が変更になることの連絡。この連絡は、誰にすればよいのだろう。


(まずはジェシーにメールしよう)


 一緒に会合に出席することになるはずのジェシーに、状況の説明をして、どんな準備が必要なのかを教えてもらおう。遙香は英語でメールを書き始めた。

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