父と娘 (2)
シェフは人好きのする笑顔で、大きな発砲スチロールの箱を抱えたまま挨拶をした。
「ご利用ありがとうございます。本日も、どうぞよろしくお願いします」
この箱の中に、食事の支度に必要な一式が入っているのだ。
「キッチンをお借りしますね」
彼は箱を抱えて、対面式のキッチンに入っていく。
そして、ふと姿が見えなくなったと思ったら、次の瞬間にはパリッとした純白のシェフコートとシェフ帽を身にまとっていた。玄関から入って来たときには、Tシャツ姿だったのに。まるで手品の早着替えのようだ。
何度経験しても、この着替えは不思議だった。このシェフには、これまでも数回頼んでいる。毎回、遙香が目を離した一瞬の隙に変身していた。いったい、どうやっているのだろう。
着替えを終えたシェフは、手際よくテーブルをセッティングした。シェフが持参するのは、食材だけではない。食器やカトラリーはもちろん、しわひとつないテーブルクロスとナプキンも持ち込んでいる。見る間にセッティングを終えると、「お待たせいたしました」と恭一郎と遙香に声をかけた。
食事の開始だ。
出てくるのはフレンチのコース料理。専門のレストランで食べるのと比べても少しも遜色ない、繊細な盛り付けで供される。キッチンで火を使っている様子がないにもかかわらず、温かい料理はちゃんと温かい。
オードブルを味わいながら、遙香は何となしに思い浮かんだ疑問を口にした。
「お父さんは、仕事で会食とかしないの?」
「たまにするよ。それがどうした?」
「こっちに来ると、いつも私と一緒に食べてるでしょ? だからそういうのないのかなあって、ちょっと思っただけ」
「ああ。夜はしない」
父の答えが意外で、遙香は食事の手をとめて目をまたたかせる。恭一郎は娘の様子に眉を上げ、皮肉げに笑って理由を説明した。
「夜の会食なんて、必ず酒が入るだろう。いくら仕事だからって、酔っ払いの相手なんかしたくないからなあ。そもそも酔っ払いが相手じゃ、まともに仕事の話なんてできやしない」
合理的かつ辛辣な父の本音に、遙香は「確かに」と笑ってしまう。
恭一郎は、基本的に飲酒しない。飲めない体質というほどではないが、強くもないらしい。いずれにしても、酒が好きではない。だから飲まないのだそうだ。
父が飲まないので、遙香も智基も酒に興味を覚えることなく、大人になってしまった。二人とも父と同様、ほぼ酒は飲まない。しかも遙香は、アルコールの味が苦手だ。飲みたくないので、飲み会では「飲めない」と言って通している。智基はもう少し要領よく、のらりくらりとかわしているようだが。
食事を進めながら、恭一郎は話題を変えて娘に質問した。
「遙香は今、何の仕事をしてる?」
「標準化」
「標準化? どんな仕事なんだ、それは」
いぶかしげな父に、遙香は「お父さんもJIS規格って聞いたことがあるでしょ?」と、岡田の受け売りで説明を始めた。
「それの国際版みたいな組織があって、今うちが開発してるシステムの仕様を国際標準として採用してもらうために、いろいろやってるの」
「へえ」
その後も恭一郎から水を向けられるまま、標準化の仕事内容を説明する。規格にするための叩き台を英語で作成すること、それを定期的に行われる国際会合に持って行って話し合いをすること、そうした活動をJDDの名前で行うこと。
「そうだ、後でお父さんにもJDDの名刺をあげる」
「そんなものがあるのか」
「うん、JDDが作ってくれた。英語と日本語、両方あるよ」
「ほう」
遙香の説明にときどき質問をはさみつつ、恭一郎は機嫌よく耳を傾ける。
「その会合ってのは、どれくらいの頻度なんだ?」
「だいたい三、四週に一回くらいかなあ」
「ずいぶん頻繁だな」
「うん。だから資料作成が忙しくて、結構大変なの」
「そうか。まあ、それは頑張るしかないな」
「うん」
話がひと区切りついたところで、恭一郎は笑みを消して真面目な表情を浮かべた。空気の変化を感じ取って、遙香は少しだけ背を伸ばす。
「それはそれとして、出張するときにはちゃんと連絡しなさい」
「え?」
何やら叱られているらしいことだけは感じ取ったものの、理由がわからず、遙香はきょとんとした。だが次の瞬間、父の心配事が何か思い至り、あわてて説明する。
「あ、大丈夫。私は会合には出てないから」
「ん? 資料を作って、それを会合に持って行くって話じゃなかったのか」
「ええっと、私は資料を作るだけなの。会合に出席するのは、宮園さんっていう担当部長なんだ。だから、私は出張しないよ」
「はあ? なんだ、それは」
遙香の言葉に、恭一郎は鼻の上にしわを寄せた。父のこの反応に、遙香は困惑する。安心させようと思って説明したのに、効果がなかったばかりか、逆に機嫌が急降下してしまったではないか。どうしたことだろう。
「ゴーストライターなんかやらされてるのか」
「え? 違うよ。ただの作業分担なんだけど……」
「そんなのは、作業分担とは言わない」
恭一郎は不機嫌そうな顔で吐き捨ててから、言葉を続けた。
「たとえば基礎研究の仕事で考えてみなさい。研究をして、論文を書いたとするだろう。その論文をあたかも自分が書いたかのように誰か別の者が学会で発表したとしたら、それを作業分担と呼ぶのかい? そんなものが作業分担のわけがない。功績を搾取しているだけだ。遙香がやらされてるのは、そういうことなんだよ」
例え話をされて、やっと遙香は恭一郎が何に対して怒っているのか理解した。父に納得してもらおうと、言葉を探す。
「でも、これは研究とは違うし、そういう仕事だから……」
「ほう。遙香の上司は、そう言ってるのか」
恭一郎はまだ治まらず、矛先を遙香の上司に向けた。自分の上司が非難されて、遙香は少々ムッとする。
「言ってない。仕事を受けるとき、ちょっと怒ってくれてたくらいだもの」
「口先だけなら何とでも言える」
ここまで言われてしまうと、遙香も対抗してムキにならざるを得ない。
「上のほうから名指しされて断れなかったって、部長も困ってたんだから。『常務に覚えられてるなんて、名前が売れすぎ』って、恨めしそうに言われたよ。どうしてそんな人に名前を知られてるのか、私だってさっぱりわかんないけど」
「常務?」
「うん。確か、鷲尾さんって言ってたかな。迷惑な人だよね」
「ん? 鷲尾さん……?」
恭一郎は眉を寄せて考え込んだかと思うと、不機嫌顔を一転させて、「そうか、鷲尾さんか」と深くため息をついた。父の機嫌が直って安堵したものの、なぜ彼が肩を落としたのかわからず、遙香は首をかしげた。




