父と娘 (1)
七夕も過ぎ、二週間ほどかけてジェシーと相談しながら標準化会議の資料を作成し終わると、次の会合が始まった。遙香の作成した資料を持って、また宮園が会合に出かけて行く。今回はスイスのジュネーヴだそうだ。
ITCFの会合は、数日かけて開催される。短いときは二日、長いと五日間ほど。だいたいは三日から四日のことが多い。そして間を二週間から三週間ほど空けて、次の会合が設定される。
遙香が忙しいのは、会合が終わってから、次の会合が始まるまでの間だ。会合から持ち帰った質疑に対する資料作成やら、次の会合へ向けて課された宿題の資料作成やら、とにかくひたすら資料を作らなくてはならない。もちろんすべて英語で。そしてそれを持って宮園が会合に出かけて行くと、その間は少しのんびりできるのだ。
というわけで、数日間ののんびりタイムが到来した。
定時で会社を出て、まっすぐ家へと向かう。しかし今日は、買い物はしない。夕食の支度は必要ないからだ。
玄関ドアを開けると、男物の革靴がひと揃い置かれていた。遙香より先に帰っていたらしい。自分の部屋に荷物を置いてから、リビングに向かう。
「ただいま」
「おかえり。早かったな」
「うん。今日は定時だから」
ソファーで新聞を広げているのは父、恭一郎だ。東京出張で泊まりに来た。
と言っても実家のある静岡から品川まで、新幹線を使えば一時間弱。普通なら十分に日帰り圏内である。にもかかわらず、恭一郎は仕事で東京に用事があると、いつもこの家に泊まる。おそらくは遥香のためなのだろう。彼がここに泊まるようになったのは、遥香が大学に進学してこの家を買ってからのことだ。それより前は、よほどの用事でない限り日帰りしていた。
今回は数日前に、二泊する予定だとメッセージが送られてきた。
夕食は父が用意すると言っていたので、遙香は何も準備していない。もっとも恭一郎の場合、「用意する」と言っても別に彼が料理をするわけではないのだが。
「食事は七時で頼んである」
「はあい」
それまでは、のんびり過ごしてよいということだ。
部屋から読みさしの洋書をとってきたところ、本を開く前に父が声をかけてきた。
「また英語の本か」
「うん」
「何の本なんだ?」
「ただのファンタジー」
「面白いのか」
「面白いよ」
中身を聞かれたので、本の表紙を父に向けてかざしてみせた。遙香のお気に入りの作家の本だ。邦訳も出ているが、彼女はいつも原書を読んでいる。父は表紙を見ただけで満足したらしい。内容にはそこまで興味がなさそうだ。
「遙香は、本当に英語の本が好きだな」
恭一郎のこのコメントには、遙香は返せる言葉がない。だから彼女はただ微笑んで、本を開いて続きを読み始めた。
遙香が英語の本を読み始めたのは、中学生になった頃のこと。別に英語が好きで読み始めたわけではない。何とかして読書をするための、彼女なりの苦肉の策だった。
けれどもその事情は、父にはあまり説明したくない。間違いなく胸を痛めるだろうから。
遙香は、もともと本の虫だった。ところが父が再婚した後、継母の真由美はそれに嫌な顔をした。遙香が本を読んでいると、必ず顔をしかめたものだ。
「そんなくだらない本を読んでないで、勉強しなさい」
真由美にとって、遙香が読む本は等しくすべて「くだらない本」だった。文豪として名の知れた作家による純文学だけは例外だったものの、遙香の好むファンタジーやヤングアダルトに分類される本は、読んでいるところを見つかると「またくだらない本を読んで」と叱られる。まして児童書などは論外だ。「小さい子じゃあるまいし。幼稚な本を読むのは、やめてちょうだい。その歳でそんな本を読むなんて、みっともない」と頭ごなしだった。
最初のうち、遙香は小言を聞き流していた。だがそうして読み続けていると、次第に真由美が激高するようになる。そして「いい加減にしなさい!」と折檻されるようになった。しかも、その折檻は少しずつエスカレートしていく。手で叩くだけでは済まなくなり、やがてものさしやモップで叩かれるようになった。本は読みたいが、痛いのは嫌だ。遙香は叩かれるのが怖くて、家では本が読めなくなってしまった。
でも、やっぱり読みたい。何とかして読みたい。そうして考えついたのが、英語で本を読むことだった。これなら「英語の勉強をしている」と言い訳が立つ。最初は市立図書館で、児童書の原書を探してきた。日本語で読んだことのある本なら、多少は読めるかと思ったから。でも難しかった。
学校の休み時間に辞書を引きながら格闘していると、英語教師が気づいて声をかけてきた。
「おや。相沢さん、原書を読んでるの?」
「はい。でも、難しいです」
「どれどれ。ああ、この本は少し硬い表現が多いからねえ。児童書とは言っても、割と難易度が高いんだよ。大学生でもそこそこ苦労するよ。ちょっと中学生には厳しいかなあ」
「そうなんですか?」
「うん。原書で読みたいなら、お薦めを教えてあげようか?」
「はい、お願いします」
こうして英語教師に教わった本を、父にねだって買ってもらう。最初の一冊は、最後まで読むのに半年かかった。たとえ時間がかかっても、完読できれば自信になる。次の本は三か月。
読み終わるたびに、次の洋書を父にねだっていた。だから恭一郎は、遙香が英語で本を読むのが好きなのだと思っている。遙香も本当の理由を話したことはなかった。
やがて、遙香が熱中症で救急搬送された、例の事件が起きる。それを引き金に、父は真由美と離婚した。真由美さえいなければ、遙香が普通に日本語で読書していてもケチをつける者などいない。
けれども、遙香はその後も英語の読書をやめなかった。すっかり習慣になっていたし、少しずつ楽に読めるようになるのが面白かったから。何より、邦訳が出る前にシリーズ最新刊を読めることに味をしめてしまっていた。
大学生になる頃には、一週間前後で一冊読み終えるくらいにまで速くなった。速いときには二日で一冊読み終えてしまったこともある。これまでに読んだ洋書は、なんだかんだと千冊近い。TOEICで900点をとれたのは、こうして続けてきた読書の結果なのだ。
そう考えると遙香の英語力は、真由美のおかげだと言えないこともない。絶対に言わないが。うっかり口に出したりしたら、きっと智基が烈火のごとく怒るに違いない。
遙香が本を読み始めてしばらくすると、夕食の支度をする人物がやって来た。訪問者は、ケータリングの出張シェフだ。恭一郎から「外食と家で食べるのと、どっちがいい?」と聞かれたので「家がいい」と答えたところ、こうなった。




