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七夕 (2)

 翌日の昼休み、食事から戻った帰りに、遙香は階段下の七夕飾りに立ち寄った。篠崎と千絵も一緒だ。短冊に書かれた願い事を休み時間に眺めるのも、この行事の楽しみのひとつなのだ。


 毎年、変わらず書かれるのは、部長や課長たちによる「無難な願い事」。


『商売繁盛』

『社運隆昌』

『社内安全』

『課内円満』


 などがある。多少はもじってあるものの、いずれも無難すぎて、神社での祈願に普通にありそうなものばかりだ。


 次にありがちなのが、私的な欲望を赤裸々に書いたもの。


『彼女ほしい!』

『今年こそ結婚できますように』


 などがある。その中に


『おばあちゃんが早く良くなりますように』


 のような、泣かせる系が混じっていたりもする。


 会社で書く願い事じゃないだろう、などという無粋な指摘は誰もしない。だって、そもそも七夕飾りを置くこと自体が、普通は会社じゃやらないことなのだから。


 篠崎は「おっ」と声を上げて、ひとつの短冊を指さしながら、遙香を振り返った。


「『JDD案が、国際標準に採用されますように』って、これ、ハルちゃんでしょ」

「そうですよ」

「真面目だねえ」


 千絵は別の短冊を指さして、笑い出した。


「うふふ、今年は妖怪っぽいのが混じってる。『人間になりたい』ですって」

「一生かかっても無理そうな願い事だな」


 無情にも篠崎が一刀両断にするのを聞いて、遙香も吹き出した。笑いながらも、気になる短冊を見つけてしまう。


「こっちにも不思議な願い事がありますよ。『添付品になりませんように』ですって」

「ああ。それは海外システムの誰かだろうねえ」

「そうなんですか?」

「うん」


 「添付品」が何だかわかっていない遙香に、篠崎は簡単に説明した。これはシステム部で使われている隠語だ。


「システムの納品時に現地に派遣される担当者のことを『添付品』って呼ぶんだよ」

「どうして『添付品』なんですか?」

「システムと一緒に出荷されちゃうからだね」

「うわあ……」


 もちろん、システムを担当したからといって、必ず出荷時に添付品になるわけではない。担当者が現地に派遣されるのは、納品時になってもシステムに不安定な部分が残っているような場合に限られる。何かあったときに、その場で開発部と連携して対応できるようにするための要員なのだ。システムが安定しているなら、必要ない。


 海外システムと篠崎が判断した理由は、国内よりも海外のほうが嫌がる者が多いからだ。取引先の国次第ではあるのだが、たとえば派遣される先が発展途上国だったりすると、出張中の不自由度合いが国内の比ではない。にもかかわらず、システムが安定するまでは帰って来られないのだ。神頼みしてでも回避したい気持ちは、よくわかる。


「海外って、ほんと、いろんな国があるからね」

「そうなんですか」

「発展途上国で、何の根拠もなくいきなりスパイ容疑で逮捕されたこともあるって、先輩から聞いた」

「えっ」


 ギョッとしている遙香に、篠崎は先輩社員から聞いた話を披露する。もうとっくに解決済みの話だとわかっていても、つい遙香は心配そうに尋ねてしまった。


「その人、大丈夫だったんですか?」

「うん。警察の汚職が蔓延してる国だから、賄賂をせびるために逮捕しただけだったのよ。だから、お金を渡せば即解決」

「えええ……」

「──なんだけど、その先輩、自腹を切って賄賂を渡すのはどうしても嫌だったらしくてさ」

「え。じゃあ、どうしたんですか?」

「その警官に食い下がったんだって。『領収書をください』って」


 思わず遙香は吹き出した。


「領収書なんて、もらえたんですか?」

「まさか。賄賂に領収書を出す馬鹿がどこにいるかっての。なのにその先輩、『経費で落とすのに必要だから、領収書をください。ここに金額を書いてサインするだけでいいから、お願いします』って、泣きそうになりながら必死に食い下がっちゃったのよ」


 そのせいで、解放されるまでに何時間もかかってしまったそうだ。最終的には、知らせを受けて駆けつけた現地法人の社員が、よろしく対処してくれたと言う。具体的にどのような手を使ったのかまではわからないが、警官に渡した金は経費として処理された。


 無事に解放されたと聞いて安堵しながらも、そこに至るまでの過程には心の中にもやもやしたものが残る。その気持ちは、つぶやきとなって遙香の口からこぼれ出た。


「発展途上国こわい……」

「先進国だっていろいろあるよー。その先輩、ニューヨークでもやらかしてる」

「そうなんですか?」


 篠崎は「うん」とうなずき、続けてもうひとつのエピソードを話し始めた。


「一眼レフを持ってったんだけど、『命の危険があるから、絶対にやめなさい』ってタクシーの運転手からこんこんと説教くらったらしい」

「どうして⁉」


 一眼レフと命の危険という予想外の組み合わせに驚くあまり、つい遙香は大きな声を上げてしまった。カメラを所持しているからといって命に危険が及ぶなど、どうにも因果関係がわからない。目を見開く遙香に楽しそうな笑みを向け、篠崎が説明した。


 それによると、その先輩社員は現地で写真を撮るために、一眼レフカメラを持参した。これには何の問題もない。


 日本に比べて治安が悪いと聞いていたので、ひったくりを警戒し、カメラはストラップで首から提げておいた。もちろんこれも、何の問題もない。


 寒い時期だったので、彼はコートを着ていた。だから、そもそもひったくりに狙われることのないよう、カメラをコートの内側に隠しておいた。このこと自体も、特に問題はない。


 問題だったのは、彼がタクシーに乗った後の行動だ。


 仕事が終わり、彼は納品先からホテルに戻るため、タクシーを拾った。そのタクシーの中で、ふと外の景色を写真に撮りたくなり、コートの懐からカメラを取り出す。そのとたん、初老のタクシー運転手は「うわああああああ‼」と盛大に悲鳴を上げた。その後、ものすごい勢いで何か叫び始めたが、早口すぎて、何を言っているのかよくわからない。


 先輩社員はタクシー運転手の奇行に面食らい、カメラを手にしたまま呆然と固まってしまった。大騒ぎしていた運転手は、やがてバックミラーに映る一眼レフを見て、落ち着きを取り戻したようだ。大きく息を吐いて、ようやく肩から力を抜いた。


「なんだ。カメラか」


 なんと運転手は、乗客がコートの懐から拳銃を取り出したと勘違いしていたのだ。


「あんなふうに、懐から黒くて重たそうな金属の塊を取り出したら、誰だって拳銃だと思うだろう!」


 運転手に叱られながらも、先輩は「普通は思わないんじゃないかな」と思った。ただし思っただけで、口には出さなかった。相手のあまりの剣幕に圧倒されていたからだ。しかし、運転手の説教は続く。


「相手が私だったからよかったようなものの、二度としちゃいけないよ。命がなかったかもしれないんだからね」


 先輩は「え、なんで?」と思ったが、こわいほど真剣な表情の運転手を見ると、聞くに聞けない。仕方なく、ぎこちなく首をかしげるにとどめた。彼の全然わかっていない様子に、運転手はため息をつく。そして説教を続けた。


()られる前に殺る主義の人間なら、相手が拳銃を取り出していると思えば、即座に自分から撃つだろう。正当防衛だ。そんなことで命を落としたくなければ、誤解されるような行動は慎みなさい。本当に危ないよ」


 いつでもマイペースな先輩も、これにはゾッとした。今度こそ神妙に「気をつけます」と返事をしたと言う。話を聞き終わった遙香も、震え上がった。


「ニューヨークこわい……」

「アメリカは銃社会だからねえ。世界は広いの。ほんと、いろんな国があるのよー」


 篠崎は笑いながら雑に話をまとめると、「さて、戻ろっか」とおしゃべりを切り上げた。


 * * *


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